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5.はじまりの女神

“オリジン”

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 どんどん後ろに流れていく景色を確認しようにも、揺さぶられ過ぎてろくに視線を回せない。お腹に食い込む肩のせいか、呼吸も苦しくて目が回りそうだ。

「ヴィト……っ!」

 さっきから何度も呼んでいるのに、まったく反応はない。ただ、オージェを荷物のように担いだまま、ヴィトは走り続ける。

 このままじゃ、埒があかない。

 オージェは大きく息を吸い込み……思い切り、力任せに身体を捻って、自分を抱えるヴィトの腕を外した。
 ふわりと身体が浮く。
 その次の瞬間に石ころだらけの地面に叩きつけられたオージェは、もんどり打ってゴロゴロと斜面を転がった。勢いを増したオージェの身体は、少し先の大きな岩にぶつかってようやく止まる。

 硬い地面に叩きつけられた肩も、あちこち擦ったり打ったりしたところも、ずきずきひりひりと痛む。すぐに動くことも出来ず、その場に蹲ったままときおり激しく咳込みながら、ぜいぜいと呼吸を整える。
 じゃり、じゃり、と小石を踏む足音が近づいて、また、乱暴にオージェを抱え上げようとした。

「痛っ!」

 思わず上げた悲鳴に、オージェを抱き起こした腕がぴたりと動きを止めた。

「痛覚を遮断しろ」
「なに、言ってるの……? ヴィト、わたしのこと、忘れちゃった?」

 痛みとそれ以外のものに涙を滲ませて、オージェは顔を上げる。

「現在、痛覚は不要と判断する。擬似痛覚を遮断しても行動に問題はない」

 ヴィトの言葉はどこまでも無機質で、何の感情も伝わってこない。ヴィトの見ている自分は、まるで、その辺に転がる石ころと同じもののようだ。

「ヴィトがなにを言ってるのかわからないわ。痛覚を遮断なんてできるわけないじゃない。ヴィト、本当に人間じゃなくなっちゃったの? 本当に――」

 オージェがいきなりヴィトの首を抱き寄せて、唇を合わせた。
 別れる前に交わした、深いキスのように。

「ねえ、ヴィト。本当にわたしのこと忘れちゃったの?」

 口元しか見えない、のっぺりとした銀の画面に覆われた顔が、どんな表情を浮かべているのかわからない。
 ヴィトが、全然わからない。

「“オリジン”について、現在確認できるデータはすべて記憶領域メモリー複製コピー済だ」
「オリジンて何のこと? そんなの知らない……わたしはオージェで、“オリジン”なんて名前じゃないのよ」

 少し前まで、言葉以上にいろんなものを伝えてきたヴィトの声から、何も感じられなくなってしまった。

「お前は“姉妹シリーズ”の原型であり、“デーヴァ”の創造主たるラザン・マイスル博士に作られた“オリジン”である。人間の思考および感情、行動様式を忠実に再現した、最初の人間型アンドロイドであることに間違いはない」

 けれど、あくまでも平板な声で、ヴィトは告げる。

 ヴィトの言うことの半分も、意味がわからない。けれど、“アンドロイド”が自分のことを指す人造物だということは、じわじわと頭に染み込んでいく。

 再現?

 “再現”とは、つまりどういうことなのか。
 かたかたと震えだす自分の身体を、オージェは思わず抱き締める。

 そんなはずはない。
 だって、自分には、たとえ朧げでも子供の頃の記憶がある。母のことだって、覚えている。造られたものに、母なんていないはずだ。

「ねえ――ヴィト、本当になにを言ってるの? わたし、全然わからない」
「私はマイスル博士の作成した“原型オリジン”およびそのスペア“一番目エルスト”を参考に、“デーヴァ・レギナ”が作成した“二番目ツヴィット”である。落雷事故により発生した代替人格“ヴィト”は問題があるため、すでに消去された」
「しょう、きょ?」

 オージェは呆然と目を見開いた。
 さっきからヴィト……いや、ツヴィットの話している内容はとても難しいことばかりだけど、それでも、“ヴィトが消えた”ということは理解できた。

「どうして……」
「私のメンテナンスが終了し、“ヴィト”は不要となったためだ」

 淡々と述べるツヴィットの顔を、オージェは目を見開いたままひたすらに見つめる。声の調子は変わらない。

「不要って、そんな……そんなの、嘘だわ。何があってもわたしのこと好きだって言ったくせに、ヴィトの、嘘吐き」
「私に虚偽を述べる機能は無い。私は事実を述べている」
「――嘘吐き! ヴィトの馬鹿! ヴィトの嘘吐き!」

 パン、と頬を叩く音が鳴るが、ツヴィットの顔色は変わらない。
 痛がるでもなく、何か言い返すでもなく……ただ、再度オージェを担ぎ上げ、斜面を登り始めた。



 ヴィトが消去された。
 つまり、消された。あるいは、殺された。

 夢で見たように、ヴィトが自分にヴィトの何かを預けていてくれたのだったら、どれほど良かっただろう。実際は預かったものなんて何ひとつ無くて、何も言われずに置いていかれたのに。
 何があっても好きだと告げたヴィトの言葉は、嘘だったのか。
 オージェは唇を噛み締める。
 おまけに、オージェ自身が造られたものだなんて、とうてい信じられない。怪我をすれば血だって出るし……それに、医師であるガヴィの診察を受けた時だって何も言われなかったのに、そんなはずはない。
 ラザン・マイスル博士なんて知らない。

