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欲深になれというのなら①

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 朝になって目が覚めるとやたらとベッドが広く感じた。
 習慣のせいで壁際のはしっこに身体を落ち着けてはいるが隣ががらんと空いていて、手のひらを乗せればそこは冷えていて。上半身を起こして天井に向けて腕を伸ばしうんと大きく伸びをする。凝り固まった肩がすっきりしたので次は首を回しながら部屋へ目を向ければ、路彦さんが床で薄掛けの夏用布団にくるまって寝ていた。
 昨夜のことがあったから気を遣ってのことだろう。マットとクッションは敷いてあるが身体を痛めるといけないし、起こしてベッドに移動させようかと思ったが、肩を叩いてみても起きない。仕方ないのでついさっきまで自分を温めていた体温の残る掛け布団を上から被せて、ごめんなさいと呟きながらその大きな身体を蹴飛ばさないように慎重に跨いだ。
 時計を確認したらもう十一時を過ぎていた。とりあえずシャワーを浴びて朝食でも作ろう……いや、昼食か。夜職をしていると生活リズムがどうしても崩れる。元々朝に弱いし、早起きなんてずっとしていない。洗面所の鏡を覗けば自分の姿が映る。ピアスの中に紛れる左耳のほくろを指でなぞり、今の自分を見て先生は気付いてくれるかなと少し心配になった。



 電気式のホットサンドメーカーのタイマーが、チン、とベルのような懐かしみを感じる音で焼き上がりを知らせてくれたと同時に、背後から物音と共に気配を感じた。いつも距離が近めの路彦さんが一メートルほど間を空けたまま、こちらに近づいてこない。
「昨日キーマカレーを作ったのですよ。その残りとチーズを挟んでみました。食べます?」
「そう……おいしそうね。いい香り」
「美味しくできていると思います」
 付け合せのサラダと共に、ホットサンドを皿に盛り付ける。先に焼いておいたほうが自分のぶん。焼き立ては路彦さんに。お皿を持って振り返れば、路彦さんは気まずそうに顔を背けて首をさすった。
 あえて触れずにローテーブルまでお皿を運んで、路彦さん、と名前を呼ぶ。
「食べましょう?」
 いつも自分が座っているテーブルを挟んだベッド側に腰を下ろして見上げるが、路彦さんは彼がいつも座る扉側に一瞬目をやって立ったまま俺に頭を下げた。
「ごめんなさい。いくら言っても言い訳だけれど、昨日は本当に酔っていたの……」
「そう、みたいですね。普通に話していらっしゃいましたけど、いつもより飲まれていたのはわかります」
「嫌な思いさせちゃったわよね。怖かった? 本当にごめんなさい。ああもう、いくら謝っても謝り足りないわ」
「路彦さん……」
 いくら待ってもその場から動こうとしない路彦さんのもとに歩み寄って、俯いたお顔を覗き込む。苦いものでも口にしたかのように口をへの字に曲げて苦しそうにされていた。指の腹で触れるのは少し気が引けたので、指の背で頬に触れてみるとやっと目が合う。
 爪にお髭の硬い感触が伝わった。懐かしい感覚だった。
「太ももは大丈夫? 痛くない?」
「全然大丈夫ですよ。ちょっとした引っかき傷でしたし、すぐに治ると思います」
「ならよかった。ごめんなさい」
「まったく……本当に謝ってばかりですね」
 スウェットパンツの上から自分の太ももの内側に触れる。あのくらいどうってことない。先生の残したしるしが汚されるほどのことでもない。
「酔っていても、ちゃんと覚えてはいらっしゃるんですね」
 冗談めかして笑ったみせたのだが、路彦さんはにこりともしなかった。
「そんな意地悪言わないで」
「冗談ですよ?」
「ねぇ……」
「はい?」
 路彦さんは何度も瞬きをしながら俺を見て、目を逸らして、また見て、ため息をついて、前髪をかきあげて、俺を見て、また目を逸らして……ため息をついた。らしくもなく、忙しなく動く様子を俺は逆にじっと、身動き一つ、いや瞬きすらせずに見ていた。
「今日は僕が甘えてもいい?」
 俺は自分より随分年上な人が自分に対して弱気で接してくるのが堪らなく好きだ。いつもは頼りになる大人な彼らが、急に母親に見放された子供のように不安気に縋ってくる。
