女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第一章 4

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 大国ベルティストンを中心とした大陸を、人々は『女神の聖体』と呼ぶ。
 その大陸全体図を見たとき、やや東北に当たる位置にあるのが『女神の左目』――
 最寄りの人里はゼーレである。ゼーレ住民は一昔前から、アリムの住んでいた『常若の森』とこの『女神の左目』を、自分らの財産だとベルティストンに対し主張し続けていた。
 とは言っても、ゼーレが独立をことさら望むようになったのはここ十年ほどのことだ。それ以前はごく一部の主張であり、大半の住民は興味を持っていなかった。
 『常若の森』も『女神の左目』も、一般の彼らにとって“近所のひときわ精霊の多い場所”でしかなく、むやみに保護を叫ぶような場所でもなかったのだ。
「……だから昔はもっとほどよく放置しててくれたんだよなあ……」
 アークは嘆息とともに呟いた。「協会への対立心のせいでやつらもどんどん干渉し始めて、まあ迷惑な話だよな。精霊の居場所は自然のままが一番! なあ?」
 彼の目の前には一本の小川が横たわっている。
 その川面に立つ一人の女が、せせらぎのような笑みをこぼした。
 しきりに降る細かい雨は音もなく川に落ち、たくさんの波紋を描く。
 本来なら、この寒さでは凍りついて当たり前に思える小川だ。だが、目の前の女の存在が、川を活性化させて凍りつくのを防いでいる。
 女、とは言うものの、それは“人間の女によく似ている”というだけのことだ。実際には輪郭が常に微妙に形を変えていて、時と場合によって限りなく男性的に見えることもある。体は半透明で、向こう側が透けて見える者が大半だ。服は、着ている“ように見える”ときも、裸の“ように見える”ときもある。
 常に流動的な形をしている彼らの唯一の共通点と言えば、足――もしくは、服らしきものの裾――が、必ず水面と繋がっていることだろうか。
 アークはそんな水の精霊の一体を前にして、こちらも優しく笑い返した。
 亜麻色の髪と柔らかい茶の瞳には、その表情がよく似合った。川の端まで寄ってきている精霊に手を伸ばし、触れないその揺れる輪郭にそっと指を添える。
「……頼んだぞ。“常若の森”も……お前次第で新しく生まれ変わるかもしれない」
 水の精霊はこくりとうなずいた。
 動くたび、冬の水の冷たい気配が濃密に揺れた。
 水のもたらす寒さは風がもたらす寒さと微妙に違う。その差が、この冬まっただ中の空気の中で、彼女ら水の精霊たちの存在を主張する。
 ゼーレの北東の平原を渡るこの小川は、ここからしばらく流れた先で“常若の森”の川と合流する。
 ひと月前の騒動の際、“常若の森”の川の主は妖精と化したのち消滅した。それによって、森の生命の源であった川は“死んだ”。水は残っているものの、そこはすでに生物の棲めない毒の流れとなっている。もちろんそれが永続するのではなく、雨などを繰り返して徐々に違う水に入れ替わっていくのだが、川が澄みもう一度水の精霊が生まれるころには、森は完全に息絶えているだろう。
 実際に、精霊保護協会は森が復活する見込みはないと判断して、対処を投げ出した。元々彼らは光の精霊を生まない森には興味がないのだからそんな義理はないのだ。
 だが、アークにとっては、そんなに簡単に諦められることではなかった。
 妖精と化した川の主を消し去ったのは彼だ。妖精にはその対処しかないとは言え、彼はそれを心から悔やんでいた。川の主が変貌したのは間違いなく人間が介入したからなのだ。妖精となる条件は『人間の血を浴びる』ことなのだから。
 だから、アークは川をこのまま放置することができなかった。
 せめて清らかな元の流れを取り戻すまで、何かできることはないかと――密かに走り回った。
 実際には、たった一人の個人である彼にできることなどない。結局、森の川に合流する一本の小川の精霊と語り合うことしかできなかった。
 しかし、彼女はアークの話を聞いて承諾してくれた。森の川の様子に注意深く気を配り、彼女の生あるうち――冬の間に、そちらの流れの主として移動することを――
