十五光年先の、

西乃狐

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「待ち人は、まだ来られませんか?」

 手が空いたらしい女将が話しかけてきた。
 待ち人という表現が気にはなったものの、スルーすることにした。

「ええ。もう少しかかるんじゃないですかね……いや。もしかしたら、来ないかも」

「えっ? どうしてですか? わたし、楽しみにしてるのに」

 いやいや、それはおかしいだろう。そう思うが、突っ込めない。
 単純にお客が来ることを歓迎するのであれば当然のことだが、女将が言うニュアンスは明らかに異なっている。

「女将さん、本当に恋愛禁止だったんですか?」

「あら。本当ですよ。疑ってます?」

「いや、そういうわけではないんですけど。でも、好きな人くらいはいたでしょう?」

「いいなって思う人はいましたよ。でもね、わたしの場合、禁止されてる間は不思議とあまり燃え上がらなかったんですよね。他の子で燃え上がっちゃった子はいましたけどね」

 他の子?

「女将の周りには他にも恋愛を禁止されている人がいたんですか?」

「え、あ、まあ。そうですね。何人か」

 筋金入りのお嬢様学校にでも通っていたのだろうか。財閥のご令嬢ばかりが集まるような。

 女将の左手に目をやる。前から気づいてはいたが、薬指に指輪はない。だからと言って独身とは限らない。だが、それを直接質問するのもはばかられる。
 女将はそんなこちらの視線に気づいたようで、自分の左手に目を落としてから悪戯っぽく微笑んだ。

「わたしに指輪のプレゼントでもして下さるのかしら?」

「え、あ、いや」

「冗談ですよ。こう見えても、その辺のことは間に合ってますから。各務さんに奥様を裏切らせるようなことはしませんよ。今日、これから来るお連れさんのことも、」

 そこで言葉を切った女将は少し顔を近づけてきたかと思うと、内緒話をするかのように小声でこう囁いた。

「内緒にしておきますから……」

 何だろう、この技は。
 何だろう、この感情は。
 こんな女性とずっと一緒にいたら、すぐに一生分の鼓動を使い果たしてしまいそうだ。

「いや、だから、そんな相手じゃないって」

 そこで他の客が声を掛けたので、女将は笑顔の残像だけを残して行ってしまった。
 その隙にグラスに口をつけて心臓を宥める。

 それにしても女将が駆使する様々な表情には、やはり何か見覚えがあるような、あるいは懐かしさのようなものが感じられてならない。それはかぐや部長を思い出させたうなじのせいかもしれないが、それだけではないようにも思う。本当に恐るべき女将である。普通の小料理屋なのに、高級クラブのようでもあり、キャバクラのようでもあり、あるいは何かしらのテーマパークのアトラクションのような様相さえ醸し出してくる。女将ならどんな高級クラブでもキャバクラでも、すぐにナンバーワンになれそうだ。

 スマホに目をやる。変化はない。尋深には完全に既読スルーされている。女将にももたあそばれているかのようだし、尋深にもいいように揺さぶられている。まるで学生に戻ったかのようだ。

 APTに入って程なく、季節は梅雨に移った。
 日坂とはお互いの下宿を行き来し、くだらない話で夜を明かす仲になっていた。
 彼は「柴田奈央との距離をじわじわと縮める作戦」という名ばかりで内容の無い作戦を語り、実践を試みていたようだが、彼女のサークルへの参加率が低い上に梅雨の雨で活動できない日も続き、進展は無さそうだった。

 柴田奈央と中学時代に知り合いだったことは日坂には言いそびれていた。何故言えなかったのかは今となってはよく分からない。
 再会から数日後、本人——柴田奈央とはテニスコートの片隅で二人きりになった時、少しだけ話をする機会があった。