 今回もそれは例外ではなく、昨日まで俺を組み敷いて悪戯していたくせに、罪悪感からか嫌われたくないからか、できる限りの気を使い下手に出るこの人を可愛らしく思った。
「甘えん坊さんになってしまったんですね」
 猫背になってもまだ大きなその身体を抱きしめて、腕をうんと伸ばして頭を撫でる。
「ごめんなさい、本当に……」
「ええ」
「出雲くんがあんまり普通に接してくれるから、余計に困っちゃったわ」
「ふふ、罪悪感をより感じてもらうために優しくしてるんですよ」
 背中をぎゅっと抱き返していた腕の力がゆるみ、肩に手を置いて顔を覗き込まれた。驚きと戸惑いに眉根を寄せた顔が可哀想でやはり可愛い。
「それ本当?」
「どうでしょう」
「今日は意地悪ね。昨日の仕返し?」
「いいえ。路彦さんが可愛らしいからからかってます。あ、これって確かに仕返しかもしれませんね」
 どうにか許してほしいと乞うていた切実な瞳に、ちらりと雄の色が覗く。チリ、と燃える炎のようなゆらめきが一瞬見えるのだ。先生が俺を欲しがる時の瞳を思い出す。あの瞳が一番この身体の芯を震わせる。
「出雲くん、いきなりどこかに行っちゃ嫌よ?」
「それは、約束できません」
「どうして」
「俺ももう家には帰りたくないですけど、でも……」
 いま、この場所がなくなって困るのは俺だ。居心地は良いし、階段を降りれば職場、大学からも近くこれ以上の場所はない。何よりもう実家にある自分の荷物はほとんど処分してしまった。
 もうこの息子に、弟に、家族が期待しないように。このまま姿をくらましても自然と受け入れられるように。自分の帰る場所をなくすために。
 俺はつくづく先生との生活だけを夢見て生きている。
 あの日々が戻ることはないのかもしれないと思いながらも。
 気が付けば路彦さんの顔がぐっと近付いていて、すぐにでもキスしてしまえそうなほどだった。俺の手のひらが調度入る、唇と唇の隙間に手を入れ路彦さんの口を塞ぐ。
「もう……昨日も俺にキスしてこうされたの覚えてます? 本当は反省してないでしょう?」
 口を塞がれている路彦さんは無理に返事をすることはなく、そのまま顔を寄せてきたので俺は自分の手の甲に口付ける羽目になった。そして手のひらをちろりと舐められ、驚きにひゃっ、と、かっこ悪い声が漏れる。手を引っ込めれば路彦さんは笑って唇……ではなく、頬に口付けた。
「あなたが……急にどこかに消えてしまわないか、不安で仕方ない。だっさいの、僕」
「路彦さん……」
 自嘲したかと思えばすぐに真面目な顔をして、両手を包むように握られた。少しカサついた硬い感触の手。
「好きな人に再会するまでは、ここにいてくれる?」
 もちろんそんな気はしていたのだけれど、この人は本当に自分をとても好いてくれているのだと思ったら、はいと返事ができなかった。自分にとってこれほど都合のいいこともない、願ったり叶ったりの申し出だというのに、細めた目や顰めた眉ばかり見つめてしまって言葉が出ない。
 先生にはいつ会えるだろう。どれだけ待てば自分は気が済むのだろう。この人ともっと真剣に向き合ってみてもいいのだろうか。そこが通過点か終着点かなんて普通の恋愛であってもわからないものだ。
 寂しい。
 先生の、白衣の背中が思い浮かぶ。
 それだけで泣いてしまいそうだった。
 先生しかいないと思うのに、この人では駄目だと思うのに、ちょっと針の先で突かれただけで気持ちがまた全部ひっくり返りそうになる。
 甘えさせて、邪魔しないで、入ってこないで、いいえやっぱり助けて。
 昨日の自分の気持ち、今日の自分の気持ち、明日の自分の気持ち全部が一緒じゃないかもしれない。一秒先の自分の感情すらわからない。自分はもう待つのに疲れてしまっている。たったの三年と先生には鼻で笑われてしまいそうだけれど、ただ先生を欲して恋しく思う三年はとても長かった。先生と相手に罪悪感を覚えながら、誰かに甘えて支えられ、精神を摩耗させ、それでも先生と再会した時のためにできることをしておかないと落ち着かない。
 先生、今あなたはどうしているのですか。
「路彦さん」
 長い沈黙をずっと待っていてくれた、さっきは隠してしまった唇に俺は口付けた。路彦さんの肉感の薄い痩けた頬に赤みが指す。