 一度妖精が発生したような場所に、好んで棲みたがる精霊はいない。アークも強制したつもりはない。これは完全に、小川の精霊の厚意と勇気だ。
 春が来れば彼女は寿命を終えてしまう。それでも、一度道筋がつけばその後を継ぐ精霊は必ず現れる。彼女が元棲んでいたこちらの小川にもやがて新たな精霊がやってくるだろう。こちらの小川は問題のない清流だ。棲むことを拒む精霊はいない。
 ありがとう、とアークは改めて水精に礼を言った。
 水精は水面でゆったりと揺れた。どことなく、何かをためらうような動作だった。
「どうかしたか? 何か困ってることがあるなら言えよ。俺にできることなら何でもするからな」
 そう話しかけると、水精はほっとしたように口元を動かす。せせらぎによく似た、精霊の声が耳に届いた。
「――『水鏡の洞窟』? それって『女神の左目』のことだろ?」
 水精はこくりとうなずいた。
「『最近人間がよく出入りしてる』って……あそこも常若の森と並んで立ち入り禁止区域だったろ。また協会が動いたのか?」
 眉をひそめるアークに、よく分からないとばかりに水精は首を振って返す。
 んーと唸り声を上げてアークは腕を組んだ。
「そりゃあほっとけないな……今度は洞窟を潰すつもりか? つっても一応奴らとしては森も洞窟も保っておきたいんだろうけどな。森がああなったのは想定外だったわけで……でも協会がやることってほんとロクなことがないしなあ」
 ぶつぶつ呟き、ふと思い至ったように顔を上げる。
「でも洞窟まで潰したら、ゼーレの独立何たらが今度こそ黙っちゃいないよな。何か、常若の森と水鏡の洞窟はゼーレが独立するための最重要条件だとかトリバーだのフロリデだのが言ってたような気がするし」
 どうでもいい話だったから真面目に聞いていなかった。アークは顔をしかめて、耳の後ろを掻いた。
「何だろうなあ……すごく厄介なことになりそうなヨカン」
 今初めて感じた予感ではない。つい数日前に、風精も不穏の気配をまとって囁いてきたのだ――『水鏡の洞窟』と。
 彼は暗い気持ちで目の前の水精を見る。
「ごめんなあ……また人間たちがうるさいかも。多分精霊も巻き込む。ほんとごめん」
 沈痛な声でそう言ったアークに、精霊はやはり変わらない小川の優しさで微笑んだ。
 水精のその様子に、ふとアークは胸の奥が傷むのを感じた。
「……深刻な事態にならないように、もう動くよ。洞窟の様子を見てくる。ありがとな」
 ごまかすように笑って、アークはもう一度水精に手を伸ばしその輪郭ををなぞってから、雨にも捕らわれない軽やかな動作で身を翻した。

    ***

 『水鏡の洞窟』は、常若の森よりやや北西に位置する。
 精霊保護協会が立ち入り禁止区域に指定しているため、基本的に人は来ない。唯一、協会と常に喧嘩しているゼーレ独立派の人間が時折周辺の様子を見にくるようだが、洞窟の中までは滅多に見ることはない。
 何故なら、この洞窟には昔から『入れば人が狂う』との言い伝えがあるためだ。
 アークは実際に狂った人間がいるかどうかを知らない。だが、精霊たちが普段から『危ないからこの洞窟には近づかない方がいい』と囁くことは知っていた。悪戯好きの風精はともかく、地精や水精は嘘をつかない。だから本当に何かしらの危険があるのだろう。
 ――低い岩山の麓に穿たれた洞窟。
 その入り口に立ち、アークは周辺の地面を観察した。
 足跡は確かにあった。雨が大半を流してしまっているが、それでも全部を消しきれなかったようだ。残っているものを見ただけでも、大きいものや小さいもの――複数の人間が入ったことがはっきりと分かる。
「……中に入ったのか……ってことは、ゼーレの住人ってより協会の人間か……それともよそ者か?」
 入口の岩に手をかける。水に濡れた岩はいつになく冷たい。
 中を覗き込むと、暗い洞窟はしんと静まり返っている。
(今は誰もいないらしい)
 入口から覗き込むだけで分かるのは、この洞窟は奥に行くほど地下に向かうらしいということだ。そのまま先に行くと何があるのかは分からないが――
 一歩踏み込む。
 周囲の冷気が強くなった。体の芯から冷えそうな寒さに、アークは身震いした。
