アフタースクール

ゆれ

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 嫌いなところが書けなかったのは、思いつかなかったから。嫌いになるほど彼女を知らなかったから。知ろうとしなかったから。

「いますよ」

 好きではなかったかもしれないが傷つけていいとも思わなかった。
 優しくなりたいのに。おなじだけの想いが返せないなら、せめて。









「いいから、開けろって!」
「やーでーすー」

 そう頑丈でもなさそうなドア一枚を内と外でひっぱり合ってもう何分経ったのか。ミシミシいうのが聞こえる。でもテレビでそこそこ年季の入った安アパートのドアでも元横綱が体当たりしてぶち抜けなかったから、俺達ぐらい余裕だろうとは確信している。それはかまわないが主に世間体的なあれであれだった。

 じわじわと閉じていくドアに、これだけはやりたくなかったが左足をガッと食い込ませてせき止める。それでも羽瀬川は全然容赦がなかった。ぎゅうぎゅう挟んでくるから靴越しでも普通に泣くかというほど痛い。

「あだだだだだちょっコレまじ痛てェってやめろよせまじでやめてください」
「先生が、足どかせば済む話でしょ、……ッ」

 意地でもこのドアを開けてなるものかと頑張っていたのが、急に手応えがフッと消えて全開になった。俺はバランスを崩して倒れそうになる、かわりにドアに肩を勢いよくぶつけたが、辛うじて踏ん張った。今日は痛い目に遭う日だなと遠く思う。素行が悪いのか。反論できない。

「痛ってえ……なした?」
「……んでもないです……」
 と言うくせ顔がいつにも増して真っ白で、腹のあたりをぎゅっと握り込んで壁際にずるずるくずおれるから焦った。

 勝手知ったる何とやら。図々しくあがり込んで冷蔵庫のでなく買い置きの常温の水を傍に置き、押し入れのほうをちらっと見遣って「布団敷くか?」と訊いた。羽瀬川はゆるくかぶりを振って、口許に手を押しあてる。くるしそうなのは見ればわかったが申し訳ないことに、きつく閉じられた瞼を縁取る、かすかにふるえる長い睫毛の先に涙がまるく結ぶ様子に、そんな場合じゃないのに俺は見入っていた。

 背をさすって、服の上からでも骨のこつこつさわるのにまた動揺する。17、8の少年ってこんな薄っぺらいものなんだろうか。高校入るまでは剣道やってたスポーツマンなのに、顔だけ見たらわからないがこいつ結構、痩せてるのかも。

「うっ……」
 低く呻くと羽瀬川は素早くトイレに駆け込んだ。

 何があったのか手掛かりをさがして周囲を見たらテーブルの上に薬瓶が転がっていた。別に不審なものでもなんでもない、どこでも買える胃薬だ。部屋の隅に置いてあるカラーボックスにもいくつか違う種類のものがあって、生まれつき弱かったりするんだろうか。他の用途では胃薬はあまり使うことはなかったように思ったが。

 しかしたかだか高校生がこういう薬の世話になっているというのも、あまり似合わないというのは偏見だが俺ですら滅多に飲まないのに。ああ見えてストレスを溜め込んでいるとか? まあ気軽に打ち明けられるような相手も、家族か友達というのがセオリーだろうから、羽瀬川にはちょっと縁遠そうな。

 すこしほっとしたような面で出てくると、羽瀬川はグラスに水をくんで口をゆすいでいた。二杯目に水を満たすタイミングで、寄ってって話しかける。

「体調悪いのか? いつからだ」
「……」

 さっき学校で見た感じ普通だっただけに突然何か不調に見舞われたとなると、重い病気だったらどうしよう。「飯食った?」尋ねるとうがいをやめ、ゆるりと目を逸らして「済ませました」と答える。

 俺がいつも通りに買い物してきたので申し訳ないと思ったらしかった。すこしは頭が冷えたようで安心する。何にキレたのかは知らないが、祖父江のことならまったく、ちっとも、これっぽっちも疚しくないので話してよかった。しかし羽瀬川は突いてこない。ちょっと考えるような仕種でぼんやりしている。

「お前そんなだし俺も今日はもう帰っから。布団敷くか?」
「いえ……」
「とりあえずこれ冷蔵庫入れとくな」
「――どうも」

 ふらふらと居間兼寝室である六畳間に戻ってテーブルに着く。ふるい畳はたまに靴下に刺さるが、羽瀬川は裸足でいることが多かった。台所も板張りだし冷たい筈だが気にする様子はない。客じゃないので俺もスリッパなど出されなかった。

「胃腸弱いのか?」
「……いえ」
「じゃあやっぱストレスかな……」

 俺だったりして。
 なーんてな、と続く冗談に決まっていたが羽瀬川は、そのでかい眼で俺をしばらくじーっと見詰めてから、徐にバックパックからA5のリングノートを取り出してテーブルに置いた。表紙には何も書かれていない。

「先生モテますね」
「……えっ?」
 衝動に駆られてノートに伸ばそうとしていた手を思わず引っ込める。

「なんだそれ。褒めても何も出ねえよ」
「褒めてません。事実を述べたまでです」
「は、はあ……」

 そうは言うが就職してからずっと家と学校の往復で、車通勤なので殆ど学外の人間と接する機会などなかった。買い物に行くか散髪に行くか、たまに病院に行くかそれぐらいだ。こうして振り返ると俺も羽瀬川のことを言えないくらい世界が狭い。
 
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