「路彦さんもしますか? あ、でも舌はだめです、唇で触れるだけ……」
 まだ話している途中なのに、路彦さんの唇が俺に触れる。約束通り舌は使わない……けれど、何度も何度もくっついては離れて、こちらのほうがもどかしくなりそうだ。そうなる前にまた路彦さんの唇を手で覆い隠す。
 はにふんのよ、ともごもごとくぐもった声だ反論され思わず笑ってしまった。
「ごはん……ごはん、食べましょう」
 背中を向けた途端、長い腕に追われるのがわかった。その手はさりげなく退けて、何事もなかったかのように腰を下ろす。
「今のはなんのキス?」
 問いかけに対する返事もないままただ口付けられた彼が疑問に思うのは当然で、でもそれに対する答えを自分は持ち合わせていない。黙る俺に視線を送りながら向かいに座る路彦さんが俯いた視界の端に移る。
「ごめんなさい、わからないです」
「なによそれ。ごまかしただけ? 期待するけど?」
「今度は俺が、甘えてしまったのかもしれません。ごめんなさい、失礼でしたね、本当に」
 目の前に置かれた冷めてしまったホットサンドが余計にテンションを下げてくる。表面はまだカリッと美味しそうなのが救いだ。コーヒーもさっきまで湯気が立っていたのに。口にするとまだ温かいけれど、少し冷めたらぬるくなる、瀬戸際の温度。
「いま……自分の感情も、何が正しいかも、わからないし……迷っているし。もうどうしたらいいかわからないんです」
「そう」
 添えたサラダのミニトマトを摘んで口に放りながら、心のこもっていない返事をする。頬杖をついて微妙に俺から視線を外しながら、ぽつりと独り言のような響きで路彦さんは続けた。
「とりあえず、しばらく僕は床で寝る」
 いきなり何の話かと、え、と首を傾げた。
「どうしてですか。これから寒くなりますよ」
「そんなぐらぐらしてる状態の貴方に何かしてしまって、好きになってくれたらいいけれど、嫌われたら困るし」
「それなら俺が床で寝ます。ここは路彦さんのご自宅ですし……」
「ううん、いいの。それはだめ」
 昨夜のことも含めての提案だということは理解できた。けれど冷たく固い床で眠らす申し訳なさと、毎晩隣で眠る路彦さんを思うと良い提案だとは思えなかった。今朝だって布団が冷たく感じたのに。
「じゃあ俺が寒かったらいっしょに寝てくださいますか?」
「はぁ……その隙だらけなの、どうにかならない? ずっとよ? そりゃキスもするでしょ」
 人差し指が苛立つようにトントントンとテーブルを叩く。こちらにまで振動が伝わって、コーヒーにわずかに波紋を作った。
「それともそんなやつ忘れさせてやると言ってもいいの?」
 どきりとした、どきりとして、慌てて俯いてぶんぶんと全力で首を横に振った。なぜか正座してしまっていた自分の膝に乗せた拳に力はいる。顔が熱い。
 顔を上げられずにいると向かいから、いただきます、と聞こえてきた。
「ほら出雲くんも。適当に食べればいいのに、いただきますの挨拶しないと口にしないんだから」
「あの!」
 勢いづけてくらっとするほど思い切り頭を振り上げたが、路彦さんの反応は予想よりそっけなかった。冷えた目をしてホットサンドをかじる。
「なによ。いただきますは?」
 今回のカレーは甘口なのね、とどこ吹く風で言われると口を噤んでしまうが、そこまで相手にされないと逆に文句を言いたくなってくる。むむむ、と自然と唇が尖る。
「路彦さんは結局何なんですか。可愛がってるとか、そういうのではなくて俺と恋人になりたいとか、そういう……」
「いやよ。言っても良い返事くれないじゃない」
「それは……そうですけどぉ……」
「わざわざ僕を振りたいの? ほんっと意地悪」
 ひどい。いや酷いのは俺か。俺なのかもしれない。
 でもこれ以上なにか言われたら今日という折角の休日が、一日ふて寝をするか、それとも徹底的に家の水回りを掃除するかで終わってしまいそうだ(イライラするとき落ち込んでるときは無心で掃除をしたくなる)。
 正座を崩してしゅんと小さくなっていただきますの挨拶をする。トーストされたパンの食感は良い……けれどせっかく入れたチーズが固まっていて泣けてくる。


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