幾星霜

ゆれ

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 だって他に何と言えというのか。おめでとうが時期尚早なら他にかける言葉もない。「決まったら教えてくださいね」とも別に思わないのだ。招待状が送られてくる仲でもなし。大体いのりは昔から、推しであろうと結婚しても何も感じない。人としてあたりまえによかったねとは思うが、間違ってもロスなどには陥らない。

 大石は既に元彼で、連絡先も知らない程度の浅い知り合いで。薄情と思われているのなら、もういっそ、それでもいいかと諦める。現状に不満はない。仕事も楽しいし何とか生活はやりくりできているし、健康にも問題はない。ストレスが解消された所為か不調は改善して薬も今は、一時的にやめて様子見だった。喜ばしいことだ。

 逆に心に余裕ができたから雑念にとらわれるのかもしれない。こんなところで油を売ってないで、帰って仕事に行こう。それじゃ、と立ち去りかけたいのりを尚も大石は、名前を呼んで引き止める。

「あの、あたしほんとにそろそろ」
「危ねえことしてねェよな」
「はあ、まあ、たぶん?」

 せめてもの抵抗で特徴的な制服のジャンパーは脱いでいたし、顔面もどこにでもある造作だ。目が大きいくらいでとりわけ印象深くもない。髪の毛が派手色ということもない。他人事めいたいのりの曖昧な口調に、大石がすこし笑う。

「肉屋だけじゃなかったんだな」
「ええ」
「――今日はマジで助かった。ありがとうございます」

 取引先相手かのようにものすごく深く頭を下げてくるので慌ててしまった。大石の誠意はもう充分伝わっている。「やめてください」と小声で言ういのりに、かれは俯いたまま掠れ声でこう返す。

「いのりがいてくれて本当によかった」
「え……」
「美統ちゃんと俺を助けてくれてありがとう」
「い、いえ、そんな」

 なんだか頬が熱いな、と思っていると、顔を上げた大石が眉根を寄せた。ポケットをさぐって清潔なハンカチを差し出してくる。わけがわからずぼうっと見つめるいのりに焦れたように、かれがそれを頬に押しあてた。

 いのりがあげたハンカチに濡れた跡ができてしまっている。瞼をおろすと頬をなぞる感触があって、ようやく、それが涙だと思い当たった。

「なんで急に……? すいません、何でもないです」

 自分でもどういう情動が起こったのかよくわからないまま、ただ目縁を濡らしていくのでどうしていいのか困り果てる。変なの。何がスイッチだったんだろう、ほっとしたのかな。それらしい理由を振り返ってさがしていると、徐々に衝動が落ち着いてくる。本当に憑き物の仕業などではないかと思ってしまうほど、突発的な出来事だった。

「びっくりした」

 なんて泣いた本人が言うのもおかしいけれど。もしかせずとも、またハンカチを洗って返さないといけないみたいだ。値段はわかっているので現金払いで何とかならないかしら、と情緒もへったくれもないことを考えてひとりで笑ういのりより、大石のほうが、余程心の機微に敏感なのだろうか。

「いのり、やっぱ俺、諦めきれねえわ。もう一回チャンスが欲しい」
「……何の話?」
「俺がつけた傷は他の奴じゃ治せねェはずだろ」

 そこまで言われてやっと泣いた理由に合点がいく。どうやら本当に、自分で思っていたより傷ついていた。さっき涙を流したのは八年前のいのりだった。嬉しくても泣くことがあるんだとわらって、教えてくれた大石に心の中でありがとうを言う。

 しかしそこからこの展開にもってくる思考回路はいのりには謎だった。責任感が強いのか何なのか、昔のことにこだわりすぎている、ような。

「いやー、でも大石さん、今のあたしは殆ど知らないじゃないですか」
「それは今から知るんだろ」
「あたしだって大石さんのことよく知らないですもん」

 合コンのときはそれどころじゃなくて記憶もうすい。勤め先がわかる程度だ。あと煙草を吸って、ハンカチを常に携帯している。

「逆によく知らないのに断るなよ」
「でも知らないと付き合えないでしょ」
「見合いだってほぼほぼ知らねえところから始めんだぞ」

 一緒くたにしていいものかどうか、微妙なたとえを出してこられていのりは思わずうっと言葉に詰まった。でも予め両者に伴侶を見つけたいという意志があるとないとでは大きな違いがありそうな。いわゆる交際では悲しいかなそこまでの確約は存在しない場合が大多数だ。だが発展性まで含めると、準備段階とも言えなくもない。のかもしれない?

 大石に見繕ってこられた女性なのだから、縁談のお相手はきっと素敵なお嬢さんなのだろう。家柄もよく容姿もよく、申し分のない、なんとかのひとつ覚えみたいに姉の影が浮かんでどうしようもないなと自嘲する。それにひきかえ自然体丸出しのだらしないいのりは、詳しく知られたところで幻滅されるか、よくて心配されるかだろう。

「やっぱりやめません? 大石さん女に夢とか見ないほうがいいですよ。いい歳なんだし……」
「……お前さ、がっかりされることばっか考えて、自分ががっかりするとは思わねえの?」
「えっ」
「俺だってそんな完璧な人間じゃねえけど?」

 それともお前には、まだそんなふうに見えてんのかな。

 相変わらずいのりの好みど真ん中のご尊顔をニヤニヤと台無しに崩して、己の勝ちを確信している大石をぶん殴りたくなったのは初めてのことだ。これも流れた年月のもたらしてくれた成長なのだとしたら、身を任せてみるのも面白いかもしれない。ゆっくりと右手をグーにしていくいのりは、久し振りに楽しくて、あそびにしか見せない心からの笑顔を知らず浮かべていた。

 黒髪の陰で大石の白い耳たぶが色づいたのも、当然の如く気づかなかった。



 
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