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本編
第1話
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ダン、ダン、ダン。
ファラは足音も荒く離れに続く廊下を歩いていた。遠乗りから帰って直接来たので、着ている男物の服はほこりまみれで髪も乱れている。立ち居振る舞いも少年そのものなのだが、それでも愛らしい容貌は損なわれることはなく、それらも含めて彼女の魅力となっていた。
「ラシード従兄様、おられますか?」
離れに着くと、部屋の主の返答を待たずに扉を開けてズカズカと中に入っていく。そこでようやく部屋の主が奥から姿を現した。
現れたのは薄絹を幾重にも重ねたドレスをまとい、結い上げた金髪に凝った作りの簪を刺した中性的な顔立ちの人物。妙に背が高い以外は違和感なく着こなしているが、紛れもなく男性である。
ファラの母方の従兄にあたるラシードがこの離れに居候して10年。学問のみならず芸術に造詣が深い彼を師匠として慕っている彼女は、彼が独りでくつろいでいる時は好んでドレスを着ていることを知っている。特に驚くこともなく、血が昇った頭の片隅で今日も従兄は綺麗だと思った程度の事だった。
「いらっしゃい、ファラ。随分と荒れているみたいだね」
「そうなのよ、もう、聞いて」
ファラはよほど腹に据えかねる事があったのか、たまっていた鬱憤を一気にまくしたてようとするが、彼はそれを片手で制した。
「話は長くなりそうだね。だったら、ちょっと着替えておいで。随分と酷い有様だよ」
「あ……」
指摘されてようやく彼女も自分のあり様に気付いた。ここしばらく雨が降っていなかったせいか、馬に乗っていただけで全身ほこりまみれだ。あわてて袖で顔をこするが、余計に汚れを広める結果となっていた。
「ついでに湯も使うといい。ちょうど新しい香油も届いたから試してみると良いよ」
彼は召使を呼ぶと彼女の支度を命じる。彼女達も手慣れたもので、ファラが返事をする前に奥へと彼女を拉致していった。
全身を磨き上げられて疲労困憊したファラに用意されていたのは先ほどラシードが着ていたのと同じ薄絹を重ねたドレス。彼が濃い紅色に対して彼女の為に用意されたのは淡い朱鷺色。薄く化粧をし、軽く結った艶やかな黒髪に花を模した簪で彩れば、地方豪族とはいえ良家の子女に相応しいいでたちとなる。尤も、その動きには洗練さのかけらも見られないのが残念ではあるが……。
「似合うよ、ファラ」
ラシードが嫣然と微笑みながら、洗練された所作でお茶を差し出す。女性よりも女性らしいそのしなやかな動きはファラも見惚れるほど美しい。
しかし、正直に言うと、その美しさを持つ彼に見てくれだけを褒められてもあまり嬉しくない。複雑な気持ちで勧められるままに彼の隣に腰を下ろした。
「お世辞はあんまり嬉しくない」
「おや、私は世辞など言わないよ。ファラは綺麗だ。どこの国のお姫様と比べても、ファラほど美しい女性はいないよ」
ファラの生家、ジャルディード家は軍馬の生産と調教に秀で、地方の一豪族とはいえ国を統べる皇帝にも一目置かれる存在だった。
その一族で唯一の女の子となるファラは、祖父である長を始め皆に可愛がられて育ち、両親の想像をはるか斜め上を行く成長を遂げていた。
好きなことを存分にさせてもらったおかげで齢16にして馬術を極め、剣術も弓術も他の従兄や幼馴染達にも負けていない。そんな自分がラシードに師事した甲斐なく優雅さのかけらも持ち合わせなかったのは重々承知していていた。
大好きな従兄に褒められて嬉しいはずなのにファラは意地を張ってそっぽを向く。けれども、その気持ちとは裏腹に、正直な体は空腹を訴えて限界を知らせる。
「……」
「お昼、まだなんでしょ? 一緒に食べよう」
ラシードが手ずから淹れたお茶からは湯気と共にほのかな花の香りが漂っている。彼女が好きな茉莉花のお茶だ。本能ともいえる欲求に屈した彼女は意地を張り続けることもかなわず、そのお茶に手を伸ばした。
「おいしい……」
「たくさん用意したからいっぱい食べてね」
ラシードは特にファラの好きなものを選んで目の前に置いていく。その甘美な誘惑に勝てるはずもなく、空腹だった彼女は手と口を動かし続け、空になったお皿はラシードがせっせと片付けて行く。
「従兄様、あーん」
「ん、おいしい」
ようやくいつもの調子が戻ってきたファラにラシードは口へ焼き菓子を放り込まれる。お返しとばかりに今度は彼がファラに別の焼き菓子を食べさせた。
その光景はまるで仲のいい姉妹がお茶を楽しんでいるようにも見える。遠巻きに控える召使達は、そんな2人を微笑ましく見守っていた。
「じゃあ、落ち着いたところで何があったか教えてくれるかい?」
ラシードに言われてファラは自分が何をしに来たのか思い出した。思い出すと同時に怒りが再燃してくる。その表情が変わるさまを彼は面白そうに眺めながらファラが話し出すのを待っていた。
「みんなと遠乗りしてたら、また、ザイドが邪魔しにきたのよ」
ファラはむっつりと不機嫌そうに答える。ザイドはジャルディード家領に隣接する領地を持つ大貴族アルマース家の跡取りで、ファラが最も毛嫌いする特権意識の塊のような男だった。
半年前に行われた収穫祭の折に恒例となっている競い馬に乱入し、ファラが返り討ちにしていた。だが、それが気に入らないザイドは嫌がらせをしにわざわざジャルディードに現れるようになったのだ。
「奴も懲りないね」
ラシードは苦笑するが、ファラは大きなため息をつく。
「ザイドの奴、ただで済むと思うなよって言ってた。何か……企んでるのかな?」
その時はファラ自身も頭に血が上っていたし、彼女以上に腹を立てた幼馴染達によって詳しい話を聞き出す前にザイドは追い払われていた。
現在、アルマースの当主は宰相を務めている。その気になれば地方の一豪族を陥れる策などいくらでもあるに違いない。ファラは今更ながら焦燥感に駆られていた。
「どうしよう? 私……あの時出しゃばらなかった方が良かったのかな?」
普段は強気なファラが弱音を吐くのは珍しい。今にも泣きそうな彼女をラシードはギュッと抱きしめる。
「いいかい、ファラ。君は正々堂々と勝負して勝ったんだ。君が咎められることは何もないよ」
ラシードがそう宥め、話題を変えようとしたところで召使の1人が遠慮がちに声をかけてくる。
「恐れながら主様、ジャルディードの御当主様がお呼びでございます。お嬢様もいらっしゃるようにとの事でございます」
2人は思わず顔を見合わせる。居候の立場のラシードにも声がかかったと言う事はよほどの事態が起きたに違いない。彼は立ち上がると表情を引き締め、召使に声をかけた。
「分かった、すぐ着替える」
ファラ以外に彼の女装癖を理解してくれるものは少ない。ラシードはファラの化粧直しを召使に命じると、自身も着替えるために一旦自室に戻った。
ファラは足音も荒く離れに続く廊下を歩いていた。遠乗りから帰って直接来たので、着ている男物の服はほこりまみれで髪も乱れている。立ち居振る舞いも少年そのものなのだが、それでも愛らしい容貌は損なわれることはなく、それらも含めて彼女の魅力となっていた。
「ラシード従兄様、おられますか?」
離れに着くと、部屋の主の返答を待たずに扉を開けてズカズカと中に入っていく。そこでようやく部屋の主が奥から姿を現した。
現れたのは薄絹を幾重にも重ねたドレスをまとい、結い上げた金髪に凝った作りの簪を刺した中性的な顔立ちの人物。妙に背が高い以外は違和感なく着こなしているが、紛れもなく男性である。
ファラの母方の従兄にあたるラシードがこの離れに居候して10年。学問のみならず芸術に造詣が深い彼を師匠として慕っている彼女は、彼が独りでくつろいでいる時は好んでドレスを着ていることを知っている。特に驚くこともなく、血が昇った頭の片隅で今日も従兄は綺麗だと思った程度の事だった。
「いらっしゃい、ファラ。随分と荒れているみたいだね」
「そうなのよ、もう、聞いて」
ファラはよほど腹に据えかねる事があったのか、たまっていた鬱憤を一気にまくしたてようとするが、彼はそれを片手で制した。
「話は長くなりそうだね。だったら、ちょっと着替えておいで。随分と酷い有様だよ」
「あ……」
指摘されてようやく彼女も自分のあり様に気付いた。ここしばらく雨が降っていなかったせいか、馬に乗っていただけで全身ほこりまみれだ。あわてて袖で顔をこするが、余計に汚れを広める結果となっていた。
「ついでに湯も使うといい。ちょうど新しい香油も届いたから試してみると良いよ」
彼は召使を呼ぶと彼女の支度を命じる。彼女達も手慣れたもので、ファラが返事をする前に奥へと彼女を拉致していった。
全身を磨き上げられて疲労困憊したファラに用意されていたのは先ほどラシードが着ていたのと同じ薄絹を重ねたドレス。彼が濃い紅色に対して彼女の為に用意されたのは淡い朱鷺色。薄く化粧をし、軽く結った艶やかな黒髪に花を模した簪で彩れば、地方豪族とはいえ良家の子女に相応しいいでたちとなる。尤も、その動きには洗練さのかけらも見られないのが残念ではあるが……。
