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第九章 青天にいかずちが落ちる

231 ああ、素晴らしい新世界 ⑥

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「……もし勝ちに行くんだったら、誰を選んだの? バロックと古典派とロマン派と近現代」

 玲美ちゃんが淡々と訊ねる。このコンクールでは四つの時代区分ごとに課題曲があり、それぞれ一曲ずつ選択することになっていた。空くんは少し苦笑して答える。

「バロックはスカルラッティ、古典派はモーツァルト、ロマン派はショパン、近現代はラフマニノフかな。選択肢の中でなるべく派手な技巧が多めで、ウケのいい曲を選ぶ」

 空くんが実際に選んだのは、バロックがバッハ、古典派はベートーヴェン、ロマン派はリスト、近現代はバルトークだった。なんとなくだけど、空くん本人が得意だと申告した作曲家よりも、少し硬派できっちりしたタイプの作曲家が並んでいる気がする。単純に作曲家だけではなくて、空くん自身も言っていた通り、コンクールに不向きな曲もあるだろうし。

「特にベートーヴェンは、苦悩で塗り固められた中に垣間見える美しさを表現するのがすごく難しくて。シューベルトみたいに綺麗に昇華してひたすら美しい調べにしていたら、まだ表現しやすい気がするんだけど。シェイクスピアの『テンペスト』も読んでみたけど、戯曲難しかった……」
「もしかして、弟子のアントン・シンドラーがこの曲の解釈を訊ねた時に『シェイクスピアの「テンペスト」を読め』とベートーヴェンから返されたって話?」
「そう」

 玲美ちゃんは少しあきれたようにため息を吐く。

「それ、今では嘘だっていうのが定説になってるよ。シンドラーはベートーヴェンを美化するために、資料を改竄や捏造してるので有名」
「ええっ?! 僕、すごく苦労して読んだのに……」
「もっと勉強しなさいよ」
「はあい……」

 しゅんとする空くんに、舞台上での堂々とした振る舞いは影も形もない。

「でも、本当は関係ないかもしれないけど、『テンペスト』、不思議と合ってるよね」
「まあ、嘘とはいえ、キャッチーで、妙な説得力があるから、長いこと流布したんだろうし」
「僕、第三楽章のつかのまの優しい長調の部分、主人公の娘ミランダの有名な台詞をイメージして弾いたんだ。耳が聞こえなくなって、孤独感にさいなまれていたベートーヴェンが、人との交流に憧れた気持ちと通じるかなと思って」
「へえ。どんな台詞?」

 お兄ちゃんが訊ねると、空くんは歌うように朗々と諳んじた。

「ああ、不思議だわ! ここにはなんてたくさんの素敵な人達がいるのかしら! 人間はなんと美しいのでしょう! ああ、素晴らしい新世界、こんなに人がいるなんて!」

 空くんの楽しそうな笑顔を見ながら、私は別のことを考えていた。
 私は今、新しい世界に踏み出さなければならないのが、怖い。
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