はじまりの女神とまつろわぬ神の子

ぎんげつ

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3.ケゼルスベールへ

月の夜

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 空から眺める湿原は見渡す限りの平原だ。

 地平まで広がる起伏の少ない土地に、イーターの身長よりもやや高い程度の木々や葦原が池や沼の合間に点在している、
 そして地平の向こうには、この湿原を作った川の源となる山々が、うっすらとした影になってそびえている。

「ねえねえ、あの馬はどうして水の上でも平気なの?」

 オージェの前に抱えられたイァーノが振り向いた。
 空飛ぶ獣の鞍は大きい。しかしヴィトとオージェのふたりだけならともかく、イァーノまで加わればさすがに窮屈だった。

「上を通る時だけ、水を凍らせられるみたい」
「ふうん。魔法かな?」
「たぶんね」

 興味津々に下を覗くイァーノがうっかり落ちないようにと、オージェが抱え直す。その外側からふたりを抱え込むように、ヴィトも手綱を握り直す。
 イーターの空飛ぶ獣は見た目こそ恐ろしいが、気性は穏やかで飛び方も安定している。慣れていない者でも、安心して乗っていられるくらいには。

呪術師シャーマンじゃないのにお空が飛べるなんて、思わなかった!」

 ふわりと空に浮き上がるなり、イァーノはうきうきと声を弾ませた。

「呪術師って、飛べるの?」
「ええとね、大鷲の守護精霊と契約できれば飛べるかもって、母さんが言ってた。大鷲に掴んでもらって飛ぶんだって」

 それはちょっと痛そうだな、とヴィトは苦笑する。オージェも、それは飛ぶっていうよりも、と言葉を濁す。

 たしかに、空を飛ぶのは気持ちいい。
 ヴィトだって、まさか、こんな獣に乗って飛ぶなんて思いもよらなかった。
 夢の中に出てくるナディアルは、いつも王宮の小さな部屋にこもって外を眺めていた。空を飛ぶ鳥や行き来する人々を、羨ましそうに。夢の内容が本当に起こったことなら、かつて、王子だったころの神王は幽閉されていたのだろうか……などと考えるくらいには。

 それにしても、なぜ自分がナディアルの記憶を知っているのか――考えてもさっぱりわからないのは、無くした記憶に秘密があるからなのだろう。
 自分を“二番目ツヴィット”と呼ぶあの女に尋ねれば、もう少しいろんなことがわかったのかもしれない。
 今となっては遅いけれど。



 ふと、ぐるりと周囲を確認して、ヴィトはわずかに目を眇めた。
 今まで移動してきたルートと距離、目に見える範囲の地形を観察し、獣を降下させてイーターの馬に寄せる。

「ヴィト?」
「降りちゃうの?」
「このあたり、蛙人グァーグの営巣地に近いと思うんだ」

 不思議そうに首を捻って振り返るオージェとイァーノに頷いた。

「どうした、ヴィト」
「イーターさん、このまま進むのはまずいかもしれない」
「ふむ」
蛙人グァーグか?」
「そう。少し止まって、方向を確認しないと」
「わかった」

 比較的乾いた場所を確保して、ヴィトはまたこの辺りの地形図を地面に描いていく。空から見えたものと自分の知る地形図を合わせた情報をだ。

「へえ、こりゃすごい」
「ヴィトは、とっても頭がいいのよ」

 瞬く間に地図を描いてしまうヴィトに、アカシュが感嘆の声を上げた。

 アカシュが知る限り、記憶だけでこんなに正確で詳細な地図を描けるなんて、軍国の諜報部にすらいるかどうかわからない。このヴィトという少年がいったい何者なのかが少しだけ気になったけれど、アカシュは尋ねたりしなかった。
 傭兵としての己の経験が、今以上の厄介ごとはやめておけと囁くからだ。そもそも、こんな危険な土地を横切るのに、まともな理由があるわけない。

