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1.そしてヒロインは途方に暮れる
10.偽物と偽物
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フィーが、自分に“前世の記憶”があることに気づいたのは十歳の時だった。
鏡を覗いた自分の顔に違和感を覚えて……そこで、自分が生まれる前、別な世界に生きていたころのことを思い出したのだ。
――しかし、思い出したといっても、全てではない。
断片的に残っているのは……その世界に生きていた頃は、小説や漫画にアニメ、ゲームといった娯楽が大好きな女の子だった、くらいの記憶だ。たしか、女子高と呼ばれる学校の学生だったとも覚えていて……けれど、それ以上は霞がかかったように朧げだった。
前世ではどんな人間だったかも、薄紙を隔てたようにぼんやりとして、はっきりとはわからない。
だから、フィーの自意識はフィーのままだった。
けれど、前世の自身のことはあやふやなくせに、前世の自分が好んでいた物語のことはよく覚えていた。
だから、これは“ヒロイン転生”ではないかなどと考えたのだ。
もちろん、確信があったわけではない。
何しろ、当時十歳の子供だ。
単に、自分の容姿が悪役よりヒロイン向きだと思ったから……だから、自分はヒロインなのだと思いついただけだった。そこにサレが現れなければ、そんなことは気の迷いだと、すぐに笑って忘れたはずだった。
「サレ様は、キノ=トー下位家の秘密の守護聖女様なの。
この町が“崩落”に呑まれるのを防いで、聖女の力を使い果たしてしまったから、皆の前に姿を表すことができなくなってしまったんだって言ってたわ。だから、キノ=トー下位家に匿われてゆっくりと回復してるんだって」
「――なぜ、聖女様がキノ=トー下位家に匿われることになるのです?」
「サレ様はキノ=トー下位家に縁のあるお方だからなの。内緒のことだし、キノ=トー下位家でも全員が知ってるわけじゃないわ。
それに、サレ様の姿は本当に誰にも見えていなくて……でも、お父さまはご存知だったの。キノ=トー下位家にサレ様がついてるって、お父さまはちゃんとご存知だったのよ」
スイとカーティスは顔を見合わせる。
カーティスはもちろん、スイも初耳だったらしい。
「聖女様は、たしかに“崩落”から町を救った後、神により天へと召し上げられたと伝わっております。けれど……少なくともわたくしは、聖女様がキノ=トー下位家所縁の方とは聞いたことがありません」
「お父さまは、キノ=トー下位家の秘密だから、他家の方々は誰も知らないとおっしゃっていたわ。わたしも、本来ならサレ様のことは教えられるはずじゃなかったの。でも、サレ様の姿を見てお話もできるから、わたしは特別な娘で、きっと、サレ様の後継になる資格があるんだって……」
俯いてぼそぼそと話すフィーは、父やその“サレ”の言葉もあって、自分はやはりヒロインなのだという思い込みを作っていったのだ。
サレ……つまり聖女の後継だから領主家の継嗣と結ばれる資格がある。たとえスイという婚約者がいても、フィーが聖女候補なのだからそれは正されるべき間違いなのだ、と。
「それに、サレ様が言ったんです。スイ様に気をつけろと。
最初は、ただ、わたしがヒロインでスイ様が悪役令嬢だから、いじめられないように気をつけろっていうことだと思ってたんです。
でも、サレ様が、スイ様は魔女で証拠もあるんだって教えてくれて……わたしは、魔女からヒーローと町を救うことがヒロインであるわたしの役目だったのかって……だから、サレ様が教えてくれるとおりに証拠を集めて、ソウ様に渡したんです」
証拠? と、カーティスが眉を寄せた。
「その証拠とは、どんなものだった?」
「ええと……」
