5 / 32
灰色の世界の天上の青
04.宣戦布告
しおりを挟む
「司祭様は、私を買ったんじゃなきゃ、なんで私のことこうやって構うの?」
「私は、身寄りも行くところもないという女の子を捨て置けるほど、薄情な人間ではないつもりなのだが」
“竜屋敷”からの帰り道、やっぱりオーウェンに手を引かれながらヴィエナは気になっていたことを尋ねた。だが、オーウェンの返答はヴィエナがどうにも納得しがたいことで……。
「あ、わかった。司祭様ってロ」
「断じて違う」
言い切る前に即断され、むうっと口を尖らせるヴィエナをオーウェンが笑う。
「それともお前は、自分がまだ幼い子供だといいたいのか?」
「違うけど……」
それじゃやっぱりわからない。
それじゃ、自分を引く手が大きくて温かいことの説明がつかない。
「じゃあ、司祭様って暇なの?」
「……お前の教育をする時間くらいなら十分あるよ」
やっぱりわからなかった。
ぐ、と握る手に力を込めて引かれて、ヴィエナは顔を上げる。
「思ったよりも時間がかかってしまったな。急ぐぞ」
こくんと頷いて、ヴィエナも足を速めた。
そして、今日も夜が来る。
「し……司祭、様」
書物机に向かっていたオーウェンが振り向くと、続き間の扉の前に、枕を抱いたヴィエナが立っていた。
「どうした」
「く、暗いところ、怖いの……」
小さく震えながら、ヴィエナが俯く。
「何か、いそうで……こ、こっちの部屋にいても、いい?」
昨日の今日だ。相当恐ろしい悪夢だったのだろう。オーウェンはひとつ息を吐き、「構わないよ。ここで寝なさい」と、招き寄せるように手を伸ばした。
たたた、と走り寄るヴィエナをベッドに寝かせて、「“光あれ”」と神術で明かりを灯す。
「この聖なる光は夜の間ずっとお前を照らしてくれる。影はお前に近づけない」
煌々と自分を照らす光にようやく落ち着いたのか、ヴィエナは小さく頷いた。
「今夜も魔除けの結界を作っておこう。だからお前には常に戦神の輝ける剣の護りがある。闇を恐れる必要はない」
「うん……で、でも、司祭様」
「なんだ?」
「手、握ってて、いい?」
「ああ。いいよ」
優しく微笑まれ、ほっと息を吐いてヴィエナはオーウェンの手を握り締める。両手でしっかりと、確かめるようにオーウェンの手を握り、抱え込むように引き寄せる。
程なくして落ち着いた寝息が聞こえて、ヴィエナが眠りについたことを知らせた。
「……しまった」
この状態では、作業の続きができない。
片手をしっかりと握られ抱き込まれたまま、オーウェンはしかたないと溜息を吐いて、自分も寝てしまうことにした。
* * *
何か引っ掻くような小さな音と、歌うような声が聞こえてヴィエナの目が覚めた。既に夜は明けて、部屋の中に朝日が差し込んでいる。
昨夜は優しく抱き締められていたような気がして、怖いことなど何もなくぐっすりと眠ることができた。
起き上がってきょろきょろと見回すと、書物机に向かってオーウェンが小さく聖句を唱えながら何かを作っていた。
「……司祭様?」
ヴィエナの声にオーウェンが振り向く。「おはよう」と笑うオーウェンに、ヴィエナも「おはようございます」と返す。
「司祭様、何をしてるの?」
ベッドを降りて近づくと、オーウェンは銀色の円盤に、何か複雑な紋様を彫り込んでいるところだった。
「護符だ」
「護符?」
「そう。暗闇が怖いと泣く子供が、もう怖がらなくていいようにだ」
オーウェンの言う子供が誰のことかわかって、ヴィエナはむっと眉根を寄せる。くつくつ笑うオーウェンに、ぽんと頭をひとつ叩かれた。
「とはいえ、出来上がるまでに数日かかる。それまではこれを持っているといい」
オーウェンは傍らに置いてあった短剣をヴィエナに渡した。
「でも、私、短剣なんて使えないよ」
「これは護剣だ。戦神の護りの加護がある」
「護り?」