——元気そうだね。

 向こうからそう言ってくれなければ、自分からは何も言えなかっただろう。

——先輩は何だか元気過ぎて、見違えちゃいました。

——そう? いろいろあってね。高校からテニスを始めたんだ。まだ星も好きだけど。各務君は変わらない、いや。少し逞しくなったかな。確かあの頃は同じくらいだったのに背も伸びたよね。

 いろいろあってねの部分を突っ込むことはできなかった。突然いなくなった事情について、噂話に毛が生えた程度の情報はあったので、詳細は知らずとも楽しい話題でないことは明らかだった。
 
 実はかぐや部長が姿を消してから数日後、田口と二人で彼女の自宅を訪れていた。それは古い二階建てのアパートで、けれど教えられた部屋はもぬけの殻だった。偶然会った別の部屋の住人に訊ねてみたら、夜逃げでしょと冷たく言われた。帰り道、田口と二人、全く口をきかなかった。

——ごめんね。せっかく天文部に入ってくれたのに。部長が消えちゃって、みんな怒ってたでしょ。

——いえ。心配はしましたけど、誰も怒ってなんかいませんよ。天文部だって少なくとも僕が卒業するまでは存続しましたし。

——そうなんだ。なら良かった。

 別のメンバーが近づいて来たので会話はそこで終わった。
 中学一年の時、彼女は三年だった。大学では学年は一つだけ上になっている。留年か浪人か、どこかで一年ダブっているのだ。それを訊ねることなど出来るはずもない。それ以降、彼女と話す機会はあっても、お互いに昔の話題を口にすることはなかった。 

 日坂が柴田奈央と会えない会えないと愚痴っている頃、僕の方は尋深とサークルでちょこちょこ顔を合わせながらも関係性に変化はなかった。それなりに会話も交わすものの、それは他のメンバーとも変わらない。なりたいのは単なる仲良しではなく、特別な存在だった。そんな思いは会うたびに、いや。会わなくても募る一方だったけれど、行動に表すことは出来ずにいた。

 あの年は梅雨入りが早く、その当初に雨が集中した。梅雨入りして暫く豪雨が続き、自転車通学もままならない、ましてやテニスどころではない日が続いていた。
 そんな雨が前日の夜に漸く途切れたある日。曇り空ではあったものの、やっとコートが使えるかなと思って様子を見に行ったところへ、嘲笑あざわらうかのようにまた雨が降り始めた。

 暗澹あんたんたるグラデーションを成した低い空と、徐々に水溜まりが大きくなっていくテニスコート。
 傘も差さず、水溜まりに広がっては消えて行く波紋を眺めていると、後ろから差し出された傘に視界が遮られた。

——傘、持ってないの?

 尋深だった。

——今日は降らないだろうと思ったんだ。自転車もずっと置きっ放しだし。

 それは降らないで欲しいという希望的観測でもあった。サークルが雨天中止ばかりでは、彼女の顔も見られない。

——あなたが自転車を置きっ放しかどうかなんて、天気に影響するわけないじゃない。見通しが甘いなあ。甘い甘い。そんなことじゃ虫歯だらけになっちゃうよ。

 笑わせようとしたのかもしれないが、正直つまらなくて笑えなかった。

——どういう意味だよ。

 口調が冷たくなってしまったのは、雨天でも彼女に会えたという嬉しさの裏返しでもあった。素直じゃない。好きな女の子を苛める男子小学生のレベルだ。
 彼女の方は意に介する様子もなく、一人で声を立てて笑っていた。
 その笑い声に合わせて揺れる傘の色が赤と白だったのは憶えているけれど、模様までは思い出せない。はっきりしているのは、二人が雨をけるには少々小さい傘だったということだ。
 傘の端から零れ落ちる雨だれが、彼女の肩を濡らしていたので押し戻した。

——俺は濡れて帰るから大丈夫。

 せっかく想いを寄せる相手から声を掛けてくれたのに、素っ気ない態度を取ってしまうのは何故なんだろう。そうでない女の子が相手ならもっと上手に振る舞えるのに。
 コートを後にして歩き始めても、彼女は傘を差し出したまま着いて来た。

