24 / 67
2
09
しおりを挟む翠の自伝にこの藍の記述が極端にすくなく、殆ど無いと言っていいほどだったのはそういう経緯があったからだ。年齢は信のひとつ下、引き取られた段階でもまだまだ手が掛かった筈なのに、本当にひとつも思い出がないとなると意図的に関わらなかったとしか明治には考えられなかった。
亡き夫の血は継いでなくても連れてきた理由だけで翠は充分気に食わなかっただろう。いじめが無かったというより、子ども達が同情せざるを得ないほど母親があまりにも無関心だったのかもしれない。厳しく育てられ、ただ愛情だけを持っていたとはいえない三人はそんな弟に何を見ただろうか。いずれにせよ、ただ優秀で完璧な母ではなかったようだ。
「あなたも看取られたんですか」
「……ええ、最期はもう半狂乱になって、僕に愛情などかけらも持ってなかったと言って亡くなりました」
「怖えぇ……」
舞洲が首をすくめる。秋央がもうすこし長生きしていれば、また違う結果になったのかもしれないがそれこそどうにもならない。画家として頭角を現し、早くに家を出られたことにきょうだいはほっとして、祝福し応援してくれたそうだ。またここまで言われても藍は翠を恨んではおらず、逆に家に置いてくれたことを今もずっと感謝していた。
改めて謝罪を述べ、深々と頭を下げる。態度に誠意は感じられたが、無為に失ったものが大きすぎて明治は何も答えられなかった。許すとも今は言えない。どうすればいいかわからない。どこかへ訴えて勝ったとしても何も満たされない。それどころか日比野家は大スキャンダルに揺るがされて、ひきかえに明治が手放した記憶さえも無駄になってしまうだろう。
「明治さんお願いです、どうかお詫びをさせてください」
「――申し訳ないですが、私にもわかりかねます」
かわりに杏里にすべて説明して謝ってくれと言っても、気は晴れないし状況は大して変わらない。彼の望みも明治の望みも叶うことはない。遺産を貰うなど以ての外だ。記憶は戻らない。その事実に痛打されて頭の中がぐちゃぐちゃだった。藍はなおも引き下がろうとしていたけれど、舞洲が見かねて代わりに応対してくれる。退室も見送らずに明治はしばらく放心していた。
気が付くと右手がスマートフォンを握っている。流れでトークアプリを開き、送ろうとしていたメッセージを機械的に打ち込んで送信する。既読はずっとまえから付かないままだ。最後の返信は帰宅時刻を告げた明治に、お疲れさまというスタンプを飛ばしてくれたものだった。
さらにさかのぼると買ってきてほしい物が並んでいたり、夜の約束をしていたり、こうして眺めると自分でも最近になるにつれ素っ気なく感じられる。どうせ帰れば家にいるのだしじかに言ったほうがいいとでも考えたのだろう。なんなら杏里からはっきりと『既読くらい付けろよな』と指摘されてしまっている。
杏里に聞いた破局のタイミングよりあとなのが今ひとつ不可解だが、探偵の報告書からも、やはり隠しきれない倦怠期の匂いが漂っていた。しなびたオッサンの分際で何をしていたのだろう。愛情に胡坐をかいてでもいたのだろうか。
「同棲して油断したか……」
「お前すーぐ仕事に入れ込むもんな」
一緒に暮らしてないほうが時間を捻出しようと努力して、ちゃんと好きでいたんじゃないのかと患部をドリルで抉られてぐうの音も出なかった。戻ってきた舞洲が三人分のコーヒーカップを片付けながら、腕時計の盤面に目を投げる。あれは三年前に付き合っていた年上の彼女からの贈り物だ。恋は破れたが品に罪はないと言って返却もせず使い続けている。
「杏里くんには、してやったほうがいいかもな。今の話」
「……そうか?」
中途半端に巻き込んだからと言いたいのだろうが、彼が顛末を知りたがっているとも思えない。だって記憶が戻ってくるわけじゃないと駄目押しするだけなのだ。別に知らなくてもいいような気がするけれど、口実としては使える。
「いずれにしろ俺は無理だわ。呼び出しても応じてくれそうにねえ」
「しょうがねえな……これは俺が耳にタコができるほど聞かされたはた迷惑な話なんだが」
前置きはどう考えても要らなかったがそのあとに続いた情報は大層有益だった。というか今日イチの驚きだ。自分はともかく、杏里がそんな場所へ足を運んでいたとは思えない。イメージがない。
万が一彼がさくっと明治を過去にし、新たな出会いを求めているならば。会える可能性はかなり高いと踏んで今夜の予定を書き換える。互いに仕事のある身なのだ。時間にならなければ現れないだろう。だったらまずはできることを、ちょっと元気になって立ち上がった明治に肩を聳やかせると、舞洲は部屋を出ていく。有能な相棒にまたひとつ借りが増える。
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
バイバイ、セフレ。
月岡夜宵
BL
『さよなら、君との関係性。今日でお別れセックスフレンド』
尚紀は、好きな人である紫に散々な嘘までついて抱かれ、お金を払ってでもセフレ関係を繋ぎ止めていた。だが彼に本命がいると知ってしまい、円満に別れようとする。ところが、決意を新たにした矢先、とんでもない事態に発展してしまい――なんと自分から突き放すことに!? 素直になれない尚紀を置きざりに事態はどんどん劇化し、最高潮に達する時、やがて一つの結実となる。
前知らせ)
・舞台は現代日本っぽい架空の国。
・人気者攻め(非童貞)×日陰者受け(処女)。
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
記憶喪失の君と…
R(アール)
BL
陽は湊と恋人だった。
ひねくれて誰からも愛されないような陽を湊だけが可愛いと、好きだと言ってくれた。
順風満帆な生活を送っているなか、湊が記憶喪失になり、陽のことだけを忘れてしまって…!
ハッピーエンド保証
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる