セカンドクライ

ゆれ

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 翠の自伝にこの藍の記述が極端にすくなく、殆ど無いと言っていいほどだったのはそういう経緯があったからだ。年齢は信のひとつ下、引き取られた段階でもまだまだ手が掛かった筈なのに、本当にひとつも思い出がないとなると意図的に関わらなかったとしか明治には考えられなかった。
 亡き夫の血は継いでなくても連れてきた理由だけで翠は充分気に食わなかっただろう。いじめが無かったというより、子ども達が同情せざるを得ないほど母親があまりにも無関心だったのかもしれない。厳しく育てられ、ただ愛情だけを持っていたとはいえない三人はそんな弟に何を見ただろうか。いずれにせよ、ただ優秀で完璧な母ではなかったようだ。

「あなたも看取られたんですか」
「……ええ、最期はもう半狂乱になって、僕に愛情などかけらも持ってなかったと言って亡くなりました」
「怖えぇ……」

 舞洲が首をすくめる。秋央がもうすこし長生きしていれば、また違う結果になったのかもしれないがそれこそどうにもならない。画家として頭角を現し、早くに家を出られたことにきょうだいはほっとして、祝福し応援してくれたそうだ。またここまで言われても藍は翠を恨んではおらず、逆に家に置いてくれたことを今もずっと感謝していた。
 改めて謝罪を述べ、深々と頭を下げる。態度に誠意は感じられたが、無為に失ったものが大きすぎて明治は何も答えられなかった。許すとも今は言えない。どうすればいいかわからない。どこかへ訴えて勝ったとしても何も満たされない。それどころか日比野家は大スキャンダルに揺るがされて、ひきかえに明治が手放した記憶さえも無駄になってしまうだろう。

「明治さんお願いです、どうかお詫びをさせてください」
「――申し訳ないですが、私にもわかりかねます」

 かわりに杏里にすべて説明して謝ってくれと言っても、気は晴れないし状況は大して変わらない。彼の望みも明治の望みも叶うことはない。遺産を貰うなど以ての外だ。記憶は戻らない。その事実に痛打されて頭の中がぐちゃぐちゃだった。藍はなおも引き下がろうとしていたけれど、舞洲が見かねて代わりに応対してくれる。退室も見送らずに明治はしばらく放心していた。
 気が付くと右手がスマートフォンを握っている。流れでトークアプリを開き、送ろうとしていたメッセージを機械的に打ち込んで送信する。既読はずっとまえから付かないままだ。最後の返信は帰宅時刻を告げた明治に、お疲れさまというスタンプを飛ばしてくれたものだった。

 さらにさかのぼると買ってきてほしい物が並んでいたり、夜の約束をしていたり、こうして眺めると自分でも最近になるにつれ素っ気なく感じられる。どうせ帰れば家にいるのだしじかに言ったほうがいいとでも考えたのだろう。なんなら杏里からはっきりと『既読くらい付けろよな』と指摘されてしまっている。
 杏里に聞いた破局のタイミングよりあとなのが今ひとつ不可解だが、探偵の報告書からも、やはり隠しきれない倦怠期の匂いが漂っていた。しなびたオッサンの分際で何をしていたのだろう。愛情に胡坐をかいてでもいたのだろうか。

「同棲して油断したか……」
「お前すーぐ仕事に入れ込むもんな」

 一緒に暮らしてないほうが時間を捻出しようと努力して、ちゃんと好きでいたんじゃないのかと患部をドリルで抉られてぐうの音も出なかった。戻ってきた舞洲が三人分のコーヒーカップを片付けながら、腕時計の盤面に目を投げる。あれは三年前に付き合っていた年上の彼女からの贈り物だ。恋は破れたが品に罪はないと言って返却もせず使い続けている。

「杏里くんには、してやったほうがいいかもな。今の話」
「……そうか?」

 中途半端に巻き込んだからと言いたいのだろうが、彼が顛末を知りたがっているとも思えない。だって記憶が戻ってくるわけじゃないと駄目押しするだけなのだ。別に知らなくてもいいような気がするけれど、口実としては使える。

「いずれにしろ俺は無理だわ。呼び出しても応じてくれそうにねえ」
「しょうがねえな……これは俺が耳にタコができるほど聞かされたはた迷惑な話なんだが」

 前置きはどう考えても要らなかったがそのあとに続いた情報は大層有益だった。というか今日イチの驚きだ。自分はともかく、杏里がそんな場所へ足を運んでいたとは思えない。イメージがない。
 万が一彼がさくっと明治を過去にし、新たな出会いを求めているならば。会える可能性はかなり高いと踏んで今夜の予定を書き換える。互いに仕事のある身なのだ。時間にならなければ現れないだろう。だったらまずはできることを、ちょっと元気になって立ち上がった明治に肩を聳やかせると、舞洲は部屋を出ていく。有能な相棒にまたひとつ借りが増える。


 
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