夢宵いの詩~勝小吉伝

あばた文士

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【序章】鶯谷庵

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   十月某日、筆者は東京にある山手線鶯谷駅に降り立った。聞くところによると、この鶯谷という駅は山手線の各駅の中で、もっとも利用者が少ないそうである。東京住みの筆者でさえ、つい見落としがちの当駅に降り立ったのは、この界隈にゆかりある、ある酔狂な人物の足跡をたずねてのことだった。




 
   この駅界隈の奇妙さは表向きは歓楽街で、ラブホテルや風俗店が林立する一方、その中に有名な正岡子規ゆかりの子規庵があったり、徳川歴代将軍の菩提寺である寛永寺があったりすることだった。
 鶯谷周辺を散策してみると、とにかく寺社が多い。ちょうど紅葉の季節である。一枚の銀杏の葉が、夕陽を浴びてひらりと風に舞う光景が、なんともいえぬ風情をかもしだす。江戸の香りが、いずこからともなく漂ってくるかのようである。


 この周辺には他にも歴史上の名所、旧跡が多く存在する。だがそれよりも何よりも筆者がこの地に関心をもったのは、ある幕臣が、晩年をすごしたからである。
 その幕臣の名を勝小吉という。恐らくその名を突然あげても大多数の人間は、それが何者であるのかわからないだろう。しかし幕末維新期に勇名をもってしられる、あの勝麟太郎(海舟)の実父であるというと、ほぼ、だいたい想像がつくだろう。


「俺ほどの馬鹿な者は世の中にあんまりいないだろう」
 晩年、自ら書いた自叙伝ともいえる「夢酔独言」の中で、勝小吉は自らをこう卑下している。
 実際この奇怪人は、幼い頃から喧嘩に明け暮れ、十五歳にして最初の家出。酒、博打はあまり好まなかったものの、度重なる道場破り、吉原での度をこした女遊び、幾度もの奇行とやりたい放題。ついには家の者により牢に入れられてしまう。
 その一方で収入といえば、表向きは旗本ではある。しかし、わずか四十俵で非役、まことに極貧な侍にして、多額の借金まで背負っていた。





 勝小吉はその波乱に満ちた生涯の晩年を、この鶯谷にある粗末なあばら屋で過ごした。「鶯谷庵」と名づけたあばら屋は、現在の台東区下谷の三島神社のほど近くにあったという。
 現在でこそ、この周辺はビルが林立しているが、徳川時代は到底江戸市中とは思えないほど、荒涼たる田園風景が広がっていた。そして目の前の道路は江戸時代川であり、その土手は吉原へと続いていたという。


 さしもの小吉も死の床についたのは、嘉永三年(一八五〇)九月のことだった。浦賀にペリーの艦隊が出現する三年前である。
 勝麟太郎はこの時二十八歳。剣術は小吉の実家で従兄、そして剣聖とまで評された男谷信友の道場で学び、直心影流の免許皆伝。兵学は山鹿流を習得。妹の嫁ぎ先であり、いわば義理の弟でもある佐久間象山のもとで蘭学も学んでいた。
 そしてかって、十二代将軍家慶の第五子初之丞の遊び相手として江戸城にあがった時から、女の園である江戸城大奥などともつながりを持っていた。


 その麟太郎が危篤の父を見舞った時、小吉の屋敷はかなり狭いが、思ったよりはきれいにかたづいていた。
「麟太郎よ俺はなあ、見てのとおり大馬鹿野郎でよぅ」
 危篤の病人にしては、よく通る声である。
「結局おめえには何一つとして残してはやれねえな」
「もうなにもいわんでええぞ親父よ。必ずこの麟太郎、公儀のため身命をつくしてみせる」
 よく見ると麟太郎と小吉は顔・目鼻立ちが実によく似ている。
「べらぼうめ! 公儀なんてものは本当はどうだっていいんだよ。それよりもっとその目を見開いて、天下国家を見わたしてみろ」
 小吉は、はき捨てるようにいうと目を閉じた。その脳裏に今までのあまりに波乱すぎる生涯が、ありありとよみがえりつつあった。











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