「これでいくと、このあたりかこのあたりに、営巣地がありそうだな」

 アカシュの指が示した場所は、蛙人グァーグが好む、ある程度の広さの沼と葦原が広がる場所だった。

「このあたりに営巣地があったはずなんだ。けど、蛙人は季節で移動するし、そもそもこの地形も営巣地も、いつ時点のものかわからない。
 空から確認した限りでは、蛙人の影は見えなかったけど……」
「奴らは夜行性だからな。昼間は潜んでるとしたら、わからなくても仕方ない。それより、今夜をどうするかって話だ」
「うむ」

 イーターも、“蛙人グァーグ”がどうやらやっかいな人型生物ヒューマノイドだとわかって難しい顔になる。できれば急いで通過してしまいたいが、この人数では厳しい。
 空飛ぶ獣は、軽いとはいえさすがに三人乗せたままではさほど速く飛べないし、黒馬もアカシュとリコーを乗せたままでは無理が利かない。それに、リコーは竜と言ってもまだ幼体で、長く速く飛べるわけでもない。

「西の軍国よりなら、ここよりもう少し乾いてるし蛙人も少ないとは思う。ただ、国境が近いのは不安だ。それに、遠回りになるから、今と同じペースで進んだとしても三日から四日は余分にかかることになる」
「なるほどね」

 アカシュも考え込む。常なら数日間強行軍で進もうと主張するところだが、体力のない子供がいるのではそれも厳しい。

「リコーは、どれくらいの時間なら速く飛べる?」
「ええと……わかんない」

 もじもじと困ったように答えるリコーに、ヴィトは考える。この体格と年齢だ。長くて数分程度と考えたほうがいいだろう。

「なら、僕とリコーは交代しよう。僕の代わりにリコーが獣に乗るんだ」
「どういうこと?」

 オージェが不安そうに首を傾げる。

「万が一襲われた時は、少しの間だけでもリコーが飛べば、獣の背も軽くなるだろう? リコーと一緒に飛べるだけ飛んで、安全なところまで逃げるんだ」
「でも、それじゃヴィトたちはどうするの?」
「イーターさんもアカシュさんも戦える。だから戦いながら逃げるよ。僕は足手まといにならないように気をつけながら、だけど」
「ふむ、妥当だな」
「まあ、そうなるね」

 目を細めてじっと考え込むイーターと肩を竦めるアカシュに、オージェは思い切り顔を顰める。イァーノとリコーも、少し不安げに皆の顔を見回した。

「わかった。万が一のことになってもわたしたちは空から降りないから。わたしとイァーノとリコーなら、獣もそんなに重くないのよね」
「うむ。お前たち三人を合わせたよりも我の方がおそらくは重いな」
「だから、距離を置いて安全は確保する。わたしたちのことは気にしないで、その時になったら迷わずどっちにでも逃げてね。わたしたちが追いかけるから」

 大きく息を吐くと、オージェはにっこり笑ってヴィトの肩をポンと叩いた。イァーノとリコーも、繋いだ手をしっかりと握り合う。

「ヴィト、これ渡しておくわ」

 オージェはクラエスから借りた魔導銃をホルスターごと外して差し出した。受け取ったヴィトは、腰にそのまましっかりと付ける。

「こっちは大丈夫よ。あたしがついてるもの。竜は世界でいちばん強い生き物なんだから、何か来てもあたしの火で黒焦げにしてやるわ!」

 きゅっと目を眇めてぱかりと口を開けて、リコーは火を吐く真似をする。その首に抱き付いて、イァーノもふるりと尻尾を振った。

「私もいるんだし、リコーちゃんもいるの。だからこっちは大丈夫よ! あっくんは蛙が出てきたらさっさとやっつけちゃってね!」
「はいはい」

 苦笑を浮かべて、アカシュはぽんぽんとイァーノとリコーの頭を叩く。
 イーターはまるで気負うこともなく、肩を竦めただけだった。

「とりあえず、今日はここまで行って野営をしたらどうかなと思うんです」
「どれどれ」

 イーターとアカシュが地図を覗き込む。その横から、オージェも覗く。
 ヴィトが指したのは、営巣地を避けた少し北寄りの平地だ。水場からは離れているが、移動途中に汲んでおけば問題ない。

