月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

きんいろのねこ―4 [コメディ]

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 これほどに無口な彼女は今までどれくらい見たことがあっただろうか。
 セレンはあれからずっと、小猫の背を撫で続けたまま無言だった。カミルも……あえて話しかけようとは思わなかった。
 膝の上の小猫。
 それを見下ろすセレンの青い瞳……  
 カミルは窓の外を見た。――もう夕暮れ。 そろそろ、彼らの主が宿に戻ってきてもいい時間だ。
「……食事の用意をしてきますから」  
 それだけ言い置いて、カミルは部屋を出ようとした。 とても重苦しい気分だった彼の背中に、
「私ね」  
 ふと、彼女の声が届いた。  
 独り言のような、囁きのような……そんな声。 
「……今まで一度も、動物飼ったことないの」 
「………」  
 振り向かないまま、彼は聞いていた。
 背後で軽く苦笑したような気配があった。 
「当たり前よね。物心ついたときからずっと旅……してたから。父さんも、旅に動物連れてくの許さなかったんだ……」
 その場は静かだった。  
 部屋の戸口にいるカミルにも、セレンの膝で眠る小猫の、寝息が聞こえるような気がするほどに。 
「私は、旅をしてて良かったと思ってる。旅をしてない自分って想像できないし、本当に楽しいし、幸せだと思う」
 でも、と空気を震わす……悲しげな響き。 
「――ときどき……旅、してなかったらなって……思ったり……して」
 言葉が途切れた。
 すう、と彼女が息をすいこんだ気がした。 
「―――」
 カミルは振り向いた。
 膝に小猫を乗せる女の頬に、涙はない。
 泣くのとは……違う。
 ただその青い瞳に宿る光が、膝の上の小さな命を見下ろす瞳のその優しい光が、すべて――
 無防備に膝の上で眠る猫  
 ――ほんの短い時間にこれほどいとおしく思える存在が、いったいこの世にどれだけあるというのだろう。
 その事実はかけがえなくて――
 そして、とても残酷。 
「………」  
 カミルは目を閉じた。それからゆっくりと開いた。改めて明るくなった視界の中、小猫をいとおしむ娘に向かって、囁くように言った。 
「……シグリィ様に……頼んで、みましょうか」
 セレンがはっと青年を見た。驚いたように凝視し――それから、その顔がほころんだ。
 綺麗な女だ――  
 「カミル」とただ名前だけを呼んだ彼女にわずかな笑みを返しながら思う。こんな風に笑う彼女を前に、逆らえる人間がどれだけいると言うのか。少なくとも自分は――。 
「シグリィ様のことですから。私たちがちゃんと頼めば、許してくれるでしょうからね――」
 向き合っているだけで、彼女の高揚が手に取るように感じられた。
 ごまかすように彼女に背を向け、カミルはドアを開けた。背後ではじけるような気配がして、小猫がしゃーっと威嚇の音を立てた。
「あっごめん、でも、ああ早く帰ってきてシグリィ様……!」
 はしゃいで膝の上の小猫を落としたらしいセレンの、弾んだ声が聞こえた。 その気配に微笑して――カミルは部屋を出た。
 ちょうどその時。 
「ただいま」
 階段から上がってきた当の少年が、カミルの顔を見て軽く手をあげた。
 カミルは自分から主の元まで歩いて行き、ふとその横にいる人物に目をとめた。
「お帰りなさい。――そちらは?」 
「うん。ちょっとな」 
「ユ、ユアです。こんにちは……」
 その少女はぺこりとお辞儀をした。
 ――ひとりで町中や村中へ出た主が、誰かと知り合いになって帰ってくることは、特に珍しいことではない。こうやって連れ立って戻ってくることも。
 だからカミルは特に思うところもなく、微笑んで「初めまして」と返した。
 緊張しているのか、顔を赤くしたままの少女の代わりに、シグリィが「セレンは戻っているのか?」と訊いてくる。 
