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番外編1 柳沢笑香の完璧な恋人

48.懐古八景 8

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「ああ。僕が親父の実家にいた時に住み込みで働いてたお手伝いさん。湯浅さんと同じように僕の面倒を見てくれて……。米のとぎ方から洗濯物の干し方まで、全部その人に教わったんだ。支倉さんがいなかったら、僕はこんなに自分の事が自分でできなかったと思うよ」

──住み込みのお手伝いさん。

 まるでドラマに出て来るような日常ではあまり聞かない言葉に、笑香は再度史郎の家が資産家であることに気がついた。
  観光客の列が流れる駅の出口を眺めながら、史郎は静かな声で続けた。

「僕にとっては親族なんかより、ずっと頼れる君のおばさんみたいな人で……。学校から帰った後は、いつも支倉さんがいる台所で用もないのにうろうろしてた。僕の話を聞いてくれて、いろんな話を聞かせてくれた。ただ……」

 まつげを伏せた史郎の横顔。その瞳に暗い影が宿るのを認め、笑香は胸がしめつけられた。きっとまた、これも彼の心の奥深くにある傷の一つに違いない。

「僕が五年生の時に足を悪くして。実家で働けなくなって、そのまま退職したんだ。──僕が学校のいざこざで骨折して、入院した後、君のいた家にもどって来たのはそのすぐ後だ」

 笑香は黙って史郎が話す淡々とした言葉を聞いていた。
 その時のことは自分も知っている。ずっと手紙のやり取りをしていた史郎の返事が来なくなり、笑香は内心、幼なじみの自分のことなどついに忘れてしまったか、と寂しい思いを抱えていた。だがその直後、母親から自分に伝えられた「史郎が帰る」という朗報に、笑香は心から喜んだ。その陰には、幼い史郎の苦悩に満ちた思い出の日々があったのだ。

「でもこの前、湯浅さんから連絡先を教えてもらって、支倉さんに電話したんだ。元気な声で、今は妹さんの家族と一緒に暮らしてるとかで、できる範囲で店の仕事を手伝ってるって。近くらしいから一度顔を見せに来いって言われたけど。……まだ行ってないな」

 再び懐かしそうなまなざしで、史郎はやって来たバスを見た。

 都内の朝のラッシュ時にも似た観光客の波に揉まれ、通勤電車同様のバスに乗る。観念したような顔で吊革につかまっている史郎にぴったりくっつきながら、笑香は今朝のことを思い出し、一人で勝手に赤面していた。
 他の客に押し流される形で目的地のバス停へと降りる。下りた先に笑香の目当ての七味唐辛子の店があり、笑香が喜んでかけよろうとすると史郎に腕をつかまれた。

「帰りにしてくれ。どうせ僕が荷物を持つことになるんだ」

 冷ややかともとれる史郎の声に、笑香はがっくり肩を落とした。

「あ、カフェもあるんだっけ……」

 店を通りすぎながら思わず漏らした笑香の言葉に、史郎がじろりと笑香を見る。笑香は深くため息をつきつつ、前に広がる仁王門までのゆるやかな坂道を上り始めた。
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