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十六『昔話』

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 清高きよたかが川から引き上げた女の子は、川原に駆けつけた男たちの集落の子供だったそうだ。
 幸い女の子は無事で、大した怪我もなく、男たちは「よくぞ助けてくれた」と深く感謝して、親切にも清高を彼らの集落へ連れ帰ってくれた。

 清高自身も怪我はしていなかったが、雨に打たれ、川に揉まれ、すっかり疲れきっていた。
 男たちの集落へ向かう途中で倒れ、熱を出し、それから丸一日、床から起き上がることができなかったほどだ。



 朦朧とした意識の中で、誰かが顔の汗を拭いてくれるのを感じる。
(龍神?)
 ――違う。
 彼のそれより温かい手が頬を撫でていく感触に、違和感を覚え、自分の指でなぞってみて、喉が引き攣った。
「傷、が……」
「どこか痛みますか?」
 こちらを気遣う声に、枕の上から上げられない首を振る。

(傷痕が、なくなってる)

 龍神の血を浴びた痕。
 火傷のように爛れていた肌が、すっかり元のとおり綺麗になっていた。
 当然、鱗などはない。あたりまえの人間の皮膚。

 川に流され揉まれたことで、毒も呪いも、洗われ、清められたということだろうか?

 鼻の奥が痛いほど熱くなる。
 龍神があれほど懸命に手当てしてくれた痕が、こんなことで、あっさり消えてしまうとは。
 水底で暮らした日々。龍神と過ごした時間。
 そんなものまで一緒になくなってしまったかのようで。

 清高は固く目を閉じたまま、ひたすら熱の波が引いていくのを待ち続けた。



 雨が上がった翌々日。
 きぃ、と扉が軋む音で目を覚ます。
 横になったまま目を開けると、細く開いた扉の隙間から、幼い瞳がこちらをじっと見つめていた。

「……」
「…………」
「…………りゅうじんさま?」
「え?」

 飛び起きて、振り返る。
 そこに彼がいるのかと思って。期待して。
 しかし、狭く質素な家、布団を一枚敷くのがやっとの部屋には、清高以外の姿はなかった。

「誰もいないよ?」
 女の子が、こてん、と首を傾げる。

「お兄さんがりゅうじんさまじゃないの?」
「えぇ?」

「これ、おみな。お客様をお騒がせしたらいけないよ」
 後からやってきた老婆が、優しく女の子の肩を掴む。
「あの、俺」
「ああ、どうぞ、そのままで」

 布団から出ようとした清高は押し留められ、そこでようやく、自分に寝床を提供してくれたのが、女の子――川で溺れていたあの子の家であることを知った。

「どうもお世話になりまして……ありがとうございました」
「とんでもない。こちらこそ、おみなを助けていただいて、ありがとうございました」
 互いに深々と頭を下げ合う清高と老婆の間で、「おみな」という名前らしい女の子が「ねぇ」と布団を引っ張る。
「お兄さんがりゅうじんさまなんでしょう?」
 どういうわけかしつこく食い下がってくるおみなに、
「違うよ」
 と答えると、唇がへの字に曲げられた。
「うそ」
「どうしてそう思うの?」

「だって、あたし、見たもの。おっきなりゅうがあたしを食べようとしたとき、お兄さんが助けてくれたでしょう?」

 すっかり意識をなくしているとばかり思っていたが、おみなも川の中で出会ったあの龍のことを断片的に覚えているらしい。

 龍は二人を食べようとしていたわけではなく、それどころか、おみなを助けたのは結局のところその龍だ。

 と、いうことを、この幼い女の子に理解してもらえるよう説明するのは難しい気がして、諦める。

 それより、おみなの言い分に違和感があった。
「龍から助けて、それでなんで俺が龍神様になるんだ?」

 瑞千川みずちがわには龍が棲む。
 人々はそれを川の、水の神として祀ってきた。それ故の『龍神』という呼び名。

 だが、おみなの言い方では『龍』と『龍神』が別個のものであるかのように聞こえた。

「わるい『りゅう』を退治して神さまになったのが、『りゅうじんさま』でしょう?」
 おみなは、まるで清高の方が聞き分けのない子供であるかのように、じれったそうに訴える。
「この辺りで言い伝えられているお話なんですよ」
 わけがわからないでいる清高に、横から老婆が助け舟を出す。

「昔、瑞千川には悪さをする龍が棲んでいて、嵐のたびに川を溢れさせては、民を苦しめておりました。
 耐えかねた人々は、どうにかして龍を退治できないかと考え――その話を聞いたとある一人の勇敢な青年が、名乗りを上げました。
 そうして彼は見事に龍を倒し、英雄となったのです。
 そういうお話です」

 清高はぽかんと口を開けてしまった。
「……初めて聞いた」
「おや、そうですか。今ではもう古い人間の間でしか、語り継がれなくなったのかもしれませんねぇ。
 あたしらが子供の頃は、真庭国まにわのくにでは有名な昔話だったんですけれど」
「真庭国!?」
 驚きに驚きが重なって、思わず声が大きくなる。
 老婆が首を傾げた。
「ええ……ひょっとして、お兄さん、真庭の人ではないんです? まさか、月夜野つきよのの……?」

 冷たいものが背中を撫でる。
 瑞千川は国境を流れる川だ。上がる岸が違えば国も変わる。
 清高が流れ着いたのは、真庭国側の岸だったのだ。
 やむを得ない状況だったとはいえ、まさか、今や敵国となった地に運び込まれるとは。迂闊だった。

「……そうですか。それは大変でしたねぇ。
 よその国の方なのに、助けて頂いて……月夜野の方は親切なんですねぇ」
 心からの労りと感謝の念が滲む老婆の言葉に、やや拍子抜けして、それから納得する。

 月夜野と真庭の関係の破綻は、極秘密裏かつ、月夜野が一方的に企てていることだ。
 明高あきたかは慎重に事を進めており、まだ両国の同盟が破棄される段階には至っていないのだろう。
 仮に、すでに二国間で火花が散り始めていたとして、そんなもの、国の政に直接関わらない末端まったんの民には影響しない。
 本格的に戦でも始まらない限り、民と民とが国の違いだけで憎しみ合う理由はないのだ。

 その程度。たったその程度のことなのだ。
 その程度のことのために、明高は義弟である清高を切り捨てた。

(そんなこと、どうでもいい)
 心底思う。
 そんなことなどどうでもいいと思えるくらい、老婆の話は清高にとって目から鱗だった。

「その話って、本当にあった出来事ですか?」
「さぁねぇ。そう言われているけれど、もう百年か二百年か前のことだから……
 真実かどうかはわかりませんねぇ」

 それはそうだ。
 清高だって、月夜野に伝わる昔話のどこまでが史実で事実かなど、確かめようとしたこともない。

 もし、もしも。今、老婆から聞いた真庭の伝承が真実なら。
 清高が出会ったあの龍神は、本当は龍ではなくて。

(あれ? じゃぁ、川の中で俺たちを助けてくれたのは……?)

「お兄さんはりゅうじんさまじゃないの?」
 なおも諦めないおみなが、清高の腕にしがみついた。
 その邪気のない、あどけない顔を見ていたら、申し訳なさが募ってきて、清高は小さな頭を撫でる。
「ごめんな。俺は龍神様じゃないんだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
 思い浮かべた相手をどう形容しようか考えて、ふっと、唇が緩んだ。

「龍神様は、俺なんかよりずっと優しい人なんだ」
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