(中だけ異常に寒い。濃い水気……。長い間に渇いている可能性もあるかと思ったけど、『水鏡』はどうやら健在らしいな)
 雨に濡れた体には辛い。ひとまず外に出た途端、アークは盛大にくしゃみをした。
「うあー。ここを何度も出入りしてたら絶対風邪引くだろ、俺は引かないけど。あれっ、馬鹿は風邪引かないってこのこと? いやいやいやこれは頭の問題じゃなくて純粋な体力の問題であって、トリバーなんかここに来たら一瞬で風邪引くだろ。あれ、てことは馬鹿じゃないやつはやっぱり風邪引くってこと? いやいやいや」
 トリバーがここにいたなら、もはや存在しないものとして無視されること請け合いなことを呟きながら顔を上げる。
 と、視界の端に何かが映った。
 動いている。人間の動きだ。アークはごく自然な動作で身構えた。次の瞬間、岩陰から複数の人間が飛びだしてきた。
 雨の中、鈍い銀光がいくつも空中に閃いた。アークは即座に抜きはらった剣でそれを受け止め跳ね返した。
「安モンの剣使ってんなー。それ刃こぼれするだろ? ちなみに俺の剣はこだわりにこだわって相当な金かかってる! 何しろこれ買ったときうちの相棒は魂が抜けたような顔をしてその後一週間口利いてくれなかったからな!」
 呑気なことを言いながら真正面の一人に間合いを詰める。敵は得物を弾かれ、体勢を崩したまま、アークにつられるように一歩退く。その無防備な腹に剣を――ではなく、腰から外した剣の鞘を打ちこむ。正面の敵がくずおれた――同時に両側から来た剣筋。それを右手の剣と左手の鞘で跳ね返した。
 男たちが驚きに目を見張った。到底屈強とは言えない、ゼーレにも山ほどいる普通の男たちだ――
 その隙にもアークは止まらなかった。
「――あんま――ここに、寄るな、よっ……!」
 右の男の腹を思いきり蹴り飛ばす。左から来た男はすっかり立ち往生していた。その手の剣を叩き落とし、膝を踏み抜いた。そして体勢を崩してその場で倒れ込んだ男に、剣の切っ先をつきつけた。
 あっという間の出来事だった。
 呼吸を整える必要さえなかった。襲ってきた男は三人――その内二人は地面で呻いており、一人は剣の先で青くなっている。どの男もまだ二十歳そこそこだろう。アークは全員を一瞥し、血を流している者がいないことに満足した。
「で、お前ら誰だ? ド素人ってことは、協会の人間じゃないな。俺に何の用?」
 剣をつきつけた相手に、軽い口調で問う。
 瞬間、震えていた男の表情が険しくなった。目の下にくまのある、家に閉じこもっていそうな痩身の男である。アークに打ちのめされて青白くなっていた顔に血色が戻り、絶対に言葉を吐くまいとしたのか、唇を強く噛みしめる。
 その様子に、アークは「へえ」と感嘆の声を上げた。
「白状しない覚悟でいるのか。そう考えられるならまだ冷静さはあるんだろうけど……っていうか、だったら最初から問答無用で相手を襲ったりしないほうがいいぞ? お前らの顔は覚えたし、素性を調べようと思えばいくらでも調べられるんだから」
「………」
「だから素直に言ったほうがいいな。何で俺を襲った?」
「間違えたのさ」
 返答は全く別の方向から聞こえた。
 アークはその声がした場所に、軽く視線を投げやった。岩陰にもう一人いることは、最初から分かっていた――まるで敵意を感じなかったから放置していたのだが。
 最後の一人は、緩慢な動作で姿を現した。
 他の三人とはまるで違う、明らかに素人ではない男だ。長身でがっしりとした体つき――冬のさなかだと言うのに薄手の布を巻きつけたようなスタイルからは、鍛え上げられた筋肉がはっきり分かる。歳の頃は三十を少し過ぎた辺りだろうか。決して壮齢ではないのだが、重々しい雰囲気がその男を随分と老成させている。
 腰に帯びた大剣が、体の一部かのように馴染んでいた。
 顔にも全身にも創傷があった。縮れた黒い前髪の隙間から覗く鋭い目。闇の中で輝く月光のような銀。
 雨をまともに浴びているのに、濡れている気がしない。奇妙な存在感のある男だ。
 男は余裕を漂わせたのんびりとした口調で、もう一度言った。
「間違えたんだよそいつらは。お前さんが協会の人間だと思いこんだのさ」
 アークは眉をひそめた。
「俺を? なんで」