カーティスに問われて、フィーは考え込む。
「たしか、黒革の本とか、変な模様の入った短剣とか、それに……気持ち悪い虫がたくさん詰め込んである箱とか……あと、猫とかの動物を殺して儀式をした証拠だっていう場所も教えられたわ」
「君はその物品に触ったか? もし触ったなら、どんな感じを受けた?」
「どんな……?」
真剣に尋ねるカーティスに、フィーは首を傾げながら思い出そうとする。
でも、どんな感じを受けたかと言われても……。
「気持ち悪いなあって思っただけだったわ。
虫の箱の蓋を開けちゃった時はさすがに悲鳴をあげたけど、そのくらいかしら。でも、それだけよ。
あとは、全部ソウ様に渡すからって使用人に厳重に梱包してもらったの」
「では、梱包した使用人に、その後何か変わったことは?」
「いえ、特には……」
フィーの答えに、カーティスは目に見えてほっと安堵の息を吐いた。
カーティスがいったい何を気にしているのかさっぱりわからないフィーは、ますます首を傾げる。
スイも気になったのか、「カーティス様」と口を開いた。
「フィー様の見つけたものが、何か?」
「――その物品や場所は、おそらくは濡れ衣を被せるために用意された偽物だったのでしょう。本当に魔女の悪しき儀式に使われたものであったなら、フィー嬢やその使用人に影響が出ていた可能性は高い」
「まあ……」
「偽物? 影響?」
「この町には司祭も魔術師もいないと聞いております。
だからこそ、偽物でもわからないと考えての手抜きなのでしょうが……手抜きでよかったと、今、猛きものに感謝を覚えずにいられません」
「何か、怖いことなの?」
フィーもスイも唖然とカーティスを見つめる。
単に気味が悪いだけのものから、どんな影響があるというのか。
「魔女と呼ばれるような輩が邪な儀式に使ったものには、悪意が宿ります。
繰り返し繰り返し使われればその悪意は次第に凝り、それ自身が悪の結晶と成り果てたあげく、触れたものをも邪悪に染め上げようと意思を持つようになるのです」
「――呪い、みたい」
ぶるりと震えて、フィーが呟いた。
スイも、幾分か青くなった顔でカーティスを見つめている。
「もちろん、それほどのものとなるにはかなりの年月が必要ですから、そんな物品はそうそう存在しません。
ですが、用意されていたものが万が一そういう穢れたものだったら、フィー嬢自身も危険でした。そうでなかったことを、善き神々に感謝してください」
カーティスはふっと笑って、片目を瞑った。
スイとフィーもほっと息を吐いて、かちかちに固くなっていた身体から力を抜いた。
「では改めて、フィー嬢。その、“聖女”を名乗るサレについて、知る限りのことを話してくれ」
フィーは小さく頷いて、サレと話したこと、サレが教えてくれたこと……自分の覚えている限りのあれこれを、ぽつぽつと話していった。
* * *
湿った薄暗い地下牢で、フィーの着ていた服に着替えてロープも猿轡も足枷も元どおりに付けて、ヴィンスは床に転がった。
その気になればそれら全部すぐに解けるけれど、フィーのふりをするのだから解いてしまってはまずい。
――と、鉄格子の嵌った厚い扉の向こうに人の気配を感じて、ヴィンスはちらりと目を向ける。牢番にしては物音ひとつ立てないのはおかしい。
まさか、処刑ではなく暗殺するつもりなのか。
ヴィンスは小さく身じろぎする。
すぐにロープを解いて起き上がれるように、そっと体勢を変える。
「“魔女”フィー」
女の声だった。
ほんの数日前、ヴィンスも直接耳にした、あの、胸が悪くなるような甘ったるい“フィー”の声だった。
「う……」
誰だと誰何したかったけれど、猿轡のせいでまともに喋れない。こんなことなら、もがいてるうちに解けたていで外しておけばよかったと、少し後悔する。
ガチャリと扉が開いて、小さな灯りに浮かび上がっているのは、薄い夜着を纏っただけの“フィー”だった。
