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序章
― 朝陽に溶けて ―
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東の空が、うっすらと白み始める。
つい先刻まで輝いていた満点の星はつつましく姿を消し、もうその光を見ることは叶わない。
湖に、低木の葉先から朝露がひとしずく、滑り落ちた。かすかなその音は美しく、そして哀しくエルミラの耳に届く。
世界に夜明けがやってくる。
いつもなら湖の傍らに建つ小屋で震えながら待つ時間だった。最近ではもはや諦めて、小屋の粗末なベッドに横になり、目を閉じて眠りを待つことも多かった。
けれど、今日は違う。
エルミラの目の前に、青年がいる。エルミラよりずっと背の高い男性。年齢はエルミラより二つほど上のはずだ――
昨夜城で行われていたパーティのための正装をしている。この国ジルヴェール国の正装ではない、当たり前だけれど彼の国、アルヴィアスの正装だった。
軍服が元になっているという、群青色でかっちりとしたデザイン。そこに王族の一員らしく金や銀の細かな縁取りがされている。肩にはいくつかの徽章も飾られていた。エルミラにそれらの意味はわからないが、そのひとつひとつに彼の経験してきた大切な過去がこめられているに違いない。
過去。――そう、過去。
エルミラの知らない、彼の過去が。
エルミラの唇から静かな吐息がこぼれた。幼なじみだったのに、もうこんなにも離れてしまった。
たった五年、されど五年。
子どものころあれほどともに遊び明かした少年はもうおらず、今エルミラの深緑色の瞳に映るのは、精悍な顔立ちをしたひとりの立派な男性だ。
彼は昔から体を鍛えるのを好んでいた。それはこの五年の間も変わらなかったのだろう、すっかり肩幅も広くなり、王族の窮屈な衣装に身を包み込んでさえもそのたくましさを隠し切れていない。艶のある黒髪も、昔より短く切るようになったようだ。
そんな中、変わらないのは、まっすぐとエルミラを見つめてくる眼差し。
森の湖の色をした、深く蒼い瞳――。
今もそれは、ためらうことなくエルミラを見ている。朝の気配にいちはやく気づいて「外に出ましょう」と言ったエルミラに戸惑いながらも、何か理由があるのだろうと空気で察したようだ。
小屋の外には、エルミラがこよなく愛する湖がある。
だが、「それを見に行きたい」という意味でエルミラが誘っているのではないことに、彼はおそらく気づいている。
だからこそ、彼は何も言わない。
だからこそ今、こんなに真剣な目をエルミラからそらさない。
眼差しが熱かった。受けとめきれず、エルミラは目をそらした。
彼のそばには、彼の親友とも右腕とも呼ぶべきもうひとりの青年が立っている。親友と言っても、立場上は従僕だから、〝主人〟の斜め後ろの立ち位置を保っている。
そんなふたりの微妙な距離感を、エルミラは不思議な気持ちで見る。
こちらの青年もエルミラの幼なじみだ。ふたりが一緒にいるところは昔から散々見てきた。だがふたりの間にある絆の形が、エルミラの知っているものと少し変わったように感じる。
それは、ふたりが変わったということなのだろうか。
それとも――変わったのはエルミラのほうなのだろうか。
朝日がしらしらと清い光を地上に投げかける。
森の樹冠がやんわりとその光を遮り、いくつもの光の筋を落とし始める。
ただ、この湖周辺では木漏れ日は生まれなかった。湖の上はぽっかりと空間が開き、空が見えている。ジルヴェール国が誇る美しい朝の光が、何に邪魔されることなく湖の上へ降り注ぐ。湖面で反射した光がきらきらと幻想的な輝きを放つ。
それはきっと、誰もが目を奪われずにはいられない光景。
それなのに、目の前にいる彼――フィルグラートは、ただの一瞬も湖を見てはいなかった。
彼が見ていたのはひたすらに、エルミラだけ――。
エルミラはようやく顔をフィルグラートへと戻し、弱々しく微笑んだ。
「見ていて……これが、この五年間の私……よ」
軽く両手を広げる。
フィルグラートの蒼い瞳が大きく見開かれた。驚愕の色がそこに貼りついて固まった。
こめかみに汗が浮き、たらりと落ちていく。唇が何かを言いたそうに動くのに、そこから言葉が生まれることはない。
そんな彼の視線を全身に受けながら。
エルミラはいつもの感覚に身を預けた。長く続く不摂生のために細く青白くなった彼女の体が、その輪郭が、降り注ぐ光の中、細かく弾ける泡となる。指の先、足の先、癖のある赤みがかった金の髪の先から始まり、輪郭という輪郭が連鎖するように弾けて消えていく。
彼女の〝形〟が、空気に溶けて見えなくなってゆく。
「エルミラ!」
フィルグラートが大声をあげて手を伸ばした。
はっきりとエルミラの胸元まで到達していながら、しかし彼女を掴むことのできないその手を間近で見て、エルミラは思う。――ああ、この手も大きくなったのね、フィン……。
彼女の脳裏に五年前の記憶が蘇った。どこかやんちゃでもあった凜々しい少年が、いつになく優しい手つきでエルミラの手を取ったときのことを。
胸に突き刺すような痛みが走った。
あまりにも虚しい問いが、エルミラの意識をかすめていく。
