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六『水底の暮らし』②
しおりを挟む汗と土埃に塗れた格好で戻って来た清高を見て、菊里が金切り声を上げた。
「朝っぱらから何をしているんでるす! 早く着替えてくださいませ!」
「はいはい。わかってるよ」
きーきー言いながら水を張った桶と着物を運んで来るのは、清高の膝辺りまでしか背丈のない少女。
菊里、という名の彼女は、人形である。
月夜野の国で龍神に生贄を捧げるのは十年に一度と決まっているが、龍神を鎮めるための儀式と称した祭りは毎年行われていた。
その一環で、生きた人間の代わりに、人形を瑞千川に流すしきたりがある。
菊里はそうして流された人形に魂が宿った、いわゆる物の怪の類らしい。
清高と同じように、偶然、結界を通り抜けてこの水底まで辿り着き、龍神に拾われた。以来、この館で雑事をこなしているという話だ。
ここには他に奉公人のようなものはなく、広い館には龍神と菊里――と、今は清高――だけが棲んでいる。
神様の住まいといえば、さぞかし煌びやかな、鯛や平目が舞い踊る竜宮城のような場所なのだろう――と、空想を巡らせていた清高にとっては、少々意外だった。
ここでの暮らしは、衣食住のどれをとっても、清高が元居た領主の館より慎ましい。
「また龍神様に悪戯をなさっていたのでしょう? まったく、罰当たりですこと。
少しは花嫁様としての自覚をお持ちなさい」
「だから、俺は花嫁じゃないんだって!」
清高が声を荒げても、菊里はまるで耳を貸そうとしない。
もう何度が繰り返しているこのやり取りに、すっかり辟易してしまっていた。
どうやら菊里は清高のことを「生きたまま龍神の元に辿り着いた、真の花嫁」と信じ込み、『龍神の花嫁』の先輩として、教育――もとい、花嫁修業を付けたいようなのだ。
何度「俺は男だ」「花嫁じゃない」「そんなつもりはない」と訴えても、しつこく付き纏ってきては、身なりや仕草について、いちいち「はしたない」「龍神様の嫁様としてふさわしくない」と口うるさく注意してくる。
今朝も今朝とて、一部の乱れもないように着物を着せられ、帯を締められ、きっちりと髪を結い上げられる。
領主の弟として過ごしていた時でさえ、ここまで見目に気を配ったことはなかっただろう。
悶着が終わった頃合いを見計らったのか、
「終わったか?」
と、菊里と入れ替わりに、龍神が部屋にやって来た。
「薬を塗り直そう」
こちらはこちらで、庭いじりをしていた時とはまた違った、折り目正しい格好に着替えている。
縹色の上着が涼やかで、彼の纏う落ち着いた空気によく馴染んでいた。
(やっぱり、神様なんだよなぁ)
こうして落ち着いて眺めると、何度でも新鮮に驚いてしまえるほど端正な顔をしている。
その出で立ちからは、有無を言わせぬ神々しさのようなものが滲み出ていた。
普通の人間であれば、側に立たれるだけで委縮してしまうだろう。
だが、目下のところ「どうすればこの男を倒すことができるか」しか頭にない清高は、怖気づくこともなく、手招きされるがまま龍神の前に鎮座する。
「そっちはもう痛くないんだけどな」
頬の布を取られながら清高が言うと、
「駄目だ。痕が残る」
龍神は強い口調で返してきた。
龍の血は人間にとっては毒である。
彼の言葉の示すとおり、返り血を浴びた頬は、火傷のように爛れ、皮膚が固くなっていた。このまま放置しておけば、一生消えない傷痕になるかもしれない。
清高としては、この先さして長くもないだろう人生、傷の一つや二つ残ったところで、気に病むほどのことでもないのだが。
龍神は清高の顔に自分の血の痕跡があることがどうしても気に入らないようで、自らせっせと薬を作っては、毎日こうして手当てに勤しんでいる。
他人の手で血を流させられた、という不名誉の証拠を、なんとしても消し去ろうという執念が感じられた。
頬の処置が終わると、あたりまえのように肩の怪我の方も手当てし始める。
「なぁ、龍神様」
「なんだ?」
「あんたさ、なんでそんなに俺の世話を焼きたがるんだ?」
返事はない。
清高の態度は祟りの神と呼ばれる相手に対するには不敬なのもだったが――当然、あえてそうしているわけだが――にもかかわらず、龍神は尋ねれば大抵の質問に答えてくれる。
言葉数こそ少なく簡潔だが、それはおそらく彼の性分によるのだろう。清高の相手をすることを面倒がっている様子ではない。
ただし、答えたくない質問をされると、押し黙る癖があった。
「普通、自分の命を狙ってくる相手なんか、殺すか、そうでもなくてもさっさと追い出すものだろうに。どうしてあんたはそうしない?」
清高がここへ落ちてきた日からずっと、寝床や薬だけでなく、食事や、着物まで、龍神は何かと細かく世話を焼いてくれている。
着の身着のままやって来てあの花嫁衣装以外に何も持たない清高が、今ここで何不自由なく過ごせているのは、龍神と、彼の指示を受けた菊里のお陰だ。
そんな龍神に、清高は――隙あらば、襲いかかり続けているということになる。
我ながら、どうかと思う。
だからこそ、彼の真意を知っておきたい。
龍神はなぜ、こうも清高に優しいのか。
「もしかして、俺に惚れちゃったとか?」
にやつく清高に返っていたのは、
「怪我が治るまで、だ」
という、実にそっけない返事だった。
「……朝餉にするぞ」
我ながらつまらない冗談ではあったが、まるで相手にしてもらえないと面白くない。
少しばかり不貞腐れつつ、菊里が運んできた膳を前に、箸を取った。
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