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四章:大人になったラスと真実を知った私

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 彼が帰っていった後、私たちは静かに夜を迎えた。
 ランプの消えた寝室に、窓越しに差し込む冴え冴えとした月光だけが穏やかに息づく。

 ラスとの約束を守る為、私は床で寝ると言い張った。

「床はものすごく堅いんだよ。ミカが眠れるわけない」
「やってみないと分かんないでしょ」
「とにかく駄目。それなら、私が床で寝る」
「そっちの方が眠れないよ!」

 しばらく言い合ったが、決着がつかない。私は根負けしてユーグと一緒に休むことにした。
 ベッドは幸いなことに広かったので、二人の間に掛布団を丸めて置き、防波堤を作る。

「私を本気で死なせたくないなら、寝ぼけて越えてこないでね」

 ユーグが大真面目な顔で釘を刺してくる。私はふふ、と声に出して笑ってしまった。
 ベッドに横たわった私の隣に、ユーグは座った。
 眠る前に魔法を解いてもらう約束なのだ。

「私の魔法の影響が完全に切れるまで、どれくらいかかるか分からない。さすがに今の晴れと次の雨くらいは持つだろうけど、その後はどうなるか……。本当にいいんだね?」

 ユーグが強張った声で話しかけてくる。
 私は大きく息を吸い、こくりと頷いた。

 彼の指がぽわんと発光する。
 何度見ても蛍みたいに綺麗だ。そう思っているうちに、ユーグが呪文を唱え始める。
 彼は私の額に光る指を当て、何か文字を書いていった。
 面白いくらいに、全身の力が抜けていく。

 凶暴な眠気が私を覆っていった。
 完全に眠ってしまう前に、これだけは言っておかなければ。

「あなたを沢山殴ったこと、私は謝らない。でも、憎んでないからね。ユーグの貴重な4年間を分けてくれて、本当にありがとう」

 瞼が重くて開けていられない。
 目をつぶったまま懸命に唇を動かし、感謝を伝える。

「……ほんとにずるいな」

 遠ざかるユーグの声は、微かに震えていた。

 
   ◇◇◇


 その日も私は、日の出前に目覚めた。
 朝の沐浴の習慣はとっくに無くなっているのに、いまだにあの頃と同じ時間に起きてしまう。

 意外にあどけないユーグの寝顔をしばらく眺めてから、ベッドを抜け出す。
 家に帰ると書置きを残したかったが、西の島で紙とペンは貴重品だ。彼の魔法書の表紙に木炭で書くわけにもいかず、黙って寝室を出た。

 黙々と荒れた道を歩き、半分くらいまで進んだ頃、私は上空を飛んでいる一羽の巨大鳥に気が付いた。
 タリム人だけど、ラスじゃない。
 鳥型に変身されると見分けがつかなくなるのだが、何故かラスだけはすぐに分かる。

 こんな時間に飛んでるなんて、ジャンプの帰りだろうか。村の誰なんだろう。
 右手を目の上にかざし、まだ薄暗い空を舞う鳥を見上げる。
 巨大鳥は私に気づいたようで、少し離れたところに舞い降りると、白く発光して人型に戻った。
 私が眺めていたのは、チェインだった。
 距離が遠いので表情までは分からないが、髪形や体つきで彼だと分かる。
 ちょうどいいところで会えた。彼には直接結婚のお祝いを言いたかったのだ。

「おはよう、チェイン。こんな朝早くからどうしたの?」
「おはよ、ミカ。ちょっと果物取りに、な」

 彼の手には、薄紅色のスモモに似た果物が入った袋が下がっている。

「あー、分かった。奥さんに取ってきてって言われたんでしょう? 結婚したんだってね、おめでとう」
「まあな。ありがと」

 チェインは照れくさそうに顔を顰めた後、不思議そうに尋ねる。

「お前こそ、なんでこんな朝っぱらから出歩いてんの? もしかして、あの魔法使いんとこに外泊したのか?」
「そんなにすぐ分かる?」

 ワンピースの袖を鼻先に近づけ、嗅いでみる。
 特にいつもと変わらない石鹸の香りがしたのだが、チェインは腑に落ちない顔で首を傾げた。

「ああ、ミカから魔法使いの匂いがする。なんだよ。ラスもお前も、結局は別のやつと番うのかよ」

 何故か不服げなチェインの言葉が、耳に刺さる。
 私は信じられない思いで、瞬きを繰り返した。

「……ラス、も?」
「あいつはサヤナと番うんだろ? さっき沐浴場に二人でいるとこ見たけど……」

 頭のてっぺんから血の気が引いていくのが分かる。
 顔色を変えた私を見て、チェインは気まずそうに口を噤んだ。
 
 サヤナちゃんには、私も会ったことがある。
 組紐を最初に気に入ってくれたグループのうちの一人で、薄茶の長い髪がよく似合う可愛い女の子だ。
 確か、ラスと同い年だった。
 『ラスが髪を結ってるのと、同じ配色のブレスレットが欲しいんです』
 彼女はわざわざ家までやって来て、こっそり私に注文した。その時のはにかんだ笑顔を思い出し、ああと思い当たる。

 ……そっか。ラスが雨の時期に会ってたのは、サヤナちゃんだったんだ。
 水臭いなぁ、もっと早く教えてくれたらいいのに。――姉としての模範解答は、きっとこんな感じ。
 頭ではそう言うべきだと分かっているのに、私の唇は動かなかった。
 