もしもあのとき、彼の手を握り返すことができていたなら……こんなことにはならなかったのだろうか、と――。
つい先刻まで輝いていた満点の星はつつましく姿を消し、もうその光を見ることは叶わない。
湖に、低木の葉先から朝露がひとしずく、滑り落ちた。かすかなその音は美しく、そして哀しくエルミラの耳に届く。
世界に夜明けがやってくる。
いつもなら湖の傍らに建つ小屋で震えながら待つ時間だった。最近ではもはや諦めて、小屋の粗末なベッドに横になり、目を閉じて眠りを待つことも多かった。
けれど、今日は違う。
エルミラの目の前に、青年がいる。エルミラよりずっと背の高い男性。年齢はエルミラより二つほど上のはずだ――
昨夜城で行われていたパーティのための正装をしている。この国ジルヴェール国の正装ではない、当たり前だけれど彼の国、アルヴィアスの正装だった。
軍服が元になっているという、群青色でかっちりとしたデザイン。そこに王族の一員らしく金や銀の細かな縁取りがされている。肩にはいくつかの徽章も飾られていた。エルミラにそれらの意味はわからないが、そのひとつひとつに彼の経験してきた大切な過去がこめられているに違いない。
過去。――そう、過去。
エルミラの知らない、彼の過去が。
エルミラの唇から静かな吐息がこぼれた。幼なじみだったのに、もうこんなにも離れてしまった。
たった五年、されど五年。
子どものころあれほどともに遊び明かした少年はもうおらず、今エルミラの深緑色の瞳に映るのは、精悍な顔立ちをしたひとりの立派な男性だ。
彼は昔から体を鍛えるのを好んでいた。それはこの五年の間も変わらなかったのだろう、すっかり肩幅も広くなり、王族の窮屈な衣装に身を包み込んでさえもそのたくましさを隠し切れていない。艶のある黒髪も、昔より短く切るようになったようだ。
そんな中、変わらないのは、まっすぐとエルミラを見つめてくる眼差し。
森の湖の色をした、深く蒼い瞳――。
今もそれは、ためらうことなくエルミラを見ている。朝の気配にいちはやく気づいて「外に出ましょう」と言ったエルミラに戸惑いながらも、何か理由があるのだろうと空気で察したようだ。
小屋の外には、エルミラがこよなく愛する湖がある。
だが、「それを見に行きたい」という意味でエルミラが誘っているのではないことに、彼はおそらく気づいている。
だからこそ、彼は何も言わない。
だからこそ今、こんなに真剣な目をエルミラからそらさない。
眼差しが熱かった。受けとめきれず、エルミラは目をそらした。
彼のそばには、彼の親友とも右腕とも呼ぶべきもうひとりの青年が立っている。親友と言っても、立場上は従僕だから、〝主人〟の斜め後ろの立ち位置を保っている。
そんなふたりの微妙な距離感を、エルミラは不思議な気持ちで見る。
こちらの青年もエルミラの幼なじみだ。ふたりが一緒にいるところは昔から散々見てきた。だがふたりの間にある絆の形が、エルミラの知っているものと少し変わったように感じる。
それは、ふたりが変わったということなのだろうか。
それとも――変わったのはエルミラのほうなのだろうか。
朝日がしらしらと清い光を地上に投げかける。
森の樹冠がやんわりとその光を遮り、いくつもの光の筋を落とし始める。
ただ、この湖周辺では木漏れ日は生まれなかった。湖の上はぽっかりと空間が開き、空が見えている。ジルヴェール国が誇る美しい朝の光が、何に邪魔されることなく湖の上へ降り注ぐ。湖面で反射した光がきらきらと幻想的な輝きを放つ。
それはきっと、誰もが目を奪われずにはいられない光景。
それなのに、目の前にいる彼――フィルグラートは、ただの一瞬も湖を見てはいなかった。
彼が見ていたのはひたすらに、エルミラだけ――。
エルミラはようやく顔をフィルグラートへと戻し、弱々しく微笑んだ。
「見ていて……これが、この五年間の私……よ」
軽く両手を広げる。
フィルグラートの蒼い瞳が大きく見開かれた。驚愕の色がそこに貼りついて固まった。
こめかみに汗が浮き、たらりと落ちていく。唇が何かを言いたそうに動くのに、そこから言葉が生まれることはない。
そんな彼の視線を全身に受けながら。
エルミラはいつもの感覚に身を預けた。長く続く不摂生のために細く青白くなった彼女の体が、その輪郭が、降り注ぐ光の中、細かく弾ける泡となる。指の先、足の先、癖のある赤みがかった金の髪の先から始まり、輪郭という輪郭が連鎖するように弾けて消えていく。
彼女の〝形〟が、空気に溶けて見えなくなってゆく。
「エルミラ!」
フィルグラートが大声をあげて手を伸ばした。
はっきりとエルミラの胸元まで到達していながら、しかし彼女を掴むことのできないその手を間近で見て、エルミラは思う。――ああ、この手も大きくなったのね、フィン……。
彼女の脳裏に五年前の記憶が蘇った。どこかやんちゃでもあった凜々しい少年が、いつになく優しい手つきでエルミラの手を取ったときのことを。
胸に突き刺すような痛みが走った。
あまりにも虚しい問いが、エルミラの意識をかすめていく。
もしもあのとき、彼の手を握り返すことができていたなら……こんなことにはならなかったのだろうか、と――。
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