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月翔と小雨
09
しおりを挟む馬鹿正直にさぐりを入れなかった自分が間抜けだったのだ。それに尽きる。何もかも手遅れになるまで、小雨の存在が日常の一部だと思い込んでいた。奇跡以外のなにものでもなかったのに。またすこし目がピリピリ痛みだして、さすがにこれ以上泣くのは視聴者にもばれるので根性で衝動を呑み込んだ。
人生が再びひとり旅になって、出会う前とおなじに戻れるかといえばそんな筈がない。小雨とめぐり会ってしまった月翔は、彼を知らない自分にはもう戻れない。この先ずっと、小雨のかたちにあいた穴をかかえて生きていくしかないのだ。塞いでくれるほどの相手を見つけるまで、ずっと。
その途方もなさに気が遠くなる。恋を知らなければ味わうこともなかった痛みもまた、つれない小雨の置き土産だった。
「控えめに言ってやべえな」
「いやこれでも都内よりはマシなんじゃない?」
えーと非難の声を上げつつ、携帯用の扇風機を顔につきそうな距離でかまえる獅勇はグループ1の暑がりなのだ。逆に月翔はあまり汗も掻かないため涼しい顔をしている。そんなふたりにロケの仕事が振られて、今日は郊外の町へ足を運んでいた。
盛夏と呼んで差し支えない気候は青々としげった緑まで溶かすようでゆらゆらと厳しい陽射しに揺らめいている。木陰に入れば幾分涼しいけれど、残念ながら畑仕事をする農家さんの取材と収穫のちょっとしたお手伝い、そしてとれたて野菜を使った料理の試食が本日の使命なのでつばの広い麦わら帽子で炎天下にさらされるのは必至だった。
日焼け止めを何重にも塗られるが効果のほどは定かでない。タレントのためにミストシャワーも用意され、長袖の服に仕込めるだけ保冷剤を仕込んで、前倒しで撮影がスタートした。
時間が経過するにつれ熱気は激しくなる。朝の7時でも既に暑いので開き直ってから元気でもこなすしかなかった。そこはこれでもプロだ。適度にボケとツッコミを交代しながら作業は真面目に取り組む。この畑はセットではなく農家さんの大切な持ち物なのだ。このあとも毎年おなじように野菜を植えて育てる。無闇に荒らしたりしないよう、素人が手を出すのも最小限に抑えなければならなかった。
「お兄ちゃんたち筋が良いねえ」
「マジすか」
「食ってけます?」
ビシッと親指を立てられ、わーいと諸手を挙げて喜ぶ月翔と獅勇に年配の農家さんが目を細める。孫ぐらいに見えているのだろう。なんとかスムーズに収穫までは運べそうで、ふたりも内心ほっとしていた。
あまりに暑いので調理と試食は場所を移すとスケジュールが変更されて一旦車に戻る。屋外には変わりないが町中のため若干日陰も望めるらしい。水分を補給してひたすら身体を冷やす。熱中症になってはみんなに迷惑が掛かるからだ。塩分も摂りつつ、服を着替えるとすこし落ち着く。
ロケと聞いたときは観光地にでも取材に行くのかと思ったがとんでもなかった。ドラマの撮影もきついがこの時季はやはり屋外が一番身体に堪える。生まれたときからエアコンのある生活が普通なので、汗を掻くということがうまく出来ない。若い世代のほうが環境に適応できないのは皮肉なものだった。それで食べているとはいえ親よりさらに年上の農家さんが平気な顔で作業するのを見てちょっとだけ情けなかった。
「はー、正直食欲とかわかねえけど」
「あと半分」
「帰ったら千鶴とビールが待ってる!」
今日は月翔しかいないので伴侶の名前もあっさり出てくる。他のメンバーに打ち明けても大丈夫だとは思うのだが、どこから何が漏れるかわからないからと獅勇は慎重だ。それだけつがいの夫を大切に思っている。況してや千鶴は脱退の際に一度派手に世間に叩かれているため、彼の気持ちも理解できた。
このあとの予定をマネージャーに再度確認する。ふたりとも今日はもう顔が使えないのでこれで終わりだったが、巻きで進行しているためラジオのコメント録りを前倒しにするか悩んでいるらしい。しかし消耗が思いの外激しいのを察してオフの方向で調整してくれた。視線で訴えたのが功を奏したようだ。
「オシやる気出てきた」
「うん」
現金なものだがゴールが見えると見えないとではそのくらい違う。スタジオでなら納得いくまで続けられても、こうも環境が悪いとアイドルだって人間なのでぼろが出てくるものなのだ。
ご厚意で公民館の駐車場にテントを張らせてもらい、ミストも飛ばしながら地元の婦人会の人達が手際よく料理を作ってくれる。月翔はからっきしだが獅勇は自ら包丁を握るため、あれこれと横から熱心に質問をしていた。新しい技を憶えて帰り伴侶に披露したいのだろう。食材を刻む手つきがいいと褒められて調子に乗っていた。片や月翔には、鍋に投入して茹でるだけの仕事が振られる。
「完成です!」
「では早速いただきましょう」
シンプルに切ってマヨネーズで炒めただけの料理でもとれたてを使っているとここまで違うのかと思うほど美味しかった。手作りの味噌や各家庭独自のつけだれなども、食べたことがないユニークな味付けで気づけば試食のレベルを超えていた。月翔は基本的に好き嫌いがすくなく何でも食べる。獅勇は大人のくせに人参とピーマンが嫌いなお子様なのだが、本日のメニューには使われてないので安心してパクついていた。
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