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第一章
2-3.
しおりを挟む騒動があった次の日。
アレックスはいつも通りヘーゼルの部屋を訪れた。既に身支度を整えたヘーゼルがアレックスを見て微笑む。
「おはようございます、アレックス先生」
同じように返しながら、アレックスはヘーゼルから視線を外さずに後ろ手に扉を閉めた。
「ヘーゼル様」
「はい、先生」
車椅子の傍らにぴったりと付く犬の頭を優しげに撫でていたヘーゼルが手を止めてアレックスを再び見た。
「昨日は騒ぎ立ててすみませんでした。ヘーゼル様は病みあがりなのに。大変失礼しました」
「ううん、気にしないで。先生こそお疲れなのだと聞きました。無理しないでね」
「勿体ないお言葉です」
「…ところで」と、アレックスは何気無く口を開いた。
「ヘーゼル様はお目覚めになってからずっと車椅子なのですよね?」
「うん。まだうまく歩けなくて…。お医者様には僕がお寝坊だったからって言われちゃった」
照れたように、または困ったように笑うヘーゼルに、穏やかに微笑みながらアレックスが言った。
「本当は歩けるんじゃないですか?」
不気味な程の沈黙が落ちた。
明らかに流れる空気が変わった。
僅かな時間だったのかもしれない。だが、努めて平静を装うアレックスには何刻にも思われた。
きい、ホイールが動く。車椅子がこちらを向く。笑みを収めたヘーゼルが真正面からアレックスを見た。
「続けて」
短く一言。子どもがアレックスに命じる。何故そう思うのか話せと言っているのだ。
威圧感すら感じてしまった自らを叱咤する。しまったと思うも、ここまで来たらもはや後戻りはできない。それに疑念を抱えながらつかえるのは性に合っていないのだ。
「昨晩、夜の庭を歩いている人影を見ました。ちょうどヘーゼル様くらいの小柄な人影です。見間違いではありません。月明かりに反射していたのはとても綺麗な金の髪でしたから。あんな髪の持ち主を、私はヘーゼル様以外に知りません。確かに脚を弱くされたヘーゼル様が自由に出歩くのは困難です。…けれど、本当は歩けるのならば。私のこういう勘はあたるんですよ」
言い終えたアレックスはやおら肩を強張らせる。
子どもの傍らに座る犬がアレックスを見ていた。じっと。一瞬たりとも逸らされることはない。澄んだ瞳だ。だが今にも飛び掛かってきそうな緊張を感じた。
「メイジー」
主人の高い声が制するように名前を呼ぶ。
ああそんな名前だったのか、と頭の何処か能天気な部分で思う。
くん…、と不満げに犬が鼻を鳴らす。その頭を撫でながら、ヘーゼルが車椅子を動かし犬の前に出た。
俄に子どもが愛らしく微笑んだ。
「降りましょうか。先生がそう仰るのなら」
にっこりと笑いかけながら畳み掛ける。
「この車椅子を降りて」
「本当に僕が歩けるかどうか」
「知りたいんでしょう」
「…結構です、ヘーゼル様」
制止した自らの声ががさがさに干からびていて驚く。極度の緊張下に合ったような声の強張りだった。
「そうですか?」
ヘーゼルがきょとんと大きな目を瞬かせる。そうして、今にも腰をあげそうだった車椅子に再び深く腰掛けた。
感じていた緊張が霧散する心地がして、アレックスは気取られぬよう努めて大きく息をついた。
深々と低頭する。
「大変失礼致しました」
深く腰を折りながら、脳裏にはヘーゼルが見せた表情が離れなかった。
ただの子ども。
少し賢いただの。
…でも、ただの子どもが、あんな目をするか…?
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