 ずっと弟として好きなのだと思っていた。
 誰より大切だけど、それは家族愛だと信じていた。
 昔チェインとこうして話した時、私は確かに言ったはず。
 ラスは子どもだ、そんな風には見られない、と。

 あの頃と比べて、私とラスの何が変わったわけでもない。
 ラスが大人になっただけだ。
 そして私の感情だけが、いつからか間違った方向へと曲がってしまったのだと突きつけられる。
 
 ラスにも誰かいい人が出来たんじゃないか、なんて表向きは思いながら、私は本心では信じていなかった。
 彼の一番は自分だと、何の根拠もない謎の自信を持っていた。
 いつまでも私にこだわってないで姉離れしたらいいのに、という建前はうそ寒い欺瞞ぎまんで、いつもどこかで『離れていくわけない』とたかをくくっていたのだ。
 自分はラスを置いていく癖に、私は最後の一瞬まで、彼の心の中心に居続けたかった。 
 それがラスにどれほど深い傷を残すのか、一番分かっているはずなのに。

 己の心の醜さに耐えがたい羞恥と嫌悪を感じながら、同時に強い嫉妬を抱く。

 私によくやるように、ラスがサヤナちゃんの髪をくしゃりと撫で、眩い笑顔を見せ、壊れ物を扱うような慎重な手つきで抱きしめるのかと思うだけで、息が上手く吸えなくなった。
 しかも、早朝の沐浴場って。
 私達だけの思い出の場所だと勝手に思ってたよ。

「おい、ミカ。大丈夫か?」

 恐る恐るチェインが尋ねてくる。
 私は何ともない、という表情を作ろうとして失敗した。
 頬が引き攣り、上手く笑えない。

「ごめん、なんか、びっくりして……」
「いや、俺の方こそ悪い。てっきりミカも知ってて、それでユーグのところに行ったのかと」
「違うよ。ユーグとはそんなんじゃない」

 それだけははっきりさせておきたくて、否定する。
 私が好きなのはユーグじゃない。
 ラスには言えない。今更遅いし、近いうちに死ぬと決まっている私が口にしていいことじゃない。
 だけど、せめて誰か一人くらいは覚えていて欲しいと思った。

「え、じゃあ――」
「うん。私は、ラスが好き。今、気づいたよ。ずっと好きだったんだって」

 チェインの瞳に、深い同情の色が浮かぶ。
 私は今度こそ、へらりと笑ってみせた。

「気づくの遅い! って感じだよね」
「ミカ……」
「誰にも言わないで。ここだけの話にしてくれたら助かる」

 チェインは深く追求せず、「分かった」と頷いてくれた。
 
「ごめん、引き留めて。今度ハンナさんにもおめでとうを言いに行っていい?」
「ああ。ハンナも喜ぶよ」
「じゃあ、またね!」

 私は明るく手を振り、踵を返した。
 チェインが心配そうにその場に立ち止まり、こちらを見送っているのが分かる。
 私は元気に見えるよう、軽やかな足取りで坂道を上った。

 
 歩くことに集中したせいで、あっという間に家に到着した。
 いつもなら家に戻ってくるとホッとした。だけど今は、庭先から足が動かない。
 どうしよう……。
 少し散策して、もっと頭を冷やしてから帰ろうか。
 迷いながら、ぼんやり玄関扉を眺める。

 どれだけも経たないうちに扉はガチャリと開き、私は飛び上がりそうなほど驚いた。
 現れたのは、ラスだった。

「おはよう、ミカ。思ったより早かったな」

 ラスが私を見て、嬉しそうに翼を動かす。
 小さい頃からのその癖が、今は堪らなく憎らしい。

「うん。あんまり長居しても悪いしね」

 私は必死に平静を装った。
 自覚したばかりの初恋と嫉妬を笑顔の奥に押し込め、いつものように微笑む。
 会心の出来だと思ったのに、長い付き合いのラスの目は誤魔化せなかったようだ。彼は釈然としない表情を浮かべ、歩み寄ってくる。

「大丈夫か、ミカ。顔色、良くないぞ」

 ラスは無造作に腕を伸ばし、大きな手で私の頬に触れた。
 動いた拍子に、ポタリ、とラスの前髪から冷たい雫が落ちてくる。

 まだきちんと乾いていない濡れ髪に、心の蓋が押し上げられる。
 サヤナちゃんと2人きりの沐浴は、楽しかった?
 どんな話をしたの?
 彼女にも、こんな風に触れた?
 それとももっと情熱的に抱き締めた?
 醜い嫉妬の鋭い針で、全身を貫かれる。
 
「――さわらないで……っ!」

 私はラスの手を思い切り振り払った。
 そのまま彼の隣を走り抜ける。

 ラスは、私の突然の豹変ぶりにあっけにとられていた。
 彼が悪いんじゃない。サヤナちゃんだって悪くない。
 私が勝手に拗らせているだけだ。頭では分かっているだけに、惨めで堪らない。

 私は自室に駆け込むと、ベッドに突っ伏した。
 堪えきれない涙が溢れ、枕を濡らしていく。

「うっ……く……う」

 自分に時の魔法がかけられていると知った時は、ただ腹が立った。
 今はひたすら悲しい。
 大好きなラスに当たってしまった自分が憎い。
 これほど苦しい思いをするのなら、自覚したくなかった。
 ずきずきと痛む胸を癒し、初恋を良い思い出に変えるだけの時間は、多分もう残っていない。
 
 
 
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