“フィー”は蔑みと侮りを目に浮かべ、にまにまといやらしく嗤っていた。
「妾の可愛いフィー」
くつくつと嗤いながら、“フィー”はゆっくりとヴィンスに近づいた。爪先で軽く小突き、仰向けに転がったヴィンスの顔を覗き込む。
“フィー”は、今目の前にいるフィーが本物ではなく、ヴィンスであることに気付いてはいないようだった。
「可愛いそなたの声が聞こえないのはつまらないね。仕方ない、その縛めは取ってあげよう」
“フィー”は、力任せにフィーの猿轡を取り去る。
思い切り布が擦れて、頬がひりひりと痛みを訴えた。
「サレ様、なの? どうして、わたしを……」
ヴィンスはフィーらしく怯えた声で問いかける。
“フィー”はくっくっと喉を鳴らして嗤った。
スイの逃亡というトラブルを抜きにすれば、ここまで自分の思い描いたとおりにコトが進んでいると考えているのか。
どうしたらこの“フィー”の目的を得られるか、ヴィンスは必死に考える。
「安心おし。そなたには清いまま生きていてもらわねば困るのだよ」
「どういうことなの? サレ様、どうしてわたしにこんな酷いことをするの? 生かしておくって、どういう意味なの?」
「ああ、愚かなフィー……そなたは妾のための贄となるのだよ。
そなたを贄にすれば、あの方は妾の声を聞き届けてくれよう。取り零したものを捧げる妾を、あの方はきっと召し上げてくださる」
あの方? 贄? 取り零したもの?
さっぱりわからない。
召し上げるとは何のことなのか。
このサレという魔女は何がしたい?
「わからないわ。わたしを贄って? サレ様は何になろうとしているの?」
涙に目を潤ませるヴィンスの頬を、サレはゆっくりと撫でさする。
ときおり鋭い爪が頬を掠り、うっすらと赤い線を作った。
「本当ならスイを贄とするはずだったのだ。些細な狂いとはいえ、あの神の犬は許せぬ。後々報復をせねばならぬわ。
だが、予備のそなたが手元にあって、本当によかった」
「予備……?」
なら、最初からフィーは捨てるつもりだったのか。スイの処刑が遂行されていたら、フィーにいったい何が起こっていたのか。
ヴィンスが唖然と見返すと、サレがうっとりと目を細めた。
「そなたの魂は、おおいなる転輪を外れ、九層地獄界を統べる彼のお方の糧となることに決まっている。
愚かで可愛い、妾のフィー」
「え……?」
九層地獄界を統べる?
そんな存在、ヴィンスの知る限りひとつしかいない。
九層に分かたれた地獄界の最下層の主、すべての悪魔大公たちの頂点に立つもの。つまり、“大災害”を引き起こし、神格を得て“偽りと猜疑の神”となった、悪魔王とも呼ばれる悪魔大公のことだ。
なら、サレとは悪魔王カルトの魔女だったのか。
「取り零したって、もしかして、この町のこと?」
頭に浮かんだのは、“聖女”の護りにより“崩落”から逃れられたのだという、この町の伝説だった。もっとも、スイとフィーからほんのさわりを聞いただけで、詳しいことまではわからない。
けれど。
「“崩落”って……まさか、悪魔王のせい……だったの?」
辛うじてフィーのふりをしながら、ヴィンスは呆然とする。
まさか、悪魔王が関わるような事件だなんて思いもしなかった。どうりでカーティスに“神命”なんかが降るわけだ。
サレは立ち上がり、爪先でヴィンスを蹴り転がす。
「“定命の者”フィー」
ぎくりとヴィンスの身体が揺れた。
まさか、と嫌な汗が背に滲む。
人間に向かって、わざわざ“定命の者”などという仰々しい呼び方をするなんて、サレは、もしかしたら……。
「そなたは本当に妾の役に立ってくれた。そなたの魂が転輪を外れるのは三日後だ。あと三日で、妾は彼のお方のもとで神格を得る。
それさえ終われば、彼のお方に次ぐ九層地獄界第八層の支配者すらもが、妾に平伏することとなるのだ!」
