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本編・きっかけはどうでも

22 Program ③

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 喫茶店のドアを開けると、シャランと澄んだ音がした。聞いた瞬間、異世界へ誘われるかのような、不思議な音色。思わず残響のする方に目を向けると、黒い棒が4本、細い紐で吊り下げられている。

「これ、素敵ですよね」

 私の目線に気づいたのか、先生は微笑みを浮かべてそう言う。
 最初の日は「初めて会った人とお茶」という不可解な状況に頭を持っていかれていたからか、こんなものがぶら下げられていたことも、音も、全然気がつかなかった。

「火箸をドアチャイムにしているそうなんです。この音、大手音響機器メーカーの音質テストにも使われているそうですよ」
「お詳しいんですね」
「僕も気になって、マスターに訊ねたんです。だから受け売り」

 先生は荷物置きの籠を当然のように借り、私に手渡し、席に着く。

「何を頼みますか?」

 すぐに訊ねられたので、前回と同じダージリンのケーキセットにした。考えるのが面倒だったのと、とてもおいしかったから。先生も前回と同じ、ヌワラエリアを頼む。
 先生は鞄からパソコンの入ったインナーケースを取り出し、準備を始めた。

「午前中、先生は何をしておられるんですか?」

 先生の準備と注文した紅茶を待っている間、手持ちぶさただったので、ずっと気になっていたことを訊ねてみる。
 私は、楔形文字のことも、そもそも研究とはどういうものなのかも、全然わかっていない。でも、なんとなく、そこまで専門性の高い作業をなさっているのではない気がしていた。私とお茶を飲んでいる時間も、結構長かったりするし。

「授業準備がメインですね」
「え……。授業って毎年同じことするんですよね?」

 どうして準備にそこまで時間がかかるのか、疑問だ。

「基本的に題材は毎年同じなんですけど、年々内容が伝わらなくなってきているなと感じていて。だから、受講生の様子を見て、細かい部分を修正します。世間の『わかりやすさ』を求める傾向は、学生にも反映されている感があるので」

 先生は至極当然であるかのように言うけれど、なんだか腑に落ちない。
 きっと私はふて腐れたような表情をしていたのだろう。先生は苦笑いを浮かべて続ける。

「教職のように資格が関わる授業は、学生も必死なので若干不親切な形でも意外とついてきてくれますし、学力の伸びにもつながるんですが。一般教養のように単位合わせの受講生が多い授業だと、興味の関連付けをするのも重要だと感じているんですよね。とっつきにくいと、それだけで見向きもされなくなってしまう」
「それはもっと学生に努力させるべき点なのでは」
「『教育』という観点から考えると匙加減がなかなか難しいですけど。ほとんどの学生が研究者にはならないので、興味を持ってくれるかもしれない人をこちらから切ってしまうのは、もったいない気がして」
「……先生ご自身の、本当の研究をする時間は?」
「正直、全然取れてないですね、今。家で海外の論文にざっと目を通す程度で」

 大学教員の本来の仕事って、研究じゃないの?
 そんな疑問が脳裏をかすめるけど、それはきっと先生が一番思っていることだろう。本当にやりたい、やらなければならないことが、些事に押しつぶされている。

「比較的規定がゆるやかな私大でよかったと思っています。そうじゃないと律さんに事務作業をお願いすることもできなかったので。本当に助かっているんです。ここ数年で一番研究に打ち込めています」

 先生は私に向かって、穏やかに微笑んだ。

 この言葉はおそらく嘘じゃない。先生は本心から感謝してくださっている。
 私が今やっている作業に、専門性はまるでない。けれど多すぎるのだ、量が。簡単なことでも積み重なると難易度は増す。
 そして、こなさなければならないことが増えると、人は本質を見失ってしまいがちだ。
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