「ここなら、蛙人の営巣地になりそうな地形からは十キロは離れています。万が一見つかることは少ないんじゃないかなと」
「そうだね。数日間、十分離れるまでは火も控えめにして、夜番も置こう」

 アカシュも同意する。日はもう傾き始めているからと、すぐに夜番の順番も決めて、出発した。



 獣や馬たちのほうが気配に敏感だからと、黒馬も獣も“影の国”へ返されることなく、共に野営することになった。

 火は、お湯を沸かした後すぐに燠火にされて、今は炭の間でちらちらと赤く瞬くだけだ。リコーもイァーノも、獣の腹を枕に蹲るようにして眠っている。
 最初の番はヴィト、次はイーター、最後はアカシュだ。月が頂点を回るまではヴィトが周囲に気を配りながら起きていることになる。

「ヴィト」
「オージェ、君は寝ないと」
「大丈夫よ、そんなに疲れてないし。わたし、やっぱり丈夫なのよ」

 眠れないのか、それともヴィトに付き合おうというのか、オージェはヴィトの横に腰を下ろし、ぼそぼそと囁き声で会話をする。
 真っ暗な空には月がひとつ。ヴィトは、なんとなくその空が物足りないような気がして、ぼんやりと見上げている。

「何かあるの?」
「いや……空って、月だけだったかなと思って」
「やだ、夜の空に、月以外の何があるっていうの?」

 世界オルの空に月と太陽、それから雲以外に何かがあるわけがない。
 あるとすれば、せいぜい空を飛ぶ鳥くらいなものだ。なのに、何かが足りないと思ってしまうのはどうしてなんだろう。
 不思議だと考えながら、ヴィトは首を捻る。

「なんとなく、だから」
「たしかに黒一色じゃ、地味すぎてちょっとつまらないわね」

 オージェがくすくす笑う。
 つられて、ヴィトもほんのりと笑みを浮かべる。

「そうは言っても、虹みたいにいろんな色で輝いてたら、落ち着いて寝るどころじゃないだろう?」
「昼と夜が逆になりそう」

 ふたりでひとしきり笑いあって、それから、ヴィトは小さく溜息を吐いた。

「――巻き込んでごめん」
「何言ってるの。わたし、巻き込まれたなんて思ってないわよ?」
「でも、あの時、僕が連れ出しさえしなければ、オージェは危険な目に遭うこともなかったんだよ。今だって、まともに休むこともできなくて……」
「あのね、ヴィト」

 眉をきりりと上げて、オージェはヴィトの顔をぐいと引き寄せる。

「何度も言ってるでしょ? 今まで、戻るチャンスならいくらでもあったわ。嫌々巻き込まれたとかなら、とっくの昔に戻ってるわよ。
 わたしは、自分の意思で、ヴィトについてきたの」
「オージェ」
「それに、わたしって本当に頑丈なのよ。未だに風邪すら引いてないし、体力だって絶好調で、野宿続きだって問題なしよ。
 ね、わかった? わかったなら、もうそういうことは言わないで」

 得意げに笑うオージェの肩に、「ありがとう」と頭をもたせかける。オージェの強がりだとしても、強がってくれたことがうれしかった。

「本当のところ……オージェがいてくれてよかった。たぶん、僕だけだったら、ずっと前に挫けてたと思うから」
「なら、わたしがヴィトの元気の素ってことね」
「その通りだ」