三日後を待って、サレはフィーを贄に町を悪魔王に捧げるための儀式をする。魔術師でも司祭でもないヴィンスにはわからないが、サレの目論む儀式には三日後が最適だということなのか。
そして、その儀式の成功は揺るぎない未来となったのだと確信したサレの表情は、愉悦に歪みきっていた。
「愚かで可愛い、そして哀れなフィー。
それまで、残り少ない生を惜しみつつ過ごせよ」
くつくつと嗤いながら、サレは牢を後にした。
扉の向こうから気配が消えても、ヴィンスは身じろぎもせず、床に転がったまま動けなかった。
息を殺して、ただひたすらにじっと、サレの零した言葉を考える。
「まさか……まさか、サレは魔女なんかじゃなくて、悪魔なのか?」
この世界には多くの種族が存在する。だが、その中に他種族を“定命の者”などと呼ぶ種族はない。
数千年の寿命を誇る竜ですら、そんな風に他者を呼ばない。
ただ、“寿命無き者”と呼ばれる天使や悪魔、そして神々のような真に終わりなき生命を持つ者だけが、アケロン河のこちら側、地上に住まう限られた生に縛られる者を、“定命の者”と呼ぶのだ。
「――そんなの聞いてないんだけど」
悪魔が関わってるなんて聞いてない。このまま何もかも振り捨てて逃げ出したいくらいには、とんでもないことだ。
しかも三日後、サレはフィーを触媒に使って大規模な儀式魔術でも行うつもりなのだろう。何か対策をと言ったって、時間が無さすぎる。
「どう考えたところで、兄貴とシェーファー爺さん頼みじゃないか」
あの出自不明の“知性持つ剣”に何がどこまで可能なのか、ヴィンスはまったく知らない。カーティスだって知らないのかもしれない。
けれど、ほかにアテにできるものが何もない。
――どうかシェーファー爺さんが“聖剣”を自称するに相応しい力を持っていますようにと、ヴィンスはこれまでにないほど真剣に、天上のあらゆる神々へと祈ったのだった。
鏡を覗いた自分の顔に違和感を覚えて……そこで、自分が生まれる前、別な世界に生きていたころのことを思い出したのだ。
――しかし、思い出したといっても、全てではない。
断片的に残っているのは……その世界に生きていた頃は、小説や漫画にアニメ、ゲームといった娯楽が大好きな女の子だった、くらいの記憶だ。たしか、女子高と呼ばれる学校の学生だったとも覚えていて……けれど、それ以上は霞がかかったように朧げだった。
前世ではどんな人間だったかも、薄紙を隔てたようにぼんやりとして、はっきりとはわからない。
だから、フィーの自意識はフィーのままだった。
けれど、前世の自身のことはあやふやなくせに、前世の自分が好んでいた物語のことはよく覚えていた。
だから、これは“ヒロイン転生”ではないかなどと考えたのだ。
もちろん、確信があったわけではない。
何しろ、当時十歳の子供だ。
単に、自分の容姿が悪役よりヒロイン向きだと思ったから……だから、自分はヒロインなのだと思いついただけだった。そこにサレが現れなければ、そんなことは気の迷いだと、すぐに笑って忘れたはずだった。
「サレ様は、キノ=トー下位家の秘密の守護聖女様なの。
この町が“崩落”に呑まれるのを防いで、聖女の力を使い果たしてしまったから、皆の前に姿を表すことができなくなってしまったんだって言ってたわ。だから、キノ=トー下位家に匿われてゆっくりと回復してるんだって」
「――なぜ、聖女様がキノ=トー下位家に匿われることになるのです?」
「サレ様はキノ=トー下位家に縁のあるお方だからなの。内緒のことだし、キノ=トー下位家でも全員が知ってるわけじゃないわ。
それに、サレ様の姿は本当に誰にも見えていなくて……でも、お父さまはご存知だったの。キノ=トー下位家にサレ様がついてるって、お父さまはちゃんとご存知だったのよ」
スイとカーティスは顔を見合わせる。
カーティスはもちろん、スイも初耳だったらしい。
