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第八章 人の数だけ気持ちがある

212 さらばセンメルヴェイス ③

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 夏休み中ということもあり、食堂は人がまばらだ。なるべく廃棄を避けたいのだろう。メニューも少なめ。
 定食はサイコロステーキ定食とサバの味噌煮定食と日替わりがチキンピカタ。丼物は親子丼。麺類はきつねうどんとエビ天蕎麦。
 迷わずサイコロステーキ定食を選ぶ。残りは全て苦手なものだったから。
 食券を渡す際、付け足した。

「味噌汁は、いらないです」
「セットメニューなのに」
「値段はこのままでいいので」

 今日の味噌汁の具は、豆腐とわかめだった。残すとわかっているものを頼みたくない。

「はい、どうぞ」

 サイコロステーキに付け合わせのキャベツとトマトが乗せられた皿と、白米の入った茶碗を渡される。

「ありがとうございます」
「デザートもどうぞ」

 四角く切られたゼリーの入った小皿とスプーンも差し出される。

「これ、何のゼリーですか?」
「桃」
「……申し訳ないですけど、いらないです」

 二度目の拒否に、食堂のおばさんが少し苦笑した。
 嫌いなものを避けられるのが、大人のいいところだと思う。栄養は別のものかサプリで摂ればいいんだ。

 窓際の席で黙々と食べる。そもそも俺は食にそこまで興味がない。体力を維持できればそれでいい。
 食べ終えて少しぼんやりしていると、窓から風が吹き込んできた。外の緑の匂いが、鼻を刺激する。

 不衛生を香りでごまかすなんて、絶対に駄目だろ。もっと抜本的な解決を図れ。
 なんだかむしゃくしゃするのは、小学生の頃に読んだ学習漫画のエピソードを思い出したからだ。今でこそ好きにさせてもらっているが、その頃俺の両親は大変厳しく、学習漫画は俺に許された数少ない娯楽のうちの一つだった。貪るように読んでいたと思う。

 ある病院の第一産科と第二産科で産婦の死亡率が違うことに着目した男がいた。第一産科は三倍も死亡率が高い。二つの産科に技術的には大きな差異はない。違ったのは働いている人間。第一産科は医学生、第二産科は助産婦が勤務していた。
 同僚が死体解剖中に怪我をし、産褥熱と似た症状で死去したことをきっかけに、彼は「手についた微粒子」が解剖室から患者に移されたのではないかと考えるようになる。
 つまり、解決法は清潔さを保つこと。彼は手を洗うことで死亡率を低下させられる科学的な証拠を示したが、当時の医学界からは受け入れられず、くだらないと馬鹿にされ、嘲笑された。報われなかった彼はやがて心を病み、精神病院に入れられる。脱走しようとした彼は衛兵に暴行され、おそらくその時受けた傷が壊疽し、死亡した。

 彼は正しいことを言っているのに、どうして聞いてもらえないんだ。彼の言うことに耳を傾けていれば、助かった命があるのに。どうして。どうして。どうして。本当にやりきれない。

 やりきれない、と思うと、つい、若葉のことを思い出してしまう。
 優しい花の香りがする女の子。
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