「護りだ。多少の邪なものや魔のものであれば、この剣を持つものには近寄れない。それと、ちょうどいい機会だ。お前に少し剣の使い方も教えよう」
短剣を受け取って、ヴィエナはぽかんとオーウェンを見つめる。
「なんで?」
「まったく扱えないよりは、少しくらい扱い方を知っていたほうがいい。ああ、だが、付け焼き刃で何かしようと思う必要はない」
オーウェンの言ってる意味がよくわからなくて、ヴィエナは首を傾げた。オーウェンは笑って、またぽんとひとつヴィエナの頭を叩く。
「無理に戦おうと考えることはない。だけど、何かの役に立つかもしれないから、学んでおいたほうが良い。
知識とはそういうものだ」
オーウェンの言葉を反芻しながらヴィエナは手の短剣を眺める。銀で細工された鞘と柄には細かい装飾と戦神の印の意匠が彫り込まれ、手にしっとりと馴染むようにも感じる。
「きれいだね」
「ああ。それは私の祖父から受け継いだものだ。もとは名だたる名工の手により鍛えられたものだと聞いている。刀身は鋼だが、柄と鞘は聖別した燻銀(いぶしぎん)とミスリルを使っているのだそうだ」
「へえ……」
だから、ひんやり冷たいはずの金属なのになんとなく温かいように感じるのか、と納得する。この温かく感じる何かが、神の加護というものなのか。
ヴィエナはしげしげと短剣を見つめながら、「司祭様、ありがとう」と呟いた。
──ありがとう、とは言ったものの。
少し早まったかもしれないと、ヴィエナはぜいぜい息を荒げながら考えていた。
朝の約束通り剣を教えるからと、動きやすい服で鍛錬場へと連れて来られた。
最初は木の剣で基本的な動きからだと、オーウェンに3通りの振り方を教えられて、その通りにやってみた。
が、オーウェンがやるとものすごく簡単そうなのに、自分でやるとどうにもできない。教えられた通りに動いてるはずなのに、身体がぶれてるとか腕が伸びてないとか足の向きが悪いとか、めちゃくちゃ目敏く見つけて注意されて、そこをピシッと木剣の平で叩かれるのだ。
「はじめてなのに、無理言わないでよ」
「はじめてだから、きちんと覚える必要があるのだ」
もう何十回目かの注意に、ヴィエナは目を潤ませて溜息を吐いた。
「もっと優しく教えてくれるんだと思ったのに」
思わず溢した言葉に、オーウェンが眉を上げる。
「十分優しく教えているが?」
ほんの少し休むだけですぐ動けと言われるし、息はぜいぜい切れてて脇腹だって痛いし、腕もだるくて上がらなくなってきたのにまだ続けろというし……オーウェンのいったいどこが優しいというのか。ヴィエナの眉尻が下がる。
「……お前は少し体力がなさすぎるようだ。この後、基礎体力を付ける運動もしよう」
「え」
このうえまだ何かやらなきゃいけないのかと、ヴィエナはちょっと本気で泣きたくなってしまった。本当に、オーウェンが優しいなんて評判はどこから出てきたのだろうか。
「大丈夫だ。お前の体力に合わせるから」
にこやかにそう言うオーウェンの笑顔からは、不安しか感じない。
昨日、オーウェンの妹だって言ってたじゃないか。“兄上はかわいがってくれるし甘えさせてくれるけど、だからって手加減してくれるわけじゃないんだ”……と。
絶対、基礎とかいうレベルじゃないに決まってる。
“基礎体力作り”は、ヴィエナの予想通りに基礎どころの話じゃなかった。
「あちこち痛くなってきた……」
ご飯を食べて、身体をきれいにして……疲れで眠ってしまいたいのに、関節はギシギシいうし腕も足も熱を持ったみたいにじんわりと痛くなって、どうにも眠れそうにない。
どうしようかと考えていると、オーウェンが戸棚から小さな壺を取り出した。
「ヴィエナ、袖をまくって、腕を出してごらん」
言われた通り、袖を引っ張り上げて腕を突き出すと、オーウェンが壺からクリームのようなものを指に掬い上げて、ぺたりと塗りつけた。