「ええ、部屋に。シグリィ様――」 
「猫は?」  
 ――一瞬の絶句。 
「………は?」 
「猫、連れてなかったか。セレン」 
「―――」 
「あ、あの、背中がくちなし色――ええと黄色っぽくて、お腹が白くて、まだ一歳で小さい子なんですけど」
 少年の隣で、ユアという少女がすがるような目をこちらに向けてきた。その瞳を見返したまま、カミルはしばらく口を開かなかった。
 いやな予感が、していた。
 否、それはすでに“予感”ではなかった。ただ――認めるのに、抵抗があったのだ。
 無言のままの青年の様子に、彼の主たる少年は目を細めた。これだけのことで、どうやら少年にはすべてが分かってしまったようだった。
 ただ、何も言わず。
「……ユア、あっちだ」
 無言の青年の横を、彼らは通り過ぎようとする。 
「――シグリィ様っ……!」  
 すれ違う瞬間に、カミルは声を上げた。しぼりだすように……。
  少年の足が止まった。 
「……仕方ないだろう?」
 クチナシ! と、喜びの声がはじけるのが聞こえた。
 小猫が一声鳴いた。
 あっ――と部屋の中の女があげた声。重なる小猫の軽い足音。 
「良かった、無事だった……!」  
 クチナシ――涙声で、小猫の本来の飼い主が何度も何度も小猫の名を呼んだ。
 カミルは、ゆっくりと振り向いた。
 そこに、床にへたりこんで小猫を抱きしめる少女がいた。  
 腕の中でごろごろとのどを鳴らすのは、ついさっきまでセレンの膝にいた小猫……
 ――部屋の中は、彼からは見えなかった。 
 代わりに脳裏に甦ったのは、優しく小猫を見つめていたあの青い双眸――  
 主たる少年が少女の傍らで、良かったなと彼女の肩を叩く。
 ありがとうございますと、少女が部屋の中に声をかける。
 そのひとつひとつの場面―― 
「―――っ」
 カミルは両の拳を握った。かの少女が部屋の中へ向けるひたむきなまなざしを、なんとかそらしたいと思った。その腕の中にいる小猫を引き離したいと思った。
 けれど。  
 その衝動が、行動になる前に、
「――なんだ、あんた飼い猫だったのね」
 ……聞こえた声は、近かった。
 セレンは戸口まで出てきて、少女と小猫の前にかがんだ。 
「うわあ、幸せそーな顔! 小憎たらしいわねえこの甘えん坊っ」
 けらけらと笑って、その指先で飼い主の腕の中の猫をつつく。
 笑顔。  
 やがて少女のほうが、セレンの白い肌に走る引っかき傷に気づいたようだった。
「あの……っごめんなさい! この子迷惑かけたんですよね。ごめんなさい!」
 うーん? とセレンは首をかしげてみせた。 
「そうね。なんかもう、当分猫はこりごりかもしれない。やっぱり遠くから眺めているのが一番いいわ」
 ユアがみるみる顔を赤くして――それまでも赤かったが――ごめんなさいごめんなさいと何度も頭を下げた。セレンは笑いながら、「いい飼い主さんね」と小猫に話しかけた。
 ――遠くから眺めているのがいい…… 
 頭の中を、彼女の言葉がめぐる。
 衝動は消えなかった。だが、行動に移すわけにはいかなかった。 
 ――彼女の笑顔が、そこにあるから。  
 その笑顔の意味を、壊すわけにはいかなかったから。  
 けれど、このままでは自分はどうすればいいのか。どうすればこのいたたまれなさを払拭できるのか―― 
「ねえカミルー」  
 ――黙ったままの彼に、当のパートナーから声がかかった。 
「お腹すいたわよう。早く作ってよ夕食!」 
「………」 
「あ、良かったらあなたもどーお? カミルの料理はおいしいのよ。食べなきゃ損よ!」
 えっ? ととまどう少女をよそに、「というわけで四人分と猫ちゃん分ねー」とセレンはひらひら手を振ってきた。 
「あー……ええと」
 主たる少年が、困ったようにこちらをうかがう。傍らまで歩いてくると、声をひそめて、
「……私の分は、無理して作らなくてもいいぞ?」
