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ああ、失敗
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しおりを挟む費用をかけたくない場合は一件の調査で切り上げるが巻嶋は余罪も無いか継続してほしいとたしかに言っていた筈なのだ。車も、現時点でバイト先や浮気相手が判明しているため、調査しづらくなるような行為は控えるよう予め巻嶋に頼んだだろうに。
やはり辛抱に限界が来てしまったのかもしれない。夫妻は現状別居しているわけじゃない。浮気しているとわかっている妻が、家の中でぬけぬけと平生と何ら変わらず過ごしていたら、晴でもちょっと腹が立つ。この野郎と思うのも道理だ、けれど、さすがにここまでの大胆な行動は発想になかった。
店内をこっそり見回す。客は大学生カップルと女性の二人連れ、年配の男性ひとり、それに晴の四組。あとは亜希子とマスターの他にもうひとり年嵩の女性店員がいるだけだった。
「あ」
二人連れのひとりが声をあげたので巻嶋が一瞥する。外からこの異常事態に目敏く気づいたらしい通行人がスマートフォンを店の中へ向けていて、巻嶋が慌ててマスターにシャッターを下ろすよう命じたがたぶん手遅れだった。どうせ時間をかけるつもりはないのかもしれない。チッと舌を打ち、夫は軽薄な妻の胸倉を掴んで持ち上げる。
「このアバズレが……お前のせいで俺の人生むちゃくちゃだ。こんなジジイと浮気しやがって信じらんねえ」
「くっ……ごめ、なさ」
「いまさら謝っても遅えしそれで許してもらえると思ってんのか!! バカ女が!!!」
ガツ、と激しい音がしてナイフのグリップエンドで亜希子が殴られた。こめかみを鮮血がつうっとつたい落ちていく。マスターはカウンターの中にいて、さがそうと思えばいくらでも武器を見つけられるのにそれもせず、庇いもせず、ただただ青い顔で立ち尽くしている。浮気相手なんて所詮この程度なのかもしれない。本当に彼女は見る眼がなかったんだな、と憐れむ。
「許して、あなた……こんなことやめて……」
「うるせえ」
と遮りまた妻を殴った。おとなしそうで理知的な男なのに完全に怒りで我を失っているようだ。亜希子の動揺ぶりからも日頃から暴力を振るわれているとは思えない。取り敢えず落ち着かせたら、なんとか説得できないだろうか。晴は他の客が何かしでかさないかそれとなく目を配りながら必死に考える。
人生がむちゃくちゃになったなんて、まだ断言するのは早い気がした。仕事はバリバリやっていたようだし、だからこそ多忙で妻がよそ見をしてしまったのだ。命までは奪ってない今なら世間も同情的に見てくれるだろう。嘘か本当かわからない涙をにじませた亜希子にもう一撃食らわせようとした巻嶋に、晴は慌てて声を掛ける。
「待て! 待ってくれ、それ以上その人を殴ったらあんたの心証が悪くなるだけだ!」
「……お前も亜希子のオトコか?」
「違う。俺はあんたを助けたいんだ」
「俺を?」
「なんていうか、その……俺も、つい最近恋人に浮気されたから」
他人事とは思えない。そういう雰囲気を出すと巻嶋はほんのすこしだけ相好を崩した。振りかぶっていた腕をおろして亜希子を抱きすくめると、ふたたび喉元に凶器をあてる。いつでも掻き切れる状態では誰も手出しができない。晴も無理に動いたりはしなかった。
「あんたらは結婚してどのくらい?」
「……三年」
「じゃあまだマシだよ。俺なんて一年も経たないうちだ」
大嘘だ。否そうとは言い切れないがここで十年と告げてしまったら亜希子の薄情さが浮き彫りになるだけなので、どうせばれない虚言をする。田舎から出てきて距離が開いた途端にやられたと晴は惨めったらしく巻嶋に話した。俺はあんたとおなじかもっとかわいそうだと演技で訴えかける。
「俺だって彼女が憎い。なんで信じて待ってくれなかったんだって思ったけど、それでも好きなら続けるしかないし、どうしてもダメなら別れるしかないだろ。子どもとかいるの?」
尋ねながらもいないことは知っている。だから答えがなくとも晴は続ける。店中が自分の言葉に耳を傾けているのは恥ずかしかったけれど、巻嶋にはもう妻の所為で苦しめられてほしくなかった。だって彼を裏切った女だ。そんな女のために本当に人生を棒に振るなど勿体ないにも程があった。もっと素晴らしい真の運命が待ち受けているかもしれない。明日出会うかもしれない。
「もしいないなら、自分のこと一番に考えろよ。今ここで奥さんやマスターを傷つけたらあんた犯罪者だよ。言い方は悪いけど家庭はまた一からやり直せても、犯罪者になっちゃったらやり直せないだろ。そんなこと、浮気した奥さんのためにするなんて馬鹿げてないか?」
「……」
亜希子は巻嶋に何も捧げてくれないのに、巻嶋が彼女に人生を捧げる義理はない。晴も自分のことだけ考えてまたこちらへ戻ってきたのだ。もしもうちょっとでも来夢に未練があれば、あの女達の間に割って入って彼を殴るなりぶっ飛ばすなりしていたに違いなかった。それをしなかった時点で愛は冷めていた。ふたりの未来を諦めたから引き返してきた。
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