「臭い。司祭様、これ何? なんだか鼻につーんとくる」
「筋肉の痛みを和らげる塗り薬だ」
塗られたところがすうっと冷たくなるような、冷たいのに熱いような不思議な感覚がするが、確かに少し痛みが治まったような気もする。薬を塗って解すように軽くマッサージをされると、とたんにだるかった腕が軽くなったように感じてヴィエナは目を瞠る。
「すごく楽になったよ。でも、教会ってなんでも神術で治してしまうんだと思ってた。薬も使うんだね」
「神術で癒すのは簡単だが、それでは痛みに慣れる機会を失ってしまう。痛みは何も忌むばかりのものではない。己の限界を教えてくれるものでもあるのだ」
「ふうん」
「それなりに鍛錬を積んだ後で上を目指すというなら別だが、お前のように鍛錬を始めたばかりの者なら、神術には頼らずこうして自然治癒で治したほうがよいのだよ。
どこまでやると限界が来るのか、どのくらい痛いと動けなくなるのか、そういうことを知るのも必要なのだ」
「そうなんだ」
逆の腕は自分でやってみなさいと言われて、見よう見まねで薬を塗りたくる。ぐにぐにと揉んでみたが、痛いだけでさっぱりだるさは取れない。
「ぜんぜん気持ちよくない……」
「力を入れすぎだ。それではよけい傷めてしまうよ」
くつくつとオーウェンが笑いながら、どうすればいいかと教えてくれた。その通りに腕を揉んで足を揉んで、やっとなんとなくコツがわかった気がした。
「司祭様、背中もやって」
「ん?」
「背中も痛い。びきびきする」
「……わかった」
仕方ないなと、オーウェンからうつ伏せになるように言われてヴィエナは従う。手足が楽になった分、背中に痛みが回ってきたように感じていたのだ。
枕を抱え込むように無防備にうつ伏せになったヴィエナに、オーウェンは少し呆れたように溜息を吐いた。けれど、ふと、妹にもこうしてよく薬を塗ってやったことを思い出し、笑みが浮かぶ。
「では、薬を塗ろうか。上着を捲くるぞ。どのあたりが痛む?」
「うん。ええと、上の、骨のあたりかな」
「ああ、剣の素振りもしたからな」
そう言いながらオーウェンは肩甲骨のあたりを中心に薬を塗り広げていく。すうっとする感覚の次の熱いような感覚と一緒に、オーウェンの手が軽くマッサージをするように動くとだんだん楽になってきたらしく、ヴィエナがうとうと船を漕ぎ始めた。
これはすぐにでも寝てしまいそうだなと、オーウェンはまた笑みを漏らす。
なんだかんだと文句を言いつつも言われたように頑張るのは、ヴィエナが基本的に素直だからだろう。なかなかの負けず嫌いでもあるようだ。
ひととおり背中を揉みほぐし、服を戻そうとして、オーウェンはそれに気付いた。
──うっすらと、ヴィエナの背、ちょうど左肩の後ろのあたりに浮かぶ痣。
「これは……」
まるで何かを象る紋様のような痣に、オーウェンは眉を顰める。ぼんやりとしていてはっきりと何であるかがわかるわけではない。だが、とても普通の痣とは思えないだけの何かがある。
指で触り、それが確かに痣であることを確認し、オーウェンは小さく溜息を吐いた。やはりヴィエナは義弟の懸念どおり、“月の魔女”とやらに関わりがあるということなのか。
「……“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、この者に祝福を”」
聖印を押し付けるようにして、聖なる祝福を与える祈りを唱える。
だが、痣に変化は見られない。
「やはり」
この程度では無理か、と考えたと同時に、眠っていたはずのヴィエナがいきなりぐるりと振り返った。
無理やり首をめぐらせて、くっ、と嘲るような笑みをオーウェンに向ける。
『無駄だ。“定命の者”にこの印は消せぬ』
ヴィエナとは思えない嗄れた声に下方世界の言葉。蔑みを込めて自分を“定命の者”と呼ぶ、これは……。
「貴様は悪魔か?