「聖女様は、たしかに“崩落”から町を救った後、神により天へと召し上げられたと伝わっております。けれど……少なくともわたくしは、聖女様がキノ=トー下位家所縁の方とは聞いたことがありません」
「お父さまは、キノ=トー下位家の秘密だから、他家の方々は誰も知らないとおっしゃっていたわ。わたしも、本来ならサレ様のことは教えられるはずじゃなかったの。でも、サレ様の姿を見てお話もできるから、わたしは特別な娘で、きっと、サレ様の後継になる資格があるんだって……」
俯いてぼそぼそと話すフィーは、父やその“サレ”の言葉もあって、自分はやはりヒロインなのだという思い込みを作っていったのだ。
サレ……つまり聖女の後継だから領主家の継嗣と結ばれる資格がある。たとえスイという婚約者がいても、フィーが聖女候補なのだからそれは正されるべき間違いなのだ、と。
「それに、サレ様が言ったんです。スイ様に気をつけろと。
最初は、ただ、わたしがヒロインでスイ様が悪役令嬢だから、いじめられないように気をつけろっていうことだと思ってたんです。
でも、サレ様が、スイ様は魔女で証拠もあるんだって教えてくれて……わたしは、魔女からヒーローと町を救うことがヒロインであるわたしの役目だったのかって……だから、サレ様が教えてくれるとおりに証拠を集めて、ソウ様に渡したんです」
証拠? と、カーティスが眉を寄せた。
「その証拠とは、どんなものだった?」
「ええと……」
カーティスに問われて、フィーは考え込む。
「たしか、黒革の本とか、変な模様の入った短剣とか、それに……気持ち悪い虫がたくさん詰め込んである箱とか……あと、猫とかの動物を殺して儀式をした証拠だっていう場所も教えられたわ」
「君はその物品に触ったか? もし触ったなら、どんな感じを受けた?」
「どんな……?」
真剣に尋ねるカーティスに、フィーは首を傾げながら思い出そうとする。
でも、どんな感じを受けたかと言われても……。
「気持ち悪いなあって思っただけだったわ。
虫の箱の蓋を開けちゃった時はさすがに悲鳴をあげたけど、そのくらいかしら。でも、それだけよ。
あとは、全部ソウ様に渡すからって使用人に厳重に梱包してもらったの」
「では、梱包した使用人に、その後何か変わったことは?」
「いえ、特には……」
フィーの答えに、カーティスは目に見えてほっと安堵の息を吐いた。
カーティスがいったい何を気にしているのかさっぱりわからないフィーは、ますます首を傾げる。
スイも気になったのか、「カーティス様」と口を開いた。
「フィー様の見つけたものが、何か?」
「――その物品や場所は、おそらくは濡れ衣を被せるために用意された偽物だったのでしょう。本当に魔女の悪しき儀式に使われたものであったなら、フィー嬢やその使用人に影響が出ていた可能性は高い」
「まあ……」
「偽物? 影響?」
「この町には司祭も魔術師もいないと聞いております。
だからこそ、偽物でもわからないと考えての手抜きなのでしょうが……手抜きでよかったと、今、猛きものに感謝を覚えずにいられません」
「何か、怖いことなの?」
フィーもスイも唖然とカーティスを見つめる。
単に気味が悪いだけのものから、どんな影響があるというのか。
「魔女と呼ばれるような輩が邪な儀式に使ったものには、悪意が宿ります。
繰り返し繰り返し使われればその悪意は次第に凝り、それ自身が悪の結晶と成り果てたあげく、触れたものをも邪悪に染め上げようと意思を持つようになるのです」
「――呪い、みたい」
ぶるりと震えて、フィーが呟いた。
スイも、幾分か青くなった顔でカーティスを見つめている。
「もちろん、それほどのものとなるにはかなりの年月が必要ですから、そんな物品はそうそう存在しません。
ですが、用意されていたものが万が一そういう穢れたものだったら、フィー嬢自身も危険でした。そうでなかったことを、善き神々に感謝してください」