「そりゃあこの洞窟に来たからだ。今この洞窟に近づくようなのは協会の人間ぐらいしかいない。ゼーレの連中は何だかんだで近づきたがらないからな」
「……俺はゼーレの人間じゃないんだけどな」
「知ってるさ。“背く者”アーク……噂通りの腕前だな」
 アークの眼差しが初めて険しくなる。彼をその呼び名で呼ぶ人間はろくな相手ではない。即座に戦闘態勢に入ろうとしたアークを、男は「おっと」と両手を前に出して制止する。
「待て待て。俺はお前と今ここで争うつもりはない」
「じゃあどうして姿を現した?」
 低く問う。男はにんまりと深く笑みを刻んだ。
「なに。そこの馬鹿どもの詫びでも入れてやろうと思ってな――そいつらの行動を止めなかったのは俺だ。悪かったな」
「謝るより理由を聞きたいんだけどな」
「簡単だ。お前さんの腕を見てみたかったのさ」
 即答にアークは顔をしかめた。
「……ド素人で力量はかっても意味ないだろ」
「確かにな。ただ、お前さんの噂はあまりにも突拍子のないものが多すぎる。精霊を支配するでもなく従えているだとか、普通の人間の十倍食って全てを力に変えているだとか、通常の人間の目には見えない速さで動くだとか、最近は精霊と人間の相の子を手に入れて、いずれこの地を精霊支配に変えようとしているだとか――」
 語り紡ぎながら、くっくと愉快そうに喉の奥で笑う。
「――そんな噂ばかりなんでな。ひょっとしたら噂だけが独り歩きしていて実際にはただのヘボだという可能性も高いかと思ったのさ。協会に逆らう“背く者”でありながら、未だに太陽の下を歩いているのは、実は取るに足らない人間だからなんじゃないかと見る向きもあるんでな――」
「………」
 アークは警戒を解かなかった。
 ちらと自分が剣をつきつけているゼーレ住民らしい男を見やると、不健康そうな男は呆然と創傷の男を見つめている。「“背く者”……? そんな」零れ落ちる言葉からして、自分らが襲った相手の正体に衝撃を受けているらしい。
 創傷の男はことさら唇の片端を上げた。
「だが、ありがたいことにお前さんはホンモノらしい。――いくらド素人とは言え得物を持っている連中相手に、血を流さない戦いを即座に実行できるのは大したものさ。だから俺は敬意を表して正直に言おう。そいつらと俺はゼーレの“町長派”の者だ」
「………! お、お前……っ!」
 剣の先で震ていた男が激昂し、立ち上がろうとする。だが膝に力が入らずそのままへなへなと地面に折れた。
 その様子をにまにまと眺めながら、創傷の男は言った。
「何とかこの洞窟を協会の手から取り返そうと考える連中さ。ま、“町長派”は協会と喧嘩したくないっつー穏健派ってことになってるが、下っ端にはこういうやつもいるってこった。どうだい、納得したかね?」
「いいや」
 アークは半眼で男を見つめる。
 雨の音が聞こえなかった。まるで霧雨のような雨は、アークと男との間をカーテンを引いたように分かち、近づけないような錯覚を起こす。
「まだ分からないことがある。お前は誰だ?」
 慎重に紡いだ問いに――
 男は、何でもないことのように答えた。隠す必要もない、世間話の口調で。
「俺はイグズ。“町長派”に雇われた用心棒さ。もっとももう離れるつもりだがね」
「どうして?」
「“町長派”にいてはお前さんと戦えないだろう? 俺の目的はお前さんのような」
 男の太い腕が動いた。
「!」
 眼前に鋭く小さな光が幾つも閃いた。アークは咄嗟に剣を振るい、それらを空中で叩き落した。
 小型の投げナイフのようなものが、ばらばらと地面に落ちた。
「――お前さんのような、精霊術を使わずとも強い奴と戦うことなんでな」
 落ちたナイフの形状にアークは眉を寄せる。――見たことのない形をしている。少なくともゼーレや、西のベルティストンで見られるものではない。
 イグズと名乗った男は、再び喉の奥で笑った。
「それじゃあ、な。俺が正式に戦いを挑むまで、せいぜい生き延びてくれや。またな」
 人懐っこい声を残し、イグズは踵を返した。
「―――」
 はたはたと落ちる雨の音が耳に戻ってくる。
 雨で滲む視界の中、アークはただ無言で、その背中が消えるのを見送った。
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