“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、神の御手に輝ける剣にかけて、邪なるものよ、この世界より消えよ”」
『無駄だと言った。“定命の者”には消せぬ。せいぜい足掻け。お前が賭けに勝つことなどできぬ、愚かな魔女よ』
悪魔の尊大な言葉に、オーウェンは睨みつけるように痣とヴィエナを見比べる。
「──邪なる悪魔よ。この世界で、貴様の企みが成就することはない。我が戦神の聖なる御名にかけて、貴様は九層地獄界の業火の中に叩き返されるだろう。その時を待っていろ」
「私は、身寄りも行くところもないという女の子を捨て置けるほど、薄情な人間ではないつもりなのだが」
“竜屋敷”からの帰り道、やっぱりオーウェンに手を引かれながらヴィエナは気になっていたことを尋ねた。だが、オーウェンの返答はヴィエナがどうにも納得しがたいことで……。
「あ、わかった。司祭様ってロ」
「断じて違う」
言い切る前に即断され、むうっと口を尖らせるヴィエナをオーウェンが笑う。
「それともお前は、自分がまだ幼い子供だといいたいのか?」
「違うけど……」
それじゃやっぱりわからない。
それじゃ、自分を引く手が大きくて温かいことの説明がつかない。
「じゃあ、司祭様って暇なの?」
「……お前の教育をする時間くらいなら十分あるよ」
やっぱりわからなかった。
ぐ、と握る手に力を込めて引かれて、ヴィエナは顔を上げる。
「思ったよりも時間がかかってしまったな。急ぐぞ」
こくんと頷いて、ヴィエナも足を速めた。
そして、今日も夜が来る。
「し……司祭、様」
書物机に向かっていたオーウェンが振り向くと、続き間の扉の前に、枕を抱いたヴィエナが立っていた。
「どうした」
「く、暗いところ、怖いの……」
小さく震えながら、ヴィエナが俯く。
「何か、いそうで……こ、こっちの部屋にいても、いい?」
昨日の今日だ。相当恐ろしい悪夢だったのだろう。オーウェンはひとつ息を吐き、「構わないよ。ここで寝なさい」と、招き寄せるように手を伸ばした。
たたた、と走り寄るヴィエナをベッドに寝かせて、「“光あれ”」と神術で明かりを灯す。
「この聖なる光は夜の間ずっとお前を照らしてくれる。影はお前に近づけない」
煌々と自分を照らす光にようやく落ち着いたのか、ヴィエナは小さく頷いた。
「今夜も魔除けの結界を作っておこう。だからお前には常に戦神の輝ける剣の護りがある。闇を恐れる必要はない」
「うん……で、でも、司祭様」
「なんだ?」
「手、握ってて、いい?」
「ああ。いいよ」
優しく微笑まれ、ほっと息を吐いてヴィエナはオーウェンの手を握り締める。両手でしっかりと、確かめるようにオーウェンの手を握り、抱え込むように引き寄せる。
程なくして落ち着いた寝息が聞こえて、ヴィエナが眠りについたことを知らせた。
「……しまった」
この状態では、作業の続きができない。
片手をしっかりと握られ抱き込まれたまま、オーウェンはしかたないと溜息を吐いて、自分も寝てしまうことにした。
* * *
何か引っ掻くような小さな音と、歌うような声が聞こえてヴィエナの目が覚めた。既に夜は明けて、部屋の中に朝日が差し込んでいる。
昨夜は優しく抱き締められていたような気がして、怖いことなど何もなくぐっすりと眠ることができた。
起き上がってきょろきょろと見回すと、書物机に向かってオーウェンが小さく聖句を唱えながら何かを作っていた。