「お母さん……」

 ほら、こうして思い出すことだってできる。
 夜、なかなか寝付けない幼い自分のために、母が読んでくれた絵本の内容だって覚えている。父は……父は、たしか、軍の研究施設でとても大切な研究をしていて、滅多に帰って来なかったから、ほとんど覚えていない。
 小さな頃と、そこから四年前までの間の記憶は無くしてしまったけれど……。

 ほら、これで“オージェ・マイスル”よ。
 オー、ジェ、マ、イ、ス、ル……書けたよ、お母さん。

 どきん、と心臓が跳ね上がる。
 どうして、自分は記憶を無くしたんだろう。
 どうして、教えてもらった自分の名前が、“オージェ・マイスル・・・・”なんだろう。

 息が苦しい。

「……ど……して?」

 呆然としたまま、オージェは呟きを漏らす。

「どうして、わたし、記憶がないの?
 お母さんが絵本を読んでくれたのって、いつ?
 どこの、出来事なの?」
「記録によれば、マイスル博士はステーションの完成後、人工脳研究の第一人者として“デーヴァローカ”へ赴任した。その際、夫人と娘を伴わなかったため、“デーヴァローカ”にはふたりの記録が存在しない。
 博士は、赴任の後二十年間“デーヴァローカ”を出ることはなく、“オリジン”を完成させた。“デーヴァローカ”がこの“オル”と呼ばれる世界に現れたのは、その少し後、現在から約三百年前だ。故に、該当する記憶はそれ以前のものと推察される」
「――三百年?」

 オージェは息を呑む。

 だって、クラエスに拾われたのはもうすぐ十五になる歳で、直前の記憶はなくても、名前と歳だけは覚えていたのだ。
 そんなはずはない。

「“オリジン”は最短でも三百年より以前に完成している。故に、“オージェ”の記録も三百年より以前と推測される。時期についての齟齬は、記憶領域メモリーに何らかの損傷もしくは不具合があるためだろう」

 オージェを担いで走りながら、ツヴィットは淡々と続けた。
 もう、わけがわからない。

「――ヴィト」
「私は二番目ツヴィットで、擬似人格ヴィトではない」
「ヴィト、顔を見せて」
「この仮面は“デーヴァローカ”との通信補助を兼ねたものだ。非常時以外、外すなと厳命されている」
「見せてくれたら、ちゃんと一緒に行くから。だから、見せて。見せてくれなきゃ、全力で抵抗して暴れてやるから」

 しばらく考えて、ツヴィットは足を止めた。オージェを下ろし、自分の前に立たせて仮面を外す。
 下から現れた顔はたしかにヴィトで、なのに、オージェを前にして何の表情も浮かべていない。目の色からも、何ひとつ伺えなくて……顔はヴィトなのに、けれど、ヴィトじゃない。

「違う……」

 少しだけ期待したのに、ヴィトの顔をしたヴィトじゃないものがいた。

「ヴィト、本当に消えちゃったの……?」

 ヴィトはもういなくて、自分は人間じゃなくて、気が遠くなるくらい昔に造られた何かで、この自分だという意識も造られたもので……もう、どうしていいのかわからない。何を考えていいのかもわからない。
 このまま神王の前に連れていかれて、オージェの持っているという、神王の欲しがる何かを差し出して、それからどうなるのだろうか。
 ヴィトのことが解決したら、一緒に黒炎城で働いて、と考えていたのに。

「私のしてきたこと、全部、無駄だったのかなあ……」

 ツヴィットは何も返さず、ただ無言で仮面をつけてオージェを抱き上げると、また走り出した。



 ――メインモジュールに何か違和感を感じたような気がして、ツヴィットはシステムスキャンを試みる。メンテナンスを終えてすぐの任務だ。もしかしたら、調整が不足していたのかもしれない。
 腕に抱えた“オリジン”はすっかりおとなしい。
 自分で告げたように、ツヴィットの素顔を確認して満足したのだろう。それにどんな意味があるのか、ツヴィットにはまったく理解できない。
 だが、“オリジン”には意味のある行為だったのだろう。その、“意味”の内容が、少し気にならないでもない。

 “オリジン”の顔を見下ろして、ツヴィットは、なぜ、そんなことが急に気になったのかと考える。

 ――単に、ツヴィットの原型となった機械のくせに不可解なことを述べる、その理由や根拠が気になっただけだ。特段不思議なことではないだろう。

 機械とは合理的なものだ。意味のない行動や思考に時間を費やすなど、それが命令でもない限り、自発的に行うことはない。
 “オリジン”は、どうやら記憶領域メモリーに問題があるようだ。メンテナンスを受けることなく三百年稼働し続けたという点も見逃せない。
 故に、この程度の不可解な行動も思考も、十分に想定の範囲だと言えよう。

 “オリジン”の顔をじっと見つめながら考えて、ツヴィットは、何故、急にそんなことに注意が向いたのかと、小さく首を傾げた。
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