群青の空の下で(修正版)

花影

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第2章 タランテラの悪夢

168 策謀の果て4

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 僅かに差し込む月の光を頼りに、ゲオルグは子供用の手習い本片手にチョークで木盤に文字を書き連ねていた。討伐期に入って間もない頃にエドワルドが尋ねて来て要望を聞かれ、彼は後から勉強がしたいと申し出た。
 最初はハルベルトがしたように高レベルの学者を手配されたのだが、ゲオルグの学習レベルが子供の手習いと同程度とわかり、冬の間避難民の子供を長く面倒見てきた神官が講師に選ばれた。1年前とは心構えも違い、心を惑わす言葉をかける者もいない。ゲオルグは今、生まれて初めて真面目に勉学に取り組んでいた。
「皇都・ファーレン……マルモア……ロベリア……」
 どうやらタランテラの地理の綴りを覚えているらしく、呟きながら木盤に書いていく。慣れない筆致はどこかたどたどしく、まるで子供が書いたようだ。

 ギギギ……

 きしむような音をたてて扉が開く。ゲオルグが驚いて振り向くと、そこには何時かの様にフードつきの長衣を羽織ったエドワルドが立っていた。
「相変わらずこの扉は固いな」
 ガチャンと音をたてて扉を閉めると、エドワルドは苦笑する。
「囚人が簡単に逃げては困るからだろう」
「確かに困るな」
 呆れたように返され、エドワルドは苦笑する。そして彼が向かっていた古びた机に目をやって少しだけ目を細めた。
「真面目にやっている様だが、夜は止めておいた方が良いな。目が悪くなる」
「今夜は月が出ていて十分明るい。雨だとさすがにする気は起きないけど」
 そう答えるゲオルグの表情には、半年前のような焦燥感は最早ない。あの一件は自分の中で吹っ切れたのか、夜もよく眠れている様子だと牢番からの報告は受けていた。
「やればできるじゃないか」
「……前は……遊んでいた方が喜ばれたし……」
 褒められる事に慣れていない上に、まさか子供の手習いと同等の物で褒められると思っていなかったゲオルグは視線を逸らした。
「今は本当にする事ないんだよ」
 天邪鬼な答えしかできないが、エドワルドは彼の顔が少しだけ照れて赤くなっているのに気付いた。あのままグスタフの元で庇護されていれば、決して見る事のなかった表情だろう。今更ながらにねじ曲げられてしまった彼の人生を元に戻してやれない事が悔やまれる。
「で、何の用だ?」
 エドワルドがここまで足を運ぶのは冬以来である。世情に疎くとも彼が自分に何か用があって来たのかぐらいはゲオルグにも推察できたらしい。
「ベルク準賢者に会った事は有るか?」
「ベルク? ベルク……ベルク……」
 ゲオルグはしばらく考え込んでいたが、ようやく思い出したのか嫌な表情を浮かべて顔を上げる。
「あの偉そうなジジイ」
「……」
 間違ってはいないなぁとエドワルドは内心思いながら、講師が来た時に使っている古びた椅子に座る。そして以前来た時と同じように懐から蒸留酒の小瓶を取りだしてゲオルグに手渡した。
「ラグラスが私を訴えていて、その審理をベルクが仕切る。それにお前も連れて来いと言って来た」
「俺を?」
 もらった蒸留酒を早速飲もうと、木の椀に移したところで動きが止まり、理解できないとばかりにゲオルグは首を傾げる。
「奴は私を排除して何でも言いなりになりそうなお前を国主に据えようとしている」
「な、何で今更……」
 呆気にとられ、ゲオルグの手元から少しだけ意識が逸れる。エドワルドに蒸留酒が零れそうになっているのを指摘され慌ててその貴重な差し入れの瓶に栓をする。
「ラグラスの主張では、私も部下も正統な後継者である自分を武力で排除した悪者だからな。同じ被害者であるお前を国主にと考えたのだろう」
「……そんなこと言われて平気なのか?」
 この半年余りで自分が間違っていたことぐらい充分理解している。それなのに理不尽な要求を受けても平然としているエドワルドを彼は理解できなかった。
「平気ではないが、戯言に過ぎないのは私も周囲もよく分かっている。ありがたいことにさまざまな援助も受けていて、それを覆す程の味方も得ている」
「そう……なのか……」
 よく分からないなりに他にも何か屈託が有りそうだとは理解できたが、それ以上は何も訪ねなかった。ごまかす様に蒸留酒を入れた椀に水を足し、それを一息に飲みほした。
「うまい……」
「そうか」
 久しぶりの酒にゲオルグの顔も緩み、エドワルドもその様子に顔が綻ぶ。
「ベルクの要求だが、先ほどの会議にお前も連れて行くことに決まった。もちろん逃げられないように十分な警護を付けての移動になる。不満は有るだろが大人しくしてくれるとありがたい」
「分かった……」
 ゲオルグは神妙にうなずいた。おそらく、これで何かあればエドワルドの一存ではどうにもできなくなるのだろう。一時は覚悟したが、それでも死を宣告されるのは怖い。多少なりとも分別を付けた今でははっきり分かる。今更ここを出ても自分を庇護してくれるものは最早皆無だろう。
「これはまだ確認されていないからあくまで噂だ。お前の取り巻き2人がラグラスの元にいるらしい」
「あの2人が?」
「ああ。フォルビアの農家を荒らすのに手を貸している。ウォルフが彼等を説得すると言っているが、下手に近づくとアイツの命も危ない」
「……それはそうだ」
 正しいことをしたのだが、彼等にしてみればウォルフは裏切り者である。話に耳を傾けることなく斬りつけられるのが目に見えていた。
「お前がフォルビアに付いたらもしかしたら何か仕掛けて来るかもしれない。十分な警護はつけるが、お前自身も気をつけなさい」
「分かった」
 ゲオルグがうなずくと、エドワルドは満足そうに頷き腰を上げる。そして来た時と同じようにフードをかぶるが、何かを思い出して振り返る。
「ああ、そうだ。そこ、マルモアのつづりを間違えているぞ」
「え?」
 慌てて木盤に向き直ると、指摘された通りマルモアの綴りを間違えていた。慌ててそこを消して正しい綴りで書き直す。
「ではな、ゲオルグ」
 扉の軋む音がして振り返ると、エドワルドは牢を出て行く。ゲオルグは慌てて立ち上がり、彼を呼び止めた。
「叔父上」
「何だ?」
「ありがとう」
 礼を言われ、エドワルドは寸の間目をしばたかせる。だが、口元に笑みを浮かべると彼は手を上げて牢を出て扉を閉めた。そしてこの半年での彼の成長にエドワルドは満足して自室に戻って行った。



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