「……司祭様?」
ヴィエナの声にオーウェンが振り向く。「おはよう」と笑うオーウェンに、ヴィエナも「おはようございます」と返す。
「司祭様、何をしてるの?」
ベッドを降りて近づくと、オーウェンは銀色の円盤に、何か複雑な紋様を彫り込んでいるところだった。
「護符だ」
「護符?」
「そう。暗闇が怖いと泣く子供が、もう怖がらなくていいようにだ」
オーウェンの言う子供が誰のことかわかって、ヴィエナはむっと眉根を寄せる。くつくつ笑うオーウェンに、ぽんと頭をひとつ叩かれた。
「とはいえ、出来上がるまでに数日かかる。それまではこれを持っているといい」
オーウェンは傍らに置いてあった短剣をヴィエナに渡した。
「でも、私、短剣なんて使えないよ」
「これは護剣だ。戦神の護りの加護がある」
「護り?」
「護りだ。多少の邪なものや魔のものであれば、この剣を持つものには近寄れない。それと、ちょうどいい機会だ。お前に少し剣の使い方も教えよう」
短剣を受け取って、ヴィエナはぽかんとオーウェンを見つめる。
「なんで?」
「まったく扱えないよりは、少しくらい扱い方を知っていたほうがいい。ああ、だが、付け焼き刃で何かしようと思う必要はない」
オーウェンの言ってる意味がよくわからなくて、ヴィエナは首を傾げた。オーウェンは笑って、またぽんとひとつヴィエナの頭を叩く。
「無理に戦おうと考えることはない。だけど、何かの役に立つかもしれないから、学んでおいたほうが良い。
知識とはそういうものだ」
オーウェンの言葉を反芻しながらヴィエナは手の短剣を眺める。銀で細工された鞘と柄には細かい装飾と戦神の印の意匠が彫り込まれ、手にしっとりと馴染むようにも感じる。
「きれいだね」
「ああ。それは私の祖父から受け継いだものだ。もとは名だたる名工の手により鍛えられたものだと聞いている。刀身は鋼だが、柄と鞘は聖別した燻銀(いぶしぎん)とミスリルを使っているのだそうだ」
「へえ……」
だから、ひんやり冷たいはずの金属なのになんとなく温かいように感じるのか、と納得する。この温かく感じる何かが、神の加護というものなのか。
ヴィエナはしげしげと短剣を見つめながら、「司祭様、ありがとう」と呟いた。
──ありがとう、とは言ったものの。
少し早まったかもしれないと、ヴィエナはぜいぜい息を荒げながら考えていた。
朝の約束通り剣を教えるからと、動きやすい服で鍛錬場へと連れて来られた。
最初は木の剣で基本的な動きからだと、オーウェンに3通りの振り方を教えられて、その通りにやってみた。
が、オーウェンがやるとものすごく簡単そうなのに、自分でやるとどうにもできない。教えられた通りに動いてるはずなのに、身体がぶれてるとか腕が伸びてないとか足の向きが悪いとか、めちゃくちゃ目敏く見つけて注意されて、そこをピシッと木剣の平で叩かれるのだ。
「はじめてなのに、無理言わないでよ」
「はじめてだから、きちんと覚える必要があるのだ」
もう何十回目かの注意に、ヴィエナは目を潤ませて溜息を吐いた。
「もっと優しく教えてくれるんだと思ったのに」
思わず溢した言葉に、オーウェンが眉を上げる。
「十分優しく教えているが?」
ほんの少し休むだけですぐ動けと言われるし、息はぜいぜい切れてて脇腹だって痛いし、腕もだるくて上がらなくなってきたのにまだ続けろというし……オーウェンのいったいどこが優しいというのか。ヴィエナの眉尻が下がる。