カーティスはふっと笑って、片目を瞑った。
スイとフィーもほっと息を吐いて、かちかちに固くなっていた身体から力を抜いた。
「では改めて、フィー嬢。その、“聖女”を名乗るサレについて、知る限りのことを話してくれ」
フィーは小さく頷いて、サレと話したこと、サレが教えてくれたこと……自分の覚えている限りのあれこれを、ぽつぽつと話していった。
* * *
湿った薄暗い地下牢で、フィーの着ていた服に着替えてロープも猿轡も足枷も元どおりに付けて、ヴィンスは床に転がった。
その気になればそれら全部すぐに解けるけれど、フィーのふりをするのだから解いてしまってはまずい。
――と、鉄格子の嵌った厚い扉の向こうに人の気配を感じて、ヴィンスはちらりと目を向ける。牢番にしては物音ひとつ立てないのはおかしい。
まさか、処刑ではなく暗殺するつもりなのか。
ヴィンスは小さく身じろぎする。
すぐにロープを解いて起き上がれるように、そっと体勢を変える。
「“魔女”フィー」
女の声だった。
ほんの数日前、ヴィンスも直接耳にした、あの、胸が悪くなるような甘ったるい“フィー”の声だった。
「う……」
誰だと誰何したかったけれど、猿轡のせいでまともに喋れない。こんなことなら、もがいてるうちに解けたていで外しておけばよかったと、少し後悔する。
ガチャリと扉が開いて、小さな灯りに浮かび上がっているのは、薄い夜着を纏っただけの“フィー”だった。
“フィー”は蔑みと侮りを目に浮かべ、にまにまといやらしく嗤っていた。
「妾の可愛いフィー」
くつくつと嗤いながら、“フィー”はゆっくりとヴィンスに近づいた。爪先で軽く小突き、仰向けに転がったヴィンスの顔を覗き込む。
“フィー”は、今目の前にいるフィーが本物ではなく、ヴィンスであることに気付いてはいないようだった。
「可愛いそなたの声が聞こえないのはつまらないね。仕方ない、その縛めは取ってあげよう」
“フィー”は、力任せにフィーの猿轡を取り去る。
思い切り布が擦れて、頬がひりひりと痛みを訴えた。
「サレ様、なの? どうして、わたしを……」
ヴィンスはフィーらしく怯えた声で問いかける。
“フィー”はくっくっと喉を鳴らして嗤った。
スイの逃亡というトラブルを抜きにすれば、ここまで自分の思い描いたとおりにコトが進んでいると考えているのか。
どうしたらこの“フィー”の目的を得られるか、ヴィンスは必死に考える。
「安心おし。そなたには清いまま生きていてもらわねば困るのだよ」
「どういうことなの? サレ様、どうしてわたしにこんな酷いことをするの? 生かしておくって、どういう意味なの?」
「ああ、愚かなフィー……そなたは妾のための贄となるのだよ。
そなたを贄にすれば、あの方は妾の声を聞き届けてくれよう。取り零したものを捧げる妾を、あの方はきっと召し上げてくださる」
あの方? 贄? 取り零したもの?
さっぱりわからない。
召し上げるとは何のことなのか。
このサレという魔女は何がしたい?
「わからないわ。わたしを贄って? サレ様は何になろうとしているの?」
涙に目を潤ませるヴィンスの頬を、サレはゆっくりと撫でさする。
ときおり鋭い爪が頬を掠り、うっすらと赤い線を作った。
「本当ならスイを贄とするはずだったのだ。些細な狂いとはいえ、あの神の犬は許せぬ。後々報復をせねばならぬわ。
だが、予備のそなたが手元にあって、本当によかった」
「予備……?」
なら、最初からフィーは捨てるつもりだったのか。スイの処刑が遂行されていたら、フィーにいったい何が起こっていたのか。
ヴィンスが唖然と見返すと、サレがうっとりと目を細めた。
「そなたの魂は、おおいなる転輪を外れ、九層地獄界を統べる彼のお方の糧となることに決まっている。
愚かで可愛い、妾のフィー」
「え……?」
九層地獄界を統べる?
