女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第四章 3

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「……何も、見つかっていないわけじゃない」
 唸るように低く、トリバーはそう言った。
「ただ、あまりに荒唐無稽すぎる。アークに報告できるような話じゃない」
 アラギは愉快そうに唇だけで笑った。
 その細い目がちらと一瞥したのは、トリバーが近場の棚に積み重ねている本だ。大半は通常の本だが、中にひっそりと本ではないものがある。――冊子の形状にまとめた書類の束。そのまばらな厚みの背表紙を、視線だけで撫でて。
「君も見たんだろう。発狂した過去の調査員たちの詳しい症状の調査書」
「………」
「まあ細々と調べられているよねえ。しかし、突き詰めればたった一言で説明は事足りる。そうじゃないか?」
 あくまでのんびりと。あくまでこちらの神経を逆なでする調子で、情報屋は。
 いつでもどこでも笑っているような目のまま。
 あくまで――相手を自己の領域に引きずり込む、蜘蛛の視線で。
「――お前は」
 トリバーはアラギの目を、下から睨み付けた。
「何を考えてる……? お前が全部知っているなら、わざわざ俺をここに誘い込む必要はなかった。情報はお前の飯のたねだ。なぜそれを、ただで俺に開示するようなことをした?」
「いやいや、あいにくだけれどわたしは自分のことを知っているんだよ」
 アラギは大げさに両腕を広げ、苦笑気味に笑った。「だってそうだろう。わたしが『すべてを知っているから情報を買ってくれ』なんて言ったところで、君も君の親友も耳を貸してくれるのかい?」
「……本当にそれだけか」
「君たちの懐具合も知ってる。相変わらずアークはよく食べるようだね。生活費は大丈夫かな?」
「例え借金地獄だろうが貴様に心配されるいわれはない」
「まあそうだねえ。君はアークどころか女性ひとり立派に養っているわけだし、こう見えてわたしも普段から大したものだと思っているんだよ。もちろんだとも」
「―――」
「ところで君の本業の景気はどうかな?」
 笑みのままトリバーを見下ろす男の視線は、見えない刃の形をしている。
 トリバーは表情を動かさなかった。視線をそらすこともない。ただ、低く問いを繰り返す。
「……もう一度聞く。お前の目的はなんだ」
「面白いんだよ、君たちは」
 黒い情報屋は、口の端を吊り上げた。「面白すぎてついついちょっかい出さずにはいられない。わたしが口を出せばより面白くなる。それが分かっていると、どうしても」
 自分で言っていて困っているかのように片手を額にあて、天井を仰ぐ。
 ……心底楽しそうな表情で。
 トリバーは今自分が図書館にいる事実を呪った。こんな、世の中でも一、二を争う大切な場所でさえなければ、目の前の男を即座にふっ飛ばしているところなのだが――
 舌打ちをして、アラギから目を逸らした。どうも最近、舌打ちが癖になっている気がする。
「調査員たちの細かい症状……アークが知りたがっているのはこんな情報じゃない。俺が知りたいのもな。そうだな認めてやる、俺はこれを知らなきゃならん。鬱陶しいことだが本業に関わる」
 独り言を装い呟いた。近場にある本を意味もなくパラパラとめくる。
 今、こうして積み上げている本――水鏡の洞窟に関する資料の数々。基本的に同じ本を一度しか読まない彼が、腑に落ちずに何度も読み返してしまうような情報ばかりだ。
 アラギは身振りをおさめた。姿勢を低くし囁く。トリバーに声を寄せるように。
「……教えてあげよう。ここに君の欲する明確な答えはないんだよ、トリバー君。なぜか分かるかい?――原因自身にさえも、自覚のない災いだからだ」
「―――」
「真実を知るためにできることは、せいぜいがひとつしかないな。『災い自身の前に行き、可能ならば災いそのものと語らい、災いそのものを解析する』……」
 そのためか。
 トリバーは胸の内に独りごちた。
 ――精霊保護協会も、それしか方法がないことを知ってる。洞窟に干渉しないという選択肢を選ばなかった彼らは――
(異変を進んで起こしそれを観察するために、もう一度調査に入ることを選んだということだ)
「……教えろ。今回の調査団に、水の“渡し人”は参加しているのか?」
 即答が返った。
「いないねえ。数少ない“渡し人”は丁度忙しくて全員出払っているんだよ。なにせ今はゼーレ開発の正念場だ――開発するとなれば精霊との対話は不可欠だろう?」
 トリバーは立ち上がった。
 一刻を争う。床に放置していた自分の数少ない荷物を乱暴に抱えた。積みっぱなしの本が気になるがそれどころじゃない。できればこのままにしておいて、事態が解決ししだいまた戻って来られたらいいのだが――どうするにせよ図書館側には眉をひそめられるだろう。二度と入館はできないかもしれない。
 それを思って絶望的な気持ちになる。苛立ち紛れで手近な的に毒を吐いた。
「貴様の回りくどい戯言のせいで無駄に時間を費やした。本当にろくなことをしないな、この虫は」
「わたしのおかげで貴重な場所に入れたんだろう? 少しは感謝してほしいものだね」
 徹底的に事態をかき回すことしかしない男を射殺しそうな視線で一瞥してから、足早に図書館の出入り口へと向かう。
 背後から、呑気な声がかかった。
「アークとアリム君によろしく。それから――……にも」
 付け加えられた名前にぴくりと反応しかけたが、すんでのところで無視した。扉を押し開ける自分の顔は、きっと苦虫を噛み潰したような表情になっていただろう。悟ってしまったのだ。おそらくアラギにとってこれは本当に戯れ程度の意味しかなく――この芥虫が本気で事態を壊す気になれば、これくらいのことでは済まないのだろうということを。

     ***

 ひたりと頬に冷たい雫が落ちる。
 思わず身をすくめると同時、アリムの脳裏によみがえったのは森のことだった。
 正しく言うのなら、森に流れていた川のこと。
(あの川……妖精(ハイマ)になってしまったのは、川の主だったって聞いた。ということは精霊がいたってことなんだ……)
 川には毎日訪れていたけれど、当時の自分は精霊が見えなかった。だからまったく気づかなかった。でも……
(……あの川と同じ気配が、する)
 冷たさに反応して伏せた目を、強引に開いた。進行方向に向ける視線が分厚い岩壁にぶつかる。両側からせり出した岩肌で、そこの通り道は人ひとり通れる程度の幅しかない。
 今、そこをアリムが通る番となっていた。
 というより、アリムで最後なのだ。
 教師たちを筆頭に、ルクレもすでに先に行っている。本来はそこでアリムの順番だったのだが、アリムは躊躇した。後ろの役場人たちが苛立っている気配を感じ慌てて先を譲ったあと、今こうして一人だけ残っている。
 ――この道に踏み込むのが恐い。
 行く先から、他の人々の話し声が聞こえている。とりわけたった一人の女性であるルクレの声はよく響く。やや狭いその道を通って、アリムを呼んでいる。大丈夫ですかと相変わらずの優しい声。
(これ以上待たせられない)
 唇を引き結んで、アリムは一歩踏み出した。
 靴底が濡れた岩盤を捉え、手は苔むした岩肌を支えにする。
 一歩進むごとに――
 肌に触れる水の気配が、増していく。
「――……」
 やがて、視界が一気に開けた。
 ちらと赤い光が目を差した。思わず瞬いてから、そのままアリムは立ちすくんだ。広い。天井はむしろ低くなっているような気がするのに、奥行きがあるせいで入口付近よりいっそう浩々としている。
 その、奥一面に。
 教師たちが掲げている松明の赤い色が幾つもの光となって照り返っている。これは、

「鏡――」

「《水鏡》です。どうですか、アリムさん」
 いつの間にかアリムの傍らに立っていたルクレは、誇らしげな声でそう言った。
 アリムは言葉を返せなかった。息を呑み、その景色を見つめる。
 広い広い奥行きの、半分以上が水面だった。何が原因かは分からないけれど、ゆったりとした波が立っている。それが松明の赤を幾重にも広げ、岩肌にぶつかっては静かに溶け消える。外ではついぞ見たことのない光景だった。
 誰も、水面に近づかない。
 それなりの距離を置いた場所に、教師たちが荷物を下ろして何かを話し合っている。役場人はそれともさらに離れた場所で、呆然と湖を見つめているようだ。
 アリムの隣に立つルクレは感嘆のため息をつき、
「本当に美しい湖ですね――」
 その囁くような呟きに誘われて、アリムは彼女の横顔を見た。
 その萌木色の瞳は本来の色を眠らせ、代わりにたくさんの赤い光を映している。波が起きるたびその光はゆらゆら揺れる。
 やがてルクレはその瞳にアリムを映し、彼の手を取った。
「近くまで行きませんか。きっときれいですよ」
「え……」
 アリムはためらった。ルクレに手を引かれ、それに応じたいと思いながらその場から動けない。まるで自分の体にもうひとつの意思があって、体を引き留めているかのように。
 何か――違和感がある。
 湖の様子に? それとも。
 改めて目の前のルクレを凝視しても、彼女はいつものように物柔らかな微笑みを浮かべて小首をかしげている。
「どうかしたんですか?」
「……いえ……」
 何か言わなくては。まとまらない考えを無理やり口にのぼらせる。言葉は思いのほかすらすらと出た。
「部外者の僕がまっさきに近づくのはおかしいです。今回は調査なんですし、そもそも僕は見学者みたいなもので――」
「それでも湖はご覧になってもいいと思いますよ? 何も起きないと思います。もちろん、他の皆様も」
 と、最後の部分はアリムではなく別の場所にいる役場人たちに視線を送って。
 しかし役場の男たちは、ルクレの声には気づかなかったようだ。岩壁に音が反響し、遠くにいても聞こえそうな音量となっているにも関わらず、だ。
 “ここを観光名所にする”と息巻いていた彼らが――
 一様に。無言で奥の湖を見つめている。炎の色が照り返すたび、彼らの表情が浮かび上がった。何かを畏れているような、怯んだ顔。
 胸騒ぎがする。アリムはそのまま、協会の教師たちへと視線を転じた。
 人を教え導く立場の男たちは一様に、重々しい空気をまとって立っていた。そこに見えるのはアリムのような不安げな色ではなく、まして役場の者たちのような怯えでもない。しっかりと地に両足をつけていながら、緊張がみなぎっている。その中の一人が――
 こちらを、見た。
「ルクレシア。早速だが君の出番だ。行きなさい」
 ルクレは振り向き、はい――とはきはきとした声で応じた。
「アリムさん、ひとまず私は先にあちらへ行きますね。湖の主を呼ばなくてはいけませんから」
「は――あの、ルクレさんがですか?」
「はい」
「でも、ルクレさんは」
 言いよどむ。“精霊と話せないのでは”なんて、はっきりと口に出すのは気が引けた。
 しかし表情にありありと出たのだろう、ルクレは苦笑した。
「ええ。でも一方的に呼ぶことはできますよ。精霊には人の声が届きますし」
「………」
「本当は調査の最中に口を出されるのは困りますけど、アリムさんならきっと主さまも嫌がりません。むしろ喜んでくれるんじゃないかしら? だから、その気になったらぜひ一緒に話しかけてみてくださいね」
 にこりと微笑みを残し、ルクレは背を向ける。
 手に幾ばくかの書物を抱えたまま、迷うことなく湖へと歩み寄っていく。黙ってそれを見送ったアリムの脳裏に、
 ふいに閃くものがあった。
 違和感があった。洞窟の様子はもちろん、ルクレの様子にも。そうだ、ルクレはすでに何度もこの洞窟に来ているはずなのに、本人もそう認めているのに、
 ――“きっときれいですよ”。
(まるで自分も初めてきたみたいな、)
 そして何より大きな違和感はルクレ自身とは別のところにあった。
 数人も来ている大の大人たち。――教師たちは湖からほどほどに離れた辺りに散開して、そこから動かない。
 この湖の調査が何より重要なはずなのに。
 ――それ以上湖に近づこうとしないのは、なぜ――

 ルクレは湖の際で足を止めた。
「清き水鏡の主さま。此方はゼーレの民のルクレシアと申します。朝露の囁きも聞こえぬ未熟な身ですが、主さまにご挨拶申し上げます」
 ひざまずく。
 抱えていた書物をそっと脇に置き、前に手を置いた。そのまま前傾姿勢を取って、湖面へと顔を近づけていく。
 冷え冷えとした洞窟の空気の気配が変わる。ざわとアリムの全身が粟立った。来る、自分とは違う何かが――
「だめです、ルクレさん……!」
 アリムが大声を上げた。四方八方の岩壁が反響させるその中央で、
 湖面が大きく飛沫を噴き上げた。
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