「……お前は少し体力がなさすぎるようだ。この後、基礎体力を付ける運動もしよう」
「え」
このうえまだ何かやらなきゃいけないのかと、ヴィエナはちょっと本気で泣きたくなってしまった。本当に、オーウェンが優しいなんて評判はどこから出てきたのだろうか。
「大丈夫だ。お前の体力に合わせるから」
にこやかにそう言うオーウェンの笑顔からは、不安しか感じない。
昨日、オーウェンの妹だって言ってたじゃないか。“兄上はかわいがってくれるし甘えさせてくれるけど、だからって手加減してくれるわけじゃないんだ”……と。
絶対、基礎とかいうレベルじゃないに決まってる。
“基礎体力作り”は、ヴィエナの予想通りに基礎どころの話じゃなかった。
「あちこち痛くなってきた……」
ご飯を食べて、身体をきれいにして……疲れで眠ってしまいたいのに、関節はギシギシいうし腕も足も熱を持ったみたいにじんわりと痛くなって、どうにも眠れそうにない。
どうしようかと考えていると、オーウェンが戸棚から小さな壺を取り出した。
「ヴィエナ、袖をまくって、腕を出してごらん」
言われた通り、袖を引っ張り上げて腕を突き出すと、オーウェンが壺からクリームのようなものを指に掬い上げて、ぺたりと塗りつけた。
「臭い。司祭様、これ何? なんだか鼻につーんとくる」
「筋肉の痛みを和らげる塗り薬だ」
塗られたところがすうっと冷たくなるような、冷たいのに熱いような不思議な感覚がするが、確かに少し痛みが治まったような気もする。薬を塗って解すように軽くマッサージをされると、とたんにだるかった腕が軽くなったように感じてヴィエナは目を瞠る。
「すごく楽になったよ。でも、教会ってなんでも神術で治してしまうんだと思ってた。薬も使うんだね」
「神術で癒すのは簡単だが、それでは痛みに慣れる機会を失ってしまう。痛みは何も忌むばかりのものではない。己の限界を教えてくれるものでもあるのだ」
「ふうん」
「それなりに鍛錬を積んだ後で上を目指すというなら別だが、お前のように鍛錬を始めたばかりの者なら、神術には頼らずこうして自然治癒で治したほうがよいのだよ。
どこまでやると限界が来るのか、どのくらい痛いと動けなくなるのか、そういうことを知るのも必要なのだ」
「そうなんだ」
逆の腕は自分でやってみなさいと言われて、見よう見まねで薬を塗りたくる。ぐにぐにと揉んでみたが、痛いだけでさっぱりだるさは取れない。
「ぜんぜん気持ちよくない……」
「力を入れすぎだ。それではよけい傷めてしまうよ」
くつくつとオーウェンが笑いながら、どうすればいいかと教えてくれた。その通りに腕を揉んで足を揉んで、やっとなんとなくコツがわかった気がした。
「司祭様、背中もやって」
「ん?」
「背中も痛い。びきびきする」
「……わかった」
仕方ないなと、オーウェンからうつ伏せになるように言われてヴィエナは従う。手足が楽になった分、背中に痛みが回ってきたように感じていたのだ。
枕を抱え込むように無防備にうつ伏せになったヴィエナに、オーウェンは少し呆れたように溜息を吐いた。けれど、ふと、妹にもこうしてよく薬を塗ってやったことを思い出し、笑みが浮かぶ。
「では、薬を塗ろうか。上着を捲くるぞ。どのあたりが痛む?」
「うん。ええと、上の、骨のあたりかな」
「ああ、剣の素振りもしたからな」
