アフタースクール

ゆれ

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 顔と名前は一致するが親しいわけではないのか羽瀬川はひとことも発さず、祖父江もそれを責めることなく着衣を整えて、「先生さよーならー」といいこの真似して一人離脱した。麦わら帽子に軍手にジャージ。上から見たのとおなじ格好の羽瀬川が、そのでかい眼がじーっと俺を見ている。飛びかかる前の猫のようだ。

「イヤ誤解だぞ?!」
「まだ何も言ってません」
「……そ、そういやそうだな」
「淫行教師」
「!!」

 夢見るような顔立ちからとんでもない言葉出てきやがった。それに濡れ衣だ。すごく強いて言うならラッキースケベだ。別に喜んでもないが、いや轢き逃げのほうが感覚的には近いかもしれない。

 これでもかと何もなかったが来てくれてよかった。愁嘆場にでもなられたら長引くし、今度こそまずい人間に目撃されるところだった。今になって動悸がする。職を失うどころか街も出なければならないことになったら目も当てられなかった。

「だから違げーっつってんだろ……」
「いいじゃないですか、やらしてもらえば」
「お前は……どこでそんな言葉覚えてくんだよ。つーかなんであがってきた、」

 殆ど平生のまま無表情なのに、羽瀬川は傍にあった机をガン!と稲妻のような蹴りで吹っ飛ばすとスタスタ教室を出ていく。さしもの俺にもキレたんだとわかる、むしろ態度に出してきたのは初めてくらいで、さすがに慌てて追いかけた、ら、廊下に出た途端「泊先生」と声をかけられてまたびっくりした。

 俺が体罰でもしたと思われんじゃねえかこれ。という懸念はまったくの杞憂に終わった。音楽の久美先生が、にこにこと満面の笑みを浮かべていたからだ。

「この間おっしゃってたCD、今日届きましたんでお渡ししたいんですが」
「あ、ああ……どうも……」
「あら羽瀬川くん、草抜きもう終わった?」
「……はい」

 そういえば久美先生は園芸部の顧問だ。うちの学校は合唱も吹奏楽も音楽系の部活動が何故かない。その専門性が活かされる機会はないので生徒にも人気のある久美先生は、その分野に明るくなくても頼まれて快く引き受けたんだろう。職員室の机にいつも飾られている花は部員から贈られているのかもしれなかった。

 後片付けについて二三注意事項を伝達されると、羽瀬川は退場せざるを得なくなった。まだだいぶ険のある目つきをしておざなりに頭を下げると足音も高く階段をおりていく。これは、ちょっと放っとけない。俺の名誉にかかわる。

 細い背中が気配まで遠ざかってからチャットアプリで今日行くことを伝えたが返信はなかった。たぶん、きっと、入れてくれると信じたい。

「トラブルですか?」
「あー……いえ、大丈夫です」

 職員室でなく音楽室にあるというので同道することになった。授業で使う予定のCDを、ついでがあると言うので一緒に注文してもらったのだ。最近は洋楽人気も高いのか高校生でも英語に興味や自信があり、熱心に取り組んでくれて嬉しい。有難い。

 俺も大学のときオーストラリアのパースに旅行してすっかり惚れ込み、いつか移住したいと願うようにならなかったら、英検は取ってなかったし英語教師にもなってなかった。人生なんて案外そんなもんかもしれない。だって高校時代までの俺はとてもそんな未来が自分に待ち受けているとは、思いもしなかった。

 それにしてもあいつ、なんかすげえ怒ってた。ちょっと様子がいつもと違うように見えたが、あっそういえば机もどしてくんの忘れた。あとでやっとかないと。

「泊先生は……」
「はい?」
「どなたかおつき合いされてる方がいらっしゃるんですか」
「……」

 俺の聞き違い、では、なさそうだ。

(うーん……)

 当人同士をすっ飛ばして生徒間で既に噂があるとかないとか。歓送迎会兼ねた飲み会からこっち、なんかグイグイ来るなあとは思っていたが、これはビンゴなんだろうか。二人きりにならないよう気を付けていたのが水の泡だ、今になって別れた嫁のことをひきずって、と持ちだすのも白々しい。

 俺は二年前にそっと結婚し、一年前さらにそっと離婚した。手続き上必要な人にしか報せなかったし挙式も披露宴もしない入籍だけの婚姻だった、のが却って不可なかったのかもしれないと今は思う。体面というのは結構大事だ。もししていれば、もう別れたなんて恥ずかしい、いろいろ面倒くさいと決断を鈍らせて、まだ続いていた可能性もあったのに。

 未練はないが後悔はすこししている。親の薦めをあのときにかぎって丸呑みにして結婚を決めたことにだ。深く考えなかった。たとえば自分が結婚生活に向いている人間かどうか、人生においての優先順位、将来設計。などなど。

 どちらからともなく離婚話が持ち上がって、正しい道か見極めのために相手の嫌いなところを書きだして二人で見比べるというやつをやってみたが、一目瞭然だった。わりと忌憚なく多めに出してきたなという感じの元嫁に対し、俺は、ひとつも書けなかった。

「これがすべてね」と、彼女が最後に言い放ったひとことは今も胸に突き刺さって抜けない。
 
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