60 / 67
ああ、失敗
06
しおりを挟む幸せを願う、なんて耳触りよく言いながら晴は来夢を捨てた。捨てさせられたのかもしれない。とにかくもう終わってしまったが別に生きているし元気に働いて食べて寝ている。死ぬほどのことじゃない。もう二度と恋はしないとも特に思ってない。
晴に言えるのはここまでだった。あとは巻嶋の理性に賭けるしかない。すっかり化粧も崩れ、とんでもない顔になった亜希子がすんと鼻をすする。縛られているわけでもないしいくらでも目は盗めると思うのだが何もしないマスターは胸の前で祈りのかたちに手を組んで震えている。憐憫の視線を感じながら、依頼人を見つめていた晴に彼が静かに問うた。
「それで、お前はどうするんだ」
意外な同志と巻嶋のほうも思ってくれたのだろうか。すこし笑って晴は別の相手をさがすと答えた。自分でも驚く前向きな言葉はたしかにこのくちから出てきた。もう大丈夫だ。誰かにそう言われた気がして、もう一度、何かをかみしめるようにわらう。
「マジで悪運強えなぁ冬原」
「そう、ですかね~」
曖昧な返事にも頓着せず、現がからになったコップに赤い缶のビールをなみなみ注いでくれる。つまみはサーモンのマリネと焼き鳥。帰りがけにデパートの地下売り場で調達してきた。ちいさな祝賀会にはちょうどいいレベルの贅沢だ。
あのあと巻嶋はナイフをおさめておとなしく帰ろうとしたのだが、やはり誰かに通報されていたようで駆けつけていた警察官に連れていかれた。亜希子は二発ほど殴られたが他にはこれといった被害もないので、彼女が訴えないかぎり大事にはならないだろう。慰謝料は発生するかもしれないけれど、そもそもは不貞が原因なので示談で済ませるのではないかと車は言っていた。
そのうちどちらかに雇われた弁護士に提出することになるかもしれないため報告書は最後まで公平に作成して、経費の事務計算は明日に延べて現の家で晴の無事に祝杯を挙げているところだ。事務所のみんなも騒動について知っていて、へろへろになって帰った晴をめいっぱい心配して労ってくれた。
「まあでもよかったです。なんか、説得って難しいすね」
「そうな。まず相手に自分の言葉は信用できると思わせなきゃならねえしな」
「あー」
「そういう意味じゃ大して知らない奴のほうがやり易いかもしれねえけど、逆に他人にとやかく言われたくないって奴もいるからさ。見極めが特にな」
これはちょっと様子のおかしい依頼人に当たったときにも言えることなので現の台詞にはやたら実感がこもっている。掘り下げれば掘り下げるほど今回はたまたま運よく成功しただけという気がして、晴は今頃になって身震いする。巻嶋がおとなしい男でよかった。キレられて最初の犠牲者になったかもしれない運命もきっと存在していたのだ。あの時点では。
「……何も考えてなかったです、今思うと」
「享年28にならずに済んだのはラッキーだわな」
「イヤほんとに……俺もっと徳積みます」
「ぶはは!」
真面目に言ったのだがひっくり返って笑っている現を横目に、ちびちびとビールを飲む。飲めないのではなく逆に酒豪なので飲みたいだけ飲むと大変なことになるのだ。車からは体調に変化があるかもしれないので念のため明日は休みでもいいと言われているが、体感ではそんなこともなさそうなので行くつもりでいる。メンタルは弱いほうじゃないけれど深酒はしないよう現のぶんも晴がきっちり眼を光らせていた。
巻嶋はどういう選択をするのだろうか。亜希子が反省したかどうかは晴にはよくわからなかったがあんな事件になってしまっては、恐らくアルバイトはクビになるだろうしマスターとの関係も終わりだろう。元の鞘に戻るのだろうか。
結婚という社会的にも明確な関係を築いていたのだから、もし解消するとなれば諸々面倒も生じる。特に財産は、亜希子は専業主婦だったため多くを求めるに違いない。かなり贅沢な暮らしぶりだったのだ。まず素直に応じるかどうかも不明だろう。
他人事ながらうんざりして晴は考えるのをやめにした。俺はまだ恋人だったし、結婚も見込めなくてよかったと初めて思った。そして自分が万が一誰かと家庭を持つときは充分すぎるほど調べてからにしようと心に決める。浮気をするような女性は絶対駄目だ。どんなに美人だろうと御免こうむる。
「なんで人間って浮気するんすかねぇ……」
動物も、たとえば猫はオスは交尾するだけで子育てには参加しない。というか野良などは一緒にもいないだろう。犬も然り。それを思うと鳥はきちんとつがいで巣を構えたりして、仲睦まじくていいなあと思う。巻嶋夫妻も三年前はそうだった筈なのに、淋しいとかかまってほしいくらいの切っ掛けで裏切らないでほしかった。自分勝手な自分可愛いだけの動機に我が事のようにムカムカする。
「冬原、あんま入れ込むなよお前。たまたまタイミングが合っちまったな」
「わかってます」
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
バイバイ、セフレ。
月岡夜宵
BL
『さよなら、君との関係性。今日でお別れセックスフレンド』
尚紀は、好きな人である紫に散々な嘘までついて抱かれ、お金を払ってでもセフレ関係を繋ぎ止めていた。だが彼に本命がいると知ってしまい、円満に別れようとする。ところが、決意を新たにした矢先、とんでもない事態に発展してしまい――なんと自分から突き放すことに!? 素直になれない尚紀を置きざりに事態はどんどん劇化し、最高潮に達する時、やがて一つの結実となる。
前知らせ)
・舞台は現代日本っぽい架空の国。
・人気者攻め(非童貞)×日陰者受け(処女)。
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
記憶喪失の君と…
R(アール)
BL
陽は湊と恋人だった。
ひねくれて誰からも愛されないような陽を湊だけが可愛いと、好きだと言ってくれた。
順風満帆な生活を送っているなか、湊が記憶喪失になり、陽のことだけを忘れてしまって…!
ハッピーエンド保証
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる