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四章:大人になったラスと真実を知った私

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 悲しみの後に湧いてきたのは、この世界の女神とやらに対する猛烈な怒りだ。
 何とか一矢報いてやりたいが、彼女達は見えない存在な上に万能。手も足も出ない。
 ここへ落ちてすぐに番を見つけられなかった私は、女神の期待を裏切ったことになり、本当ならすでに死んでいる筈だった。
 でも今は見つけた。一生を共にしたい相手をちゃんと見つけた。
 後からでもいいですよ、とおまけしてくれたっていいじゃないか。
 
 心の中で身勝手! 狭量! せっかち! と思いつく限りの罵倒を浴びせる。
 ラスがポンと背中を叩いてくれなかったら、闇落ち待ったなしだった。

「ミカ、大丈夫か? すごく怖い顔してたけど……」
「あ、あはは……うん、大丈夫」

 どんなに女神を恨んだって、現実は覆らない。
 私はもう、自分の人生を終わらせる道を選んでしまった。
 あとは、ラスにどうするか選んで貰うだけだ。

「さっきの話の続きしたいんだけど、いいかな?」

 気を取り直すように明るい声を出して、ラスを見上げる。

「もちろん。せっかくだから、昨日言ってた花見もしよう」

 これからどれほど残酷なことを告げられるか知らないラスは、無邪気に微笑んだ。
 私の話に、彼は一体どんな顔をするだろう。
 少し想像しただけで、胸が潰れそうに痛む。
 
「母さん、ミカとちょっと出かけてくる。夕方までには戻るから」
「あら、そうなの? じゃあ余ったククチェでサ……サン何とかを作ってあげるから、持っていって。ほら、ミカに教えて貰ったやつ」
「サンドイッチな。うん、ありがと」

 ククチェというのは、ソロナ粉とは別の植物の実をすり潰して粉状にし、マンゴーそっくりの果実の果汁を混ぜて平たく焼いたものだ。控えめな甘さとサクッとした食感が病みつきになる。
 そのククチェに野菜と燻製肉を挟んだサンドイッチは、私が作る昼食の定番メニューだった。
 
 ベネッサさんがサンドイッチを作っている間に、ラスはおしぼりと敷物代わりのブランケットを用意していく。彼はそれらを年季の入った革のショルダーバッグに詰めると、私にはい、と手渡した。

「ミカは荷物係ね。両手は開けて欲しいから、これは肩から提げて」
「分かった。……ん? 両手を開けるって?」

 ラスにしがみつくのに邪魔ってことかな?
 でも、これまでは荷物を持ったまま首に手を回してたよね。

「これから行くとこは、人型で飛ぶには遠いんだ。鳥型になった俺と飛ぶのは初めてだろ? 乗り方教えるから、落ちないようしっかり両手で捕まってて」

 ラスの説明になるほど、と頷いたものの、「鳥型になった俺と飛ぶ」の部分が脳内をリピートする。
 あの巨大鳥に変身していくってことは、私は背中に乗るの?
 いや、乗れるの?

「大丈夫? 落ちたりしない?」

 ラスを信じていないわけじゃないが、確認せずにはいられない。
 彼は「ほんと怖がりだな、ミカは」と笑って私の頭を撫でた。
 いや、普通怖いよ!

「俺がミカを危ない目に遭わすわけないだろ?」
「うん……」
「まあ、ミカが俺から手を離して立ち上がったら、落ちるかもな」
「そんなことしないよ!」
「なら、大丈夫。それにもしそうなっても、俺がちゃんと捕まえるよ」

 ああ、私が崖ダイブした時のダンさんみたいにね……って、あれはもう勘弁して欲しい。


 ベネッサさんお手製のサンドイッチをバッグに入れ、ワンピースから長袖シャツとズボンに着替えて外に出る。

「ちょっと離れてて」

 ラスはそう言い置いて走り出すが早いか、あっと言う間に鳥型に変わった。
 変身時に巻き起こる風をやり過ごした後、彼のジェスチャーに従って騎乗を試みる。
 鳥型のラスに乗るのは、結構大変だった。
 ラスは私が乗りやすいよう、首を下げて伏せのポーズを取ってくれたのだが、あいにく私は木にすら登ったことがない。背中によじ登る途中で何度もずり落ちたし、翼と翼の間に収まるまでにも時間がかかった。

「キューイ」

 ラスがのんびりした鳴き声をあげる。
 まるで「焦らなくていい」と言ってくれているみたい。

 ラスの羽毛は硬めでしっかりしていた。
 ぴたりと座れる位置をようやく探り当て、両方の内腿にぐっと力を入れる。
 ラスは嘴で革ひもを器用に咥え、首を軽く振って革ひもの端を私に投げてきた。
 どうやらこれを手綱代わりにするらしい。
 私は少し離れたところに着地した革ひもを爪先にひっかけて引き寄せ、両手でしっかり握った。

「キュイ?」
「うん、準備できたよ。いつでもおっけー」
「キュイ!」

 ラスは慎重に翼をはためかせ、ゆっくりと舞い上がった。
 当たり前だけど、まっすぐ上に浮くわけじゃない。
 私は手綱にしがみつき、振り落とされまいと必死になった。
 みるみるうちに遠ざかっていく家を、血の気の引く思いで見送る。
 これ、相当きつい……!
 やったことないけど、乗馬が一番近いんじゃないだろうか。
 内腿はぷるぷるするし、握り込んだ拳は力を入れ過ぎて白くなっている。
 だけど辛かったのは、ラスが水平に飛び始めるまでだった。

 上空を飛び始めてからの体勢はすごく安定していた。
 ラスが上手くバランスを取りながらゆったり飛行してくれているので、前につんのめったり、後ろにのけぞったりもしなくなる。騎乗事態に慣れてきたからかもしれないが、ようやく辺りを見回す余裕が生まれた。
 青い空はどこまでも澄んでいて、淡い雲が私の身体をふわりと包んで飛び去っていく。空気はとても冷たかった。
 
 ここから落ちたら即死間違いなしの状況なのに、何故かもう怖くない。
 ラスへの信頼が本能的な恐怖を上回ったのかもしれない。
 革綱を手繰り寄せ、上体を伏せる。
 大好きな人の温もりと躍動に、胸がじんと痺れた。

「ラス……ラス、大好き」

 立派な羽毛に覆われた逞しい背中に頬をくっつけ、私は何度も囁いた。



 鼻と耳が寒さで赤くなった頃、ラスが「キュイ」と高い声を上げ、翼を水平に広げた。
 もうすぐ滑降に入るよ、という合図だ。どうやら目的地付近まで来たらしい。
 私は再び内腿と両手に力を込めた後、そっと首を伸ばして地上を覗いた。
 
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、一面の純白だった。
 眩ゆいほどの白が、群生している野百合だと分かるまで数秒かかる。
 切り立った崖の近く、森が大きく拓けた辺りに、数百本以上の野百合が咲き誇っていた。
 真っ白な花弁が風にそよぎ、海原のようにゆらゆらと揺れる。
 近くで見れば一本一本の主張の強さに圧倒されてしまいそうだが、高い空から見下ろす花畑は、霞のように儚く、幻のように美しかった。

「キューイ?」

 どうだ、と言わんばかりにラスは同じ場所を何度も旋回する。
 
 気づけば、頬がしとどに濡れていた。
 こんなに綺麗な光景を、私は生まれて初めて見た。
 感極まると涙が止まらなくなることも、初めて知った。
 ありがとう、の代わりに革綱をくい、と引っ張る。

 忘れないね、絶対。
 あなたが今日見せてくれたこの風景を、別れの眠りにつく最後の一瞬まで覚えてる。
 心の中で強く叫び、首を振って涙を振り払う。
 ラスは私が落ち着くまで、上空に留まり続けてくれた。

「ありがとう、ラス。すごく綺麗だね! 感動して泣いちゃったよ」

 大きく声を張って、伝える。
 ラスは「キュイ」と嬉しそうに答え、翼を斜めに傾けた。


 
 ラスは花畑から少し離れたところにある草原に、フワリと着地した。
 両腿が鈍い筋肉痛を訴えている。私はよろよろとラスの背中から滑り降り、草むらに座り込んだ。
 内腿とふくらはぎをトントンと拳で叩いている間に、ラスは私から距離を取って人型に戻る。

「綺麗だったろ?」

 ラスがいつもの無邪気な笑みを浮かべ、駆け寄ってくる。
 私は立ち上がり、両腕を広げて彼を受け止めた。
 力強い腕が背中に回され、きつく抱き締められる。私も負けじと力を込めて、引き締まった体躯を抱き締め返した。

「あんなに綺麗な景色、見たことない。すっごく嬉しい。連れてきてくれて本当にありがとう」

 広い胸に頬を摺り寄せ、心からの感謝を述べる。
 ラスは小さく息を呑み、私の肩に額を押し付けた。
 あれ? 甘えられるの嫌だったかな? 
 少し離れて表情を確認しようにも、ラスの腕の力は強くて、簡単には解けない。

「ラス? どうしたの?」
「……ミカが可愛すぎて、心臓止まりそう。初めて俺に甘えてくれた。あんな綺麗な笑顔、初めて見た」

 ラスの掠れた声に、かあっと頬が熱くなる。
 
「そ、そんなことない、いつもと一緒でしょ」

 ラスはようやく顔をあげ、私の耳元で囁いた。

「全然違うよ。好きでたまんない相手を見る時の顔だった。……そうだろ?」
「うっ……やめて、その声でそんなこと言うの、禁止!」
「ん? どんな声?」
「腰に響くみたいなセクシーな……って説明させないでよ!」

 ラスは声を立てて笑い「全部言ってるじゃん。っていうか、せくしー、って何?」と尋ねる。

「うまく説明できない……うーん、この場合カッコいい大人の男の人のこと?」
「いや、聞いてんの俺だけど。でも、そっか。褒め言葉ってことか」

 にやり、と不敵な笑みを浮かべ、ラスは私の背中から腰へと両手を滑らせた。
 ぴたりとくっついていた上半身に、隙間が生まれる。
 彼は私の額に自分の額をコツンと当て、「大好きだよ、ミカ」と囁いた。
 私が指摘した『セクシーな声』の威力はすごかった。
 思わず座り込んでしまいそうなほど甘く艶めいた声に、息が止まりそうになる。
 
「世界で一番好き。ミカさえ傍にいてくれたら、俺はきっと死ぬまで幸せだ」

 私も、そうだよ。
 ラスが隣にいる人生を当たり前の顔して歩んでいきたかった。
 ずっと、ずっと一緒にいたかった。

 喉元まで込み上げた熱い塊をぐっと飲み込み、私は真実を打ち明けるべく唇を開いた。
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