 お前、怒ってるんだろう――とまで口には出さなかったが、少年の瞳がありありと語っていた。
 カミルは苦笑した。
 まったく、変なところで変な風に気を遣う主人だ― 
「……冗談じゃありませんよ。私にそんな大人気ないことをしろとおっしゃるんですか?」
「いや、別に――」 
「腕によりをかけて全員分用意しますから。待っていてください――ああその小猫、目が覚めてしまったようですしね。大変なことになるんじゃないですか?」
 彼が言うが早いか、 
「あっクチナシ!」
 飼い主の腕から、するりと小猫が抜け出した。
「それじゃあ、私は下の階で準備をしてきますので」
 言いかけて手を打ち、「ああ。人数が増えると材料が足りませんね――買い物に行ってきます」
「ずっるーい、カミル!」
 聞こえてくるセレンの批判。そして始まるどたばた騒ぎ。
 すべてを背後に聞きながら、カミルはひとり階段を降りていった。  

 ユアとクチナシが帰るころ、村はとっぷりと日が暮れていた。 
 彼女はシグリィが家まで送っていくことになった。宿の前まで見送りに来たカミルとセレンに向かって何度も頭を下げた後、クチナシを腕に抱きしめたまま、ユアは帰っていった。
 見送るセレンの横顔を、夕焼けが赤く染める。
「――行っちゃった……」  
 少年少女の後姿が消えて。 
 空を仰いだセレンの目が、赤くなっていた。
「ざーんねーん、だなー!」  
 空に向かって、彼女は大きく声を放った。すべてを吐き出すかのように。
「セレン……」
「でも、嬉しかったのよ」
 と彼女は顔をカミルに向けた。「まさかカミルが、協力してくれようとするとは思ってなかったから。すごく嬉しかった」
 娘は、華やかに笑った。 
「――それだけで充分よ」  
 村のどこからか、猫の鳴き声が聞こえた。
 のどかで、平和な。
「………」  
 カミルは腰にさげていた小袋をさぐり、中からひとつ取り出した。
 そっと、彼女の前に出す。
「――これを」  
 小さな、黄色い粘土細工。
 猫の形をした。 
「これ……?」  
 受け取り手のひらに乗せて、困惑したようにセレンはそれを見つめる。
「これって」 
「“きんいろのねこ”です。この村伝統のお守り――」
 黄色い猫。  
 くちなし色に近い色。  
 ひとつひとつ表情の違う猫の一匹は、今セレンに向かって、どこかゆがんだようなユーモラスな笑顔を見せていた。
「……本物の猫を、連れて行くのは無理ですから……」  
 言いながら――どんな顔をしていいか分からず、カミルはただわずかに笑みを作ってみせた。
「それで……気休めにでもなれば」 
「―――」  
 あなたが買ってきてくれたの、と信じられないと言いたげな青い双眸が、青年を見つめる。
 まっすぐなその視線にいたたまれなくなり、 
「――それ以上のことは、もうしませんよ……!」
 カミルは横を向いた。
 そんなに恥ずかしいことをしたとも思わないのに、なぜか、彼女の顔を見られないと思った。
 そらした視線の先、ちらりと見えたのは物陰に入っていく猫の姿。  
 ――セレンが沈黙していた。  
 笑うか怒るか呆れるか、とにかく何かしらリアクションがあるはずだと信じていたのだが――カミルは訝しく思い、
 やがて、意を決して視線を戻した。  
 セレンは、  
 お守りを両手で握りしめ……
 それを頬にあてて、目を閉じていた。
 ありがとう、と空気にまぎれるような言葉があった。 
「最高の……猫ちゃんよね」
 この子なら旅に連れて行けると。
 呟いて、目を閉じたまま彼女は微笑んだ。
 花がほころぶように。  
 夕焼けに赤く染まるその顔は――まさに、この世で一番美しかった。
 そのことを認めて――カミルはそっと目を閉じた。
 まぶたの裏に焼きつく彼女の微笑みが、永遠に残ることを願いながら――……
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