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小吉の家出旅(七)~小吉漁師になる
しおりを挟む「寒い、寒い」
小吉は豪雪の中にいた。吹雪で一寸先もままならない。どこからともなく女の声がする。聞き覚えのある声だった。
「お信!」
小吉は思わず叫んだ。雪の中に倒れていたのはまさしく、小吉の三歳年下の許婚でお信だった。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
小吉が信の体に触れると、すごい熱があった。
「しっかりしろ。今、医者を呼んできてやる」
小吉がその場を離れようとしたその時だった。
「熱い! 死ぬ!」
ふりむくと信は、服を一枚、一枚脱ぎはじめていた。
「馬鹿! 凍死するだろやめろ!」
そのとき信は小吉の首筋に、細い両の腕を回してきた。生暖かい感覚がした。
その時だった。不意に小吉の足元で何かが崩れた。悲鳴というより絶叫とともに、小吉はいずこかへと転落していった。
小吉は、ようやく正気を取り戻した。立ち上がろうとしたが下腹部に激痛を覚えた。崖から転落したのである。
そこはすでに箱根の山中だった。伊勢神宮参拝の後、何を思ったのか、小吉は東の方角へUターンを始めた。
その後もいろいろなことがあった。ある時は、武士の子弟が乗馬する様が下手だといって嘲笑い袋叩きにされた。 ある時は生米で腹をこわし、苦痛にのた打ち回った。
駿河の国では、よろよろと杖をついて歩いていたところ、たまたま九州の秋月藩の者が通りかかった。秋月藩の侍達は、そのあまりのみすぼらしさを哀れんだ。結局、籠に乗せてもらい、箱根までたどりついたのである。
だがここでまた災難に遭遇した。どうやら小吉は、股間を強打したようだ。またしても小吉は、激痛にのた打ち回らなければならなかった。結局、小吉を救ったのは小田原の漁師で喜平次という者だった。
喜平次は親切な男で、医者を呼んで小吉の治療にあたらせた。傷がいえると、小吉に不思議な魅力を感じた喜平次は漁師になるようすすめた。小吉は躊躇したが結局、喜平次の熱心なすすめで、一度だけ漁にでてみることにした。
こうして小吉は夜明け前に海にでた。まだ闇の渦中にある海は、まるで夢魔の世界のようである。さすがの小吉も尋常一様ならざるものを感じずにはいられなかったが、やがて水平線の彼方に陽は昇る。
海は底の底の底が見えるほどに透き通り、まぶしく、そして壮大だった。遠く陸地を仰ぎみると、小田原城の彼方に紅葉で朱に染まった箱根の山がある。さらに晴天のためそのはるか彼方に、富士を仰ぎ見ることさえできた。
じっと海底の底に目をやると、小さな魚が大量に群れをなし、泳いでいる光景を見ることができた。
「鰯(いわし)の群れだ。鰯っての小さな魚だから一匹、一匹で泳いでいたら食われてしまう。だが群れをなして威嚇すれば外敵も恐れる。生きとし生ける者の知恵って奴だな。
人間も同じだ。かって北条様が支配していた時代をよかった。北条様は、決して民から不要な年貢を奪おうとはしなかったからな。
まあ小田原城ってのは都市全体を城郭が囲い、いわばまるごと城みたいなものだったが、結局最後は人だ。人は城、人は石垣ってのはどこの大名がいったが知らんが、その言葉は、北条様にこそふさわしいものだったかもしれねえ。
でも太閤様には勝てなかった。この相模湾をかっては、やれ九鬼だ、長宗我部だ、脇坂だって日本国中の大名の船が埋めつくしていたんだぜ。信じられるか?
