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ああ、失敗
01
しおりを挟む約束など安易に結ぶものじゃない。幼い覚悟が大人になって風化するのなんて、よくある話だ。もうそのくらいの月日は余裕で流れている。だからあいつは悪くない、とは、到底言えそうにない自分は人として狭量なのだろうか。公園の水飲み場で顔を洗いながら晴はしみじみと思う。
一泊する費用をケチって結局野宿してしまったが初めての経験だった。一応ボコられたり刺されたりしないよう目立たない場所をさがして付近のスーパーから貰ってきた段ボールをかぶって寝たが、普通に熟睡して我ながらひいた。もうちょっと寝つけないとか眠りが浅いとか警戒心が働くと思っていたのだけれど買いかぶり過ぎだったようだ。あまりにもショックが激しくて、機能ごと壊れてしまったらしい。
「……はあ」
非常に気は進まない。進まないが他に行くあてもない。すぐに連絡の取れるような友人は殆どいないし、帰る家もどうせないのだ。通い慣れた道をてくてく歩き、最早ここしか思い浮かばないので恥を忍んで、黒いタイルの外壁もまばゆい雑居ビルの三階を見あげる。車探偵事務所。
始業時刻は過ぎているし窓が開いているので誰かは事務所にいると思われた。最初に面接を受けに来たときよりもしかすると緊張しているかもしれない、晴はぐっと息を詰め、オシと気を吐いて思い切って玄関から建物に入る。
一階のインド料理店からは仕込み中なのかカレーのいい匂いがしている。ぐうう、と切なく腹が鳴くのでさすって宥め、スーツケースをかかえて苦心しながら狭い階段をのぼっていく。あまりのことに食事を失念していたが、寝て起きたら取り敢えず身体はショックからひと足先に醒めたようだ。心のほうは、実のところまだよくわからない。
踊り場にはもうすぐドアがあって、相変わらず切れかけた電灯が妙に雰囲気を醸し出している。以前から思っていたがこの観葉植物には誰か水をやっているのだろうか。それでも枯れてないところを見ると心配はいらないのかもしれないけれど。
嵌め込まれたすりガラスの向こうで人影が動いている。ここまで来ると、声の大きい同僚が喋っているのもなんとなく聞こえる。この中に戻りたい。他にあてはないんだ。恥という概念などうち捨てろ。新しく就活する前にダメ元で、試してみる価値はあるだろう。あると言ってくれ。
ドアノブに手を掛けたまま悶々としていた晴は、誰かが下からあがってくる足音に押し出されるように扉をくぐり事務所へ入った。真っ先に顔を合わせたのは事務員の鉄目ネリネだ。今日も無理やり引き伸ばした長い睫毛を、はたはたと打ち合わせて晴を凝視している。まだ若いのに絶好調に化粧がけばい。
「あ、あの……」
「えっ冬原さん?! どうしたの??」
「冬原だと!?」
「はは、マジじゃん」
「お、っはようございます……」
所長の車と、同僚の現がそれぞれデスクから目を丸くして一瞥投げてくる。ワンルームの狭い事務所なので所員に客の顔は丸見えだった。もう一名、羽山という男がいるのだが調査で外に出ているのか空席で、その向かいの席もからっぽ。あそこが晴の定位置だった。
「どうしたんだ?」
「いや~……それが俺も、こんな筈じゃ、って感じなんすけど」
十年前の約束を果たしに帰ると意気揚々辞めていった所員があっさり戻ってきては誰だって当惑するだろう。プライベートではあるのだが今回に限っては話さなければ要求を通してもらえないかもしれないので、晴はしおしおと自分の身に起きた悲劇について語った。
高校卒業と共に進学で都会へ出る。将来のためにそんな決断をする少年少女は多いだろう。晴もそのひとりだった。当時ふたつ年下の恋人がいたのだが決意はかたく、後ろ髪を引かれながらも進路を変えなかった。何者かになって必ず戻ってくるから、待っていてほしいと約束して晴少年は田舎から出てきた。
慣れない都会での目まぐるしい生活に何とか適応し、あっという間に十年が経って、あの頃の自分が思い描いていたような男になれたかどうかはわからないが、どうしても恋人の元に戻りたくて終に帰郷を決断した。驚かせたくて敢えて前触れはせず、仕事を辞めアパートを引き払って、お世話になりましたと清々しく都会をあとにした。未練などかけらもなかった。
ところが現実はそううまくいかなかった。実家へも寄らずいの一番に恋人の来夢に会いにいった晴を待ち受けていたのは、非情すぎる現実だった。果たして来夢は息災だった。めちゃくちゃ息災で、この田舎のどこに潜んでいたの?というような美女を組み敷き腰を振っていた。女の喘ぎ声をBGMに別の女と唇を吸い合っていた。全員全裸だった。
端的に言うと、晴のことなど1ミリも待っていなかった。
「ぶわっはっはっはっはっはっは!!! あ~~マジやべえ悲惨すぎるんだけどこいつ!! かっわいそー!!!」
「……本気で思ってます?」
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