「似合うよ、ファラ」
ラシードが嫣然と微笑みながら、洗練された所作でお茶を差し出す。女性よりも女性らしいそのしなやかな動きはファラも見惚れるほど美しい。
しかし、正直に言うと、その美しさを持つ彼に見てくれだけを褒められてもあまり嬉しくない。複雑な気持ちで勧められるままに彼の隣に腰を下ろした。
「お世辞はあんまり嬉しくない」
「おや、私は世辞など言わないよ。ファラは綺麗だ。どこの国のお姫様と比べても、ファラほど美しい女性はいないよ」
ファラの生家、ジャルディード家は軍馬の生産と調教に秀で、地方の一豪族とはいえ国を統べる皇帝にも一目置かれる存在だった。
その一族で唯一の女の子となるファラは、祖父である長を始め皆に可愛がられて育ち、両親の想像をはるか斜め上を行く成長を遂げていた。
好きなことを存分にさせてもらったおかげで齢16にして馬術を極め、剣術も弓術も他の従兄や幼馴染達にも負けていない。そんな自分がラシードに師事した甲斐なく優雅さのかけらも持ち合わせなかったのは重々承知していていた。
大好きな従兄に褒められて嬉しいはずなのにファラは意地を張ってそっぽを向く。けれども、その気持ちとは裏腹に、正直な体は空腹を訴えて限界を知らせる。
「……」
「お昼、まだなんでしょ? 一緒に食べよう」
ラシードが手ずから淹れたお茶からは湯気と共にほのかな花の香りが漂っている。彼女が好きな茉莉花のお茶だ。本能ともいえる欲求に屈した彼女は意地を張り続けることもかなわず、そのお茶に手を伸ばした。
「おいしい……」
「たくさん用意したからいっぱい食べてね」
ラシードは特にファラの好きなものを選んで目の前に置いていく。その甘美な誘惑に勝てるはずもなく、空腹だった彼女は手と口を動かし続け、空になったお皿はラシードがせっせと片付けて行く。
「従兄様、あーん」
「ん、おいしい」
ようやくいつもの調子が戻ってきたファラにラシードは口へ焼き菓子を放り込まれる。お返しとばかりに今度は彼がファラに別の焼き菓子を食べさせた。
その光景はまるで仲のいい姉妹がお茶を楽しんでいるようにも見える。遠巻きに控える召使達は、そんな2人を微笑ましく見守っていた。
「じゃあ、落ち着いたところで何があったか教えてくれるかい?」
ラシードに言われてファラは自分が何をしに来たのか思い出した。思い出すと同時に怒りが再燃してくる。その表情が変わるさまを彼は面白そうに眺めながらファラが話し出すのを待っていた。
「みんなと遠乗りしてたら、また、ザイドが邪魔しにきたのよ」
ファラはむっつりと不機嫌そうに答える。ザイドはジャルディード家領に隣接する領地を持つ大貴族アルマース家の跡取りで、ファラが最も毛嫌いする特権意識の塊のような男だった。
半年前に行われた収穫祭の折に恒例となっている競い馬に乱入し、ファラが返り討ちにしていた。だが、それが気に入らないザイドは嫌がらせをしにわざわざジャルディードに現れるようになったのだ。
「奴も懲りないね」
ラシードは苦笑するが、ファラは大きなため息をつく。
「ザイドの奴、ただで済むと思うなよって言ってた。何か……企んでるのかな?」
その時はファラ自身も頭に血が上っていたし、彼女以上に腹を立てた幼馴染達によって詳しい話を聞き出す前にザイドは追い払われていた。
現在、アルマースの当主は宰相を務めている。その気になれば地方の一豪族を陥れる策などいくらでもあるに違いない。ファラは今更ながら焦燥感に駆られていた。
「どうしよう? 私……あの時出しゃばらなかった方が良かったのかな?」
普段は強気なファラが弱音を吐くのは珍しい。今にも泣きそうな彼女をラシードはギュッと抱きしめる。
「いいかい、ファラ。君は正々堂々と勝負して勝ったんだ。君が咎められることは何もないよ」
ラシードがそう宥め、話題を変えようとしたところで召使の1人が遠慮がちに声をかけてくる。
「恐れながら主様、ジャルディードの御当主様がお呼びでございます。お嬢様もいらっしゃるようにとの事でございます」
2人は思わず顔を見合わせる。居候の立場のラシードにも声がかかったと言う事はよほどの事態が起きたに違いない。彼は立ち上がると表情を引き締め、召使に声をかけた。
「分かった、すぐ着替える」
ファラ以外に彼の女装癖を理解してくれるものは少ない。ラシードはファラの化粧直しを召使に命じると、自身も着替えるために一旦自室に戻った。
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