——遠慮しなくていいよぉ。

 おどけた風にそんなことを言う。

——遠慮なんかしていない。その傘に二人だと狭いだろ。

——あ。わたしがでかいと思って。

 今度は口を尖らせた。
 高校では水泳部だったという彼女は、言われてみれば女子にしてはやや肩幅が広くていい体格ではあった。けれど、それも「言われてみれば女子にしてはやや」という程度でしかなかったし、むしろ身長もそこそこあって無駄な肉も無くスタイルが良い。それが周囲の評価だった。
 それでも本人にとってはコンプレックスだったらしいから、女心は繊細かつ複雑かつ難解だ。そんなものに巻き込まれたら対処が出来ない。

——そんなこと言ってないだろ。

——思ってるでしょ。セクハラだから。

——思ってないよ。それにもし思っていたとしても思うだけじゃセクハラにはならないからな。妄想するだけでセクハラなら、世界はセクハラで溢れ返ってるぞ。殺したい、殺してやるっていくら思っても、思うだけじゃ殺人罪にも殺人未遂にもならないんだ。

 さすがにこれは今振り返ってみても、セクハラでもなんでもないはずだ。傘が小さいと言っただけなのだから。
 この時の尋深も分が悪いと察したのだろう。すかさず方向転換してみせた。ただし、あらぬ方向へ。

——女子が誘った相合傘を断るのはセクハラだよ。

——望まない相合傘を強要される方がハラスメントの被害者かもしれないじゃないか。
 
 本当は望んでいたくせに、どうしてそんなことを言ってしまうのか。ここで大人しく相合傘を受け入れていたら、二人は今とは異なる時間軸の上を歩いていただろうか。まあ、傘一つのことでそこまで大袈裟なことにはならないにしても、そうやって考えれば人生とは何とも選択肢の積み重ねであることが分かる。

——あ。酷い。確実に傷ついた。これは絶対にセクハラだ。いや。パワハラかな……傘ハラかも。

 尋深だって本気ではない。もちろん怒っているわけでもない。自分で言って笑っていた。おまけに泣いてもいないくせに、ぐすんとか言って涙を拭うふりをした。

——相合傘の押し売りの方が傘ハラだろ。

 もはや売り言葉に買い言葉である。

——あ。また。酷い。でも大丈夫。かよわい女の子のやることはハラスメントの対象外なのだよ。

——かよわい?

——あーっ、やっぱりセクハラだ。

 こんな他愛もない会話を続けながら、結局二人一緒に正門を出た。自転車はこの日も置きっ放しだ。

——ねえ、どうせ暇なんでしょ。どっか行こうよ。

 大いにどきまぎした。どぎまぎしたが平静を装った。でも、目が泳いでいたかもしれない。

——どっかって何処だよ。

 だが、その問いかけが終わるか終わらないかのうちに、彼女は駆け出していた。この時点で傘のことなどどうでもよくなっているところが彼女らしい。
 見れば、大学前の電停にちょうど路面電車が滑り込んで来るところだった。おまけに電停に渡る横断歩道の信号が点滅を始めた。
 あの街の路面電車は今でも健在だ。いつだったか出張で行った時に乗る機会があって、懐かしさが溢れ出した。

——早くっ、あれに乗ろう。

 駆けながらも振り返ってそう言った彼女を、慌てて追いかけた。
 どこかへ行くと言っても、あいにく天気は雨だ。街の中心街の電停で降りて、アーケードの下をあても無くぶらぶらと歩いた。もう帰ろうと言おうかなと思った頃に急に彼女が観たいと言い始めた映画を観た。海外の恋愛映画だった。ハードなものではなかったが、ベッドシーンなんかもあって、内心、物凄く気まずい思いをしたことが忘れられない。
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