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11 ユートピア Eutopia ②

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 大学の必修科目でレポートを課せられた。トマス・モアの「ユートピア」について。自分の名前が嫌いだから、こういう強制的な機会がない限り、読むことも調べることもなかったと思う。
 ユートピアを事典で調べて気づいた。そもそもユートで区切るのが間違いなんだ。
 ユートピアは二つの言葉を組み合わせたギリシャ語が起源だった。
 ユーは「どこにもない」、トピアは「場所」。どこにもないから理想郷。なんて皮肉な言葉だろう。
 自分の名前が今までで一番しっくりきた。俺の場所は、確かにどこにもない。

 タイムスリップものを読むのが好きだった。
 でも、もし自分がタイムスリップしたら、とは考えなかった。同じところに戻っても、たぶん同じことをする。俺は俺だから、判断は変わらない。そして現実はクソだ。過去に戻りたくなんかない。面倒を繰り返したくなんかない。
 せめてフィクションくらいはうまくいってほしい。SF作家もそう思うから書くんだろう。

 大学二年の秋。気乗りしない飲み会の席、近くのテーブルで山内さんを見かけた。たまに目が合う。これは千載一遇のチャンスなのではないか。
 地下書庫で遭遇した時も思っていた。おそらく俺の顔は気に入られている。利用できるものは利用しよう。なんとなく雰囲気を作るのは得意だ。二人きりになれたらどうにかできる気がする。

 ギリシャ語で時間にまつわる神的な存在は二つ。一定間隔で流れる時間を神格化したクロノスと、素晴らしい瞬間や主観的な時間を司るカイロス。
 チャンスの神様には前髪しかない、なんてよく言うけれど。これはカイロスのことだ。カイロスの後頭部には髪がない。躊躇したらカイロスの髪はつかめない。この一瞬を逃してはならない。

 部屋に連れ込むことに成功し、本懐を遂げた。彼女が初めてで、ちょっとびっくりする。このくらいの歳なら、経験しているものだと、無意識に思い込んでいたから。爛れた生活を送っている自分に気づく。
 すごく痛そうだったけど、申し訳ないけど止められないから、せめてなるべく早く終わらせようと思った。

 彼女はこんな風に成り行きですべきではなかったと、後悔しているように見受けられた。なんだかぎこちない。
 どうすれば気持ちが伝わるんだろうか。そんな努力はかなり前に放棄していた。言っても無駄だし、相手のこともどうでもよかったから。
 でも、山内さんはどうでもよくない。
 これから時間はたっぷりある。後で考えよう。そう思いながら眠りに就いた。

 翌日、目を覚ますと山内さんの姿はなかった。
 俺はどうすればいいんだろう。昨夜の続きを考える。
 図書カードで名前を見て気になっていたと、読んだ本の話がしたいと、SF映画を一緒に見たいと。そんなくだらない話をしてもいいのだろうか。そもそも彼女は俺自身にそこまで興味がなさそうなのに。なにより連絡先も知らないから、どうすればいいのかわからない。

 彼女の残り香がした。まだ出て行ってから間もないのではないだろうか。
 その時、脳裏に大学の図書館が浮かんだ。まるで、カッサンドラが未来を予知したように。

 考えても埒が明かない。昨日聞いた彼女の住む町の方角へ追いかけることにする。確かに大学を通り抜けるのが最短ルートだ。
 急いで駆け付けると、はたして図書館の近くに彼女はいた。声を掛けようと思った瞬間。

《リセットしますか?》
《はい》

 天からの声、なんだろうか。無機質な問いに、山内さんが是を唱える。
 気づけば大学の入学式に俺は戻っていた。呆然とする俺をよそに、右腕のクロノグラフは、巻き戻された時を再び刻み始める。



 ◇◇◆◆◆



 山内さんとの接点がない。学部は同じでも学科が違うから、当然かもしれない。
 地下書庫で遭遇することもなくなった。
 地下書庫への入室台帳は、入室と退室、両方とも時間を記入しなければならない。台帳を確認すると、山内さんは俺が退室した後を見計らうようにして入室していた。
 俺との接触を避けている。当然なのかもしれないけど、ヘコんでしまう。

 来るものは拒まずだったはずだけど。面倒になって、来るものも拒むようになってしまった。
 一人拒めないのが、幼馴染だ。完全に拒んだ方が厄介なことになるから。
 母親同士の仲がよく、家族ぐるみの付き合いだ。病的に外面がいい彼女とは一生縁が切れないと諦めたので、絶対に一線だけは越えないことにしている。関係を持ったら絶対面倒極まりないタイプだし、そもそも全然やりたくない。

 幼馴染は彼氏と上手くいかなくなったり、別れると、俺のところに来る。とにかく話を聞いてほしいのと、自分より不幸な人間を眺めて満足したいからのようだ。
 幼馴染にとって俺は、感情の捌け口で、綺麗なゴミ箱。
 とにかく刺激しないように、息を殺す。

 恵まれた環境にいる。そうなんだろう。衣食住に困ったことも、女の子に困ったこともない。綺麗な顔をしてるねと何度も言われてきた。
 実家で出されるやたら凝った食事は全くおいしく感じないし、父も母も自分の好きなことしか話さなくてなんだか居心地が悪い。寄ってくる女の子はみんな顔だけが目当てで、俺が何考えてるかなんてどうでもいい。付き合い始めて精神的に病んでることがわかるのも珍しくない。

 恵まれているのに贅沢なんだろう。
 そう、贅沢なんだ。話していて楽しい相手と、のんびり過ごせる家で、よれた格好して、好きなものを食べたい、そんな望みは。

 山内さんと接点がないのなら、作るしかない。思いつくのは三つ。
 共通の知り合い。
 共通の授業。
 図書館。
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