 オージェの身体をぎゅっと抱き締めると、元気づけるように、オージェの手が優しくポンポンと背を叩いた。

「ごめん、もう弱音は吐かないし、無闇に戻れとも言わない。これが最後だ」

 笑顔を作って顔を上げて、誓いのようにヴィトが呟くと、オージェはにっこりと微笑んで頷いた。
 自分のすぐ目の前、吐息を感じる距離でじっと見つめて……ヴィトはその唇をそっと啄んだ。
 何度も啄ばむうちに、深いキスに変わり……。

「オージェ、君が、好きだ」

 たちまちオージェの顔が真っ赤に染まり、驚きに目が丸くなる。

「返事は、今じゃなくていい。もっと僕自身のことがわかってからで……いろんなことがちゃんと片付いて、僕が何者かわかって、それからでいいか――」
「ヴィト」

 ふふ、と笑うオージェが、言葉を遮ってキスを返す。

「ありがとう、うれしい」
「オージェ」
「それに、これも何度も言ってるけど、ヴィトはヴィトよ。だから、わたしも、たぶん、ヴィトが好き」

 うん、と頷いて、ヴィトはもう一度オージェの唇を塞いだ。


 * * *


「ふ、ふふ……」

 押し殺した含み笑いが、クー・レ・イーンの口から漏れ出した。
 王室付筆頭魔術師として呼び出され、いったい何かと恟々と出頭してみれば、“二番目ツヴィット”と呼ばれる神王そっくりな“人形”の追跡と監視を神王直々に任ぜられたのだ。
 クーの気分は上昇する一方である。

 クーはエルフ族だ。“魔術の伝道師メイナス”に率いられた一世代目のエルフ族ではなく、この世界オルに定着してから生まれた二世代目であるクーの寿命は、まだまだ何百年も残っている。
 その長い人生をかけたクーの目標は、永遠に歳を取らない自分のためだけの理想の少年従者を作ることだった。このケゼルスベール神政国の神王の魔術師になったのだって、“人形”と呼ばれるエルストやツヴィットの秘密を知るためだ。
 今のところ、完成したのは、変態の魂が入り込んでしまった失敗作トトだけではあるが、クーはまだ諦めていない。

「合法的にツヴィット様の監視ストーキング魔術かけられる日が来るなんて、最高じゃない?」

 呆れ顔だった荷物持ちのトトが、クーの続く言葉にパッと顔を上げて期待にキラキラと目を輝かせる。

「ああ、せめてあと三年分くらい見た目が若かったら言うことないんだけど、そこだけが残念だわ」
「ご主人様、ご主人様、僕にも映像見せてくださいね!」

 はあ、と吐息を漏らすクーは、弾むような声でおねだりをする少年姿の己の下僕をちらりと見やり、すげなく首を振る。

「あんたにはまだ早いわね」
「そんなこと言わず、ねえ、ご主人様。優しくしてあげますから」
「うっ……そんな媚びたって、騙されないわよ」

 トトの甘え声にクーの頬がぴくりと揺れた。

「そんなこと言って、嬉しいくせに」
「そ、そんなわけ……」
「ご主人様、僕の顔が好み過ぎて冷たくできないのはバレてるんですから、ポーズ取るのやめてくださいよ。ちょっとくらいならご奉仕してあげますから」
「なっ」

 なんという言い草か、と続けようとするが、トトの輝く笑顔をまともに見てしまったクーは、呻き声を上げて鼻を押さえたまま動けなくなってしまう。
 トトの笑顔が直球過ぎて辛い。この従者はあざと過ぎていけない。

「――しっ、仕方ないわね」
「やったー! じゃあ僕にも映像見せてくれますね!」
「少しだけ、少しだけなんだからねっ!」

 どうにかそれだけを返すクーの脚にしがみ付いて、トトは「ご主人様やっぱりチョロい」などと腰を擦り付けた。
 しかしクーはそんなこと一顧だにせず、これからどう呪文を組み上げて魔道具に転換するかと考える。

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