そんな存在、ヴィンスの知る限りひとつしかいない。
九層に分かたれた地獄界の最下層の主、すべての悪魔大公たちの頂点に立つもの。つまり、“大災害”を引き起こし、神格を得て“偽りと猜疑の神”となった、悪魔王とも呼ばれる悪魔大公のことだ。
なら、サレとは悪魔王カルトの魔女だったのか。
「取り零したって、もしかして、この町のこと?」
頭に浮かんだのは、“聖女”の護りにより“崩落”から逃れられたのだという、この町の伝説だった。もっとも、スイとフィーからほんのさわりを聞いただけで、詳しいことまではわからない。
けれど。
「“崩落”って……まさか、悪魔王のせい……だったの?」
辛うじてフィーのふりをしながら、ヴィンスは呆然とする。
まさか、悪魔王が関わるような事件だなんて思いもしなかった。どうりでカーティスに“神命”なんかが降るわけだ。
サレは立ち上がり、爪先でヴィンスを蹴り転がす。
「“定命の者”フィー」
ぎくりとヴィンスの身体が揺れた。
まさか、と嫌な汗が背に滲む。
人間に向かって、わざわざ“定命の者”などという仰々しい呼び方をするなんて、サレは、もしかしたら……。
「そなたは本当に妾の役に立ってくれた。そなたの魂が転輪を外れるのは三日後だ。あと三日で、妾は彼のお方のもとで神格を得る。
それさえ終われば、彼のお方に次ぐ九層地獄界第八層の支配者すらもが、妾に平伏することとなるのだ!」
三日後を待って、サレはフィーを贄に町を悪魔王に捧げるための儀式をする。魔術師でも司祭でもないヴィンスにはわからないが、サレの目論む儀式には三日後が最適だということなのか。
そして、その儀式の成功は揺るぎない未来となったのだと確信したサレの表情は、愉悦に歪みきっていた。
「愚かで可愛い、そして哀れなフィー。
それまで、残り少ない生を惜しみつつ過ごせよ」
くつくつと嗤いながら、サレは牢を後にした。
扉の向こうから気配が消えても、ヴィンスは身じろぎもせず、床に転がったまま動けなかった。
息を殺して、ただひたすらにじっと、サレの零した言葉を考える。
「まさか……まさか、サレは魔女なんかじゃなくて、悪魔なのか?」
この世界には多くの種族が存在する。だが、その中に他種族を“定命の者”などと呼ぶ種族はない。
数千年の寿命を誇る竜ですら、そんな風に他者を呼ばない。
ただ、“寿命無き者”と呼ばれる天使や悪魔、そして神々のような真に終わりなき生命を持つ者だけが、アケロン河のこちら側、地上に住まう限られた生に縛られる者を、“定命の者”と呼ぶのだ。
「――そんなの聞いてないんだけど」
悪魔が関わってるなんて聞いてない。このまま何もかも振り捨てて逃げ出したいくらいには、とんでもないことだ。
しかも三日後、サレはフィーを触媒に使って大規模な儀式魔術でも行うつもりなのだろう。何か対策をと言ったって、時間が無さすぎる。
「どう考えたところで、兄貴とシェーファー爺さん頼みじゃないか」
あの出自不明の“知性持つ剣”に何がどこまで可能なのか、ヴィンスはまったく知らない。カーティスだって知らないのかもしれない。
けれど、ほかにアテにできるものが何もない。
――どうかシェーファー爺さんが“聖剣”を自称するに相応しい力を持っていますようにと、ヴィンスはこれまでにないほど真剣に、天上のあらゆる神々へと祈ったのだった。
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