そう言いながらオーウェンは肩甲骨のあたりを中心に薬を塗り広げていく。すうっとする感覚の次の熱いような感覚と一緒に、オーウェンの手が軽くマッサージをするように動くとだんだん楽になってきたらしく、ヴィエナがうとうと船を漕ぎ始めた。
これはすぐにでも寝てしまいそうだなと、オーウェンはまた笑みを漏らす。
なんだかんだと文句を言いつつも言われたように頑張るのは、ヴィエナが基本的に素直だからだろう。なかなかの負けず嫌いでもあるようだ。
ひととおり背中を揉みほぐし、服を戻そうとして、オーウェンはそれに気付いた。
──うっすらと、ヴィエナの背、ちょうど左肩の後ろのあたりに浮かぶ痣。
「これは……」
まるで何かを象る紋様のような痣に、オーウェンは眉を顰める。ぼんやりとしていてはっきりと何であるかがわかるわけではない。だが、とても普通の痣とは思えないだけの何かがある。
指で触り、それが確かに痣であることを確認し、オーウェンは小さく溜息を吐いた。やはりヴィエナは義弟の懸念どおり、“月の魔女”とやらに関わりがあるということなのか。
「……“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、この者に祝福を”」
聖印を押し付けるようにして、聖なる祝福を与える祈りを唱える。
だが、痣に変化は見られない。
「やはり」
この程度では無理か、と考えたと同時に、眠っていたはずのヴィエナがいきなりぐるりと振り返った。
無理やり首をめぐらせて、くっ、と嘲るような笑みをオーウェンに向ける。
『無駄だ。“定命の者”にこの印は消せぬ』
ヴィエナとは思えない嗄れた声に下方世界の言葉。蔑みを込めて自分を“定命の者”と呼ぶ、これは……。
「貴様は悪魔か?
“戦いと勝利の神の猛き御名にかけて、神の御手に輝ける剣にかけて、邪なるものよ、この世界より消えよ”」
『無駄だと言った。“定命の者”には消せぬ。せいぜい足掻け。お前が賭けに勝つことなどできぬ、愚かな魔女よ』
悪魔の尊大な言葉に、オーウェンは睨みつけるように痣とヴィエナを見比べる。
「──邪なる悪魔よ。この世界で、貴様の企みが成就することはない。我が戦神の聖なる御名にかけて、貴様は九層地獄界の業火の中に叩き返されるだろう。その時を待っていろ」
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
【完結】ヒロインに転生しましたが、モブのイケオジが好きなので、悪役令嬢の婚約破棄を回避させたつもりが、やっぱり婚約破棄されている。
樹結理(きゆり)
恋愛
「アイリーン、貴女との婚約は破棄させてもらう」
大勢が集まるパーティの場で、この国の第一王子セルディ殿下がそう宣言した。
はぁぁあ!? なんでどうしてそうなった!!
私の必死の努力を返してー!!
乙女ゲーム『ラベルシアの乙女』の世界に転生してしまった日本人のアラサー女子。
気付けば物語が始まる学園への入学式の日。
私ってヒロインなの!?攻略対象のイケメンたちに囲まれる日々。でも!私が好きなのは攻略対象たちじゃないのよー!!
私が好きなのは攻略対象でもなんでもない、物語にたった二回しか出てこないイケオジ!
所謂モブと言っても過言ではないほど、関わることが少ないイケオジ。
でもでも!せっかくこの世界に転生出来たのなら何度も見たイケメンたちよりも、レアなイケオジを!!
攻略対象たちや悪役令嬢と友好的な関係を築きつつ、悪役令嬢の婚約破棄を回避しつつ、イケオジを狙う十六歳、侯爵令嬢!