だいたい徳川様が天下取れたのだって、元はといえば北条様のおかげだしな。もし関東が暴政で荒れ果てた土地だったら、さしもの徳川様だって関東の内政が精一杯。到底天下まで手が回らなかったに違いねえ」
喜平次は、遠い海の彼方に目をやりながらいった。
「一つ聞いていいか、この海のはるか彼方にはなにがある?」
小吉がぼそりと聞いたので、喜平次はしばし沈黙した。
「さあ? 何やら別な国があるらしいが……?」
学のない喜平次は、その程度の返答が精一杯だった。もちろん太平洋の先にアメリカ合衆国があるなど知る由もない。
小吉はこの日、網の使い方や銛の使い方等、漁師としての基本的なことを根本から学んだ。
やがて一日の漁が終わった。捕獲された新鮮な魚介類を、喜平次は見事な庖丁さばきで小吉の前で調理してみせる。アオリイカとホウボウの刺身、カマスの塩焼き、そしてなんといっても小田原といえば、サメ、スケトウダラ、イシモチ等をすり潰した蒲鉾である。
海の美しさと、新鮮な魚介類に魅了された小吉は、ついに漁師になることを決意するのであった。
しかし海の美しさとは裏腹に漁師の世界というのは、悪く言えば汗臭く、そして不潔な男の世界だった。「飲む、打つ、買う」は当たり前。上下関係は厳しく、成人未満のいわば漁師の見習いと、大人達の間には厳然たる身分の隔たりがあった。逆らう者には厳しい制裁が待っている。
仲間内のいざこざは日常茶飯事で、部屋は数人が共に居住する共同生活。部屋はひどく汚く、障子も畳もぼろぼろ。よく見ると汚い虫が壁にうじゃうじゃいる。
小吉は部屋に入ったその日から、同部屋の者にけんかを売られ困惑した。酒を飲んでは暴れる声が夜毎、近くの部屋から聞こえてきて、おちおち眠ることさえもできない。
小吉はよそ者ということもあり、同年代の見習い達との間はうまくゆくなかった。しかし海に出ると物覚えも早く、大人達の受けはよかった。そしてそれがまた、同年代の若者達の反感を買うこととなった。
秋も深まる頃のことだった。小吉は城下の秋祭りの最中、喜平次の一人娘で美代と密かに会った。
美代は十八歳。殺伐とした漁師の世界において、特に小吉達若い者にとり、いわばマドンナ的存在といっていいだろう。ちょうど銀杏の木々が色づき始める季節。じかに顔を合わせると大人になりたての色香が、ほのかに立ちのぼってくるかのように思えた。
その美代に呼び出されたということで、小吉は心おどらせながら約束の場所に向かったが、その実、彼女の用件というのはさしたることではなかった。小吉は落胆したが、その光景を小吉と同部屋の者が密かに目撃していた。
すぐ噂になり、噂が憶測をよんだ。若者達が、小吉に対し強い嫉妬と憎悪の感情を持つのに時はかからなかった。
漁師達は、しばしば集まっては賭博に興じた。若い者達も同様である。小吉もまた同じ部屋の者に誘われて、漁のない日に賭場へと赴いた。
賭場は決して広くない狭い洞窟の中にあり、その中に二十人ほどの若い衆が集まっていた。
小吉は生涯通じて、決して勝負運が強いほうではなかったようだが、特にこの日は連戦連敗を繰り返した。それもそのはずである。この日の賭博はいわば小吉を一人をはめるため、いわばイカサマ賭博だったのである。
「おい小吉、おまえの負けだ。持っている銭を全部出せ。さもないとお前を簀巻きにして海に放り投げるぞ」
若者たちのリーダー格ともいえる一輔が、脅し口調でいった。小吉は、ようやく自分がはめられたことに気付き激高した。
「てめえら! さては俺一人をはめやがったな!」
ついに小吉は賭場をひっくり返してしまった。
「この野郎! 叩きだしてしまえ!」
一輔の声とともに、二十数人が一斉に小吉に襲いかかった。
「べらぼうめ! そう簡単にやられてたまるか!」
柔術の心得もある小吉は、二十数人相手に大立ち周りを演じた。やがて騒ぎを聞きつけ大人たちがやってきて、その場は事なきをえた。しかしこの一件で小吉は喜平次から呼び出され、わずかな手切れ金と引き換えに、追い出されてしまうのであった。
「……それから数日の間は、また小田原の宿場町を行く当てもなくさすらった。その時ようやく決意した。家に帰ることをだ」
鶯谷庵で小吉は語りつかれたのか、しばし沈黙した。
「それで戻ってきて、さぞかし皆驚いたろう」
枕元の麟太郎すなわち海舟が、先を急がせるかのようにたずねた。
「おう、それはもう親父には怒鳴られるし、例の婆にはいいだけ嫌みをいわれる。兄貴にも、もういいってくらい説教されたな。でもおめえのおふくろだけは、ちょっと違ったな……」
事件後、小吉はまたしても座敷牢に入ることとなった。
「しばらくの間、二人で話し合うがいい」
姿を現したのは小吉の許婚で、あのお信だった。父・平蔵は去り、小吉は牢の中で信と二人きりになった。
小吉は、信に背を向けたまま何も喋ろうとしない。言葉が見つからなかったのである。ふと振り向くと信は礼儀正しく正座し頭を下げている。
「お帰りをお待ちしておりました……」
と、まだ十二なのに信は武家の妻らしく挨拶した。小刻みに体が震えていた。
「お前、泣いているのか?」
小吉は、信の細い体を抱きよせた。
「もう二度と、お会いできぬものと思っておりました」
「わかった、わかった、もうどこにも行かぬ」
もともと信は勝気な女性で、泣いている姿など、ほとんど見たことがない。しばらく見ぬうちに妙に大人になっていた。胸も大きくなっていた。
もう十年以上一緒に暮らしてきたが、小吉はこの時まで信に女を感じたことはなかった。この時はじめて小吉は、自分がこの女性の亭主になることを実感したのだった。
その後も小吉の市中の無頼の徒そのものの生き様は改まることはなかったが、それにしても、後の海舟が小吉から受け継いだ最大のものは、恐らくいかなる逆境にあっても屈しない、したたかさであったことは間違いないだろう。
(冒頭に夢酔独言の記述には信ぴょう性がないと書きましたが、この回はその典型例です。果たして小吉はどうやって箱根の関所を越えたのか? この徳川封建制の時代に、いかなる理由があるにせよ武士の子弟である小吉が漁師なることができるのか? そのへんは全くの謎ですのでご了承ください)
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