必死に悪役令嬢の婚約破棄イベントを回避してきたつもりが、なんでどうしてそうなった!!
やっぱり婚約破棄されてるじゃないのー!!
必死に努力したのは無駄足だったのか!?ヒロインは一体誰と結ばれるのか……。
※この物語は作者の世界観から成り立っております。正式な貴族社会をお望みの方はご遠慮ください。
※この作品は小説家になろう、カクヨムで完結済み。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結済】私、地味モブなので。~転生したらなぜか最推し攻略対象の婚約者になってしまいました~
降魔 鬼灯
恋愛
マーガレット・モルガンは、ただの地味なモブだ。前世の最推しであるシルビア様の婚約者を選ぶパーティーに参加してシルビア様に会った事で前世の記憶を思い出す。 前世、人生の全てを捧げた最推し様は尊いけれど、現実に存在する最推しは…。 ヒロインちゃん登場まで三年。早く私を救ってください。
記憶喪失の令嬢は無自覚のうちに周囲をタラシ込む。
ゆらゆらぎ
恋愛
王国の筆頭公爵家であるヴェルガム家の長女であるティアルーナは食事に混ぜられていた遅延性の毒に苦しめられ、生死を彷徨い…そして目覚めた時には何もかもをキレイさっぱり忘れていた。
毒によって記憶を失った令嬢が使用人や両親、婚約者や兄を無自覚のうちにタラシ込むお話です。
悪役令嬢ですが、当て馬なんて奉仕活動はいたしませんので、どうぞあしからず!
たぬきち25番
恋愛
気が付くと私は、ゲームの中の悪役令嬢フォルトナに転生していた。自分は、婚約者のルジェク王子殿下と、ヒロインのクレアを邪魔する悪役令嬢。そして、ふと気が付いた。私は今、強大な権力と、惚れ惚れするほどの美貌と身体、そして、かなり出来の良い頭を持っていた。王子も確かにカッコイイけど、この世界には他にもカッコイイ男性はいる、王子はヒロインにお任せします。え? 当て馬がいないと物語が進まない? ごめんなさい、王子殿下、私、自分のことを優先させて頂きまぁ~す♡
※マルチエンディングです!!
コルネリウス(兄)&ルジェク(王子)好きなエンディングをお迎えください m(_ _)m
2024.11.14アイク(誰?)ルートをスタートいたしました。
楽しんで頂けると幸いです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
逃げて、追われて、捕まって
あみにあ
恋愛
平民に生まれた私には、なぜか生まれる前の記憶があった。
この世界で王妃として生きてきた記憶。
過去の私は貴族社会の頂点に立ち、さながら悪役令嬢のような存在だった。
人を蹴落とし、気に食わない女を断罪し、今思えばひどい令嬢だったと思うわ。
だから今度は平民としての幸せをつかみたい、そう願っていたはずなのに、一体全体どうしてこんな事になってしまたのかしら……。
2020年1月5日より 番外編:続編随時アップ
2020年1月28日より 続編となります第二章スタートです。
**********お知らせ***********
2020年 1月末 レジーナブックス 様より書籍化します。
それに伴い短編で掲載している以外の話をレンタルと致します。
ご理解ご了承の程、宜しくお願い致します。
神様の手違いで、おまけの転生?!お詫びにチートと無口な騎士団長もらっちゃいました?!
カヨワイさつき
恋愛
最初は、日本人で受験の日に何かにぶつかり死亡。次は、何かの討伐中に、死亡。次に目覚めたら、見知らぬ聖女のそばに、ポツンとおまけの召喚?あまりにも、不細工な為にその場から追い出されてしまった。
前世の記憶はあるものの、どれをとっても短命、不幸な出来事ばかりだった。
全てはドジで少し変なナルシストの神様の手違いだっ。おまけの転生?お詫びにチートと無口で不器用な騎士団長もらっちゃいました。今度こそ、幸せになるかもしれません?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる