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13 伯爵邸からの逃避行
しおりを挟む部屋の外に出ると、異様な光景が広がっていた。
ユンの言葉通り、兵士たちは一人残らず鼾をかいて眠っていた。
「ちょっ……これ、なにをしたんだ!?」
「朝食のスープに眠り薬を仕込んだだけですよ。何時間か経てば、目を覚ましますから大丈夫」
そう答えると、ユンは先に立って俺を先導した。
「シェリル様、こちらです。くれぐれも彼らの安眠妨害はなさらないように……」
足音を立てぬよう配慮しながら途方もなく長い階段を降り、広い庭を横切ってメディス伯爵の屋敷の敷地を後にする。
ユンの導きで屋敷の裏手にある湖まで辿り着いた。
木陰を見ると、そこには毛並みがいい栗毛の馬がつないであった。
「この馬をお使いください。当面の食糧も積んでおきましたから、きっと困らないでしょう」
「ありがとう……!」
「侯爵家の領地は、あの山の向こう側。マルトと呼ばれる港町に、侯爵の屋敷があります」
ユンは、湖畔の先にある山脈の稜線を指さした。
「ユン……なぜ、ここまでしてくれたんだ?」
感極まって、思わず尋ねた。
俺が逃げたら、真っ先に疑いの目を向けられるのはユンだ。当然、メディス伯爵から咎めを受けるだろうに……。
すると、彼は表情が乏しい顔に、微かな笑みを浮かべた。
「あなたは、俺に妹の形見を返してくれました。それ以上の理由はありません。普通だったら、脅して脱出の手助けをさせようとするでしょう? 俺は、人間としてあなたを尊敬いたします」
俺だって、何度脅そうと思ったことか!
ユンは、俺にとって都合がいい形で勘違いしてくれているようだ。だが、それは勘違いさせておいてもさほど問題はないだろう。
ただ、ユンがこの先どうなるか……それだけが心配だった。
「でも……お前は俺が逃げたら、伯爵家にいられなくなるんじゃないのか?」
「ふつうに考えれば、そうでしょうね。まぁ、隣国に逃げて傭兵にでもなりますか。俺には、そういう気ままな暮らしが向いていると思います」
「ユン……!」
俺は、瞬時にいいことを思いついた。
「じゃあ、その前にひとつ仕事を頼まれてくれないか?」
「仕事?」
「俺と一緒に侯爵家に行って、アリサを助けてくれないか? そうだな……報酬は俺の出世払い、ということで」
それを聞いて、ユンは目をぱちくりさせた。
オメガ性でメディス伯爵のモルモットということしか価値がない俺。そのレッテルさえも、伯爵邸から逃亡した今となっては何の意味もない。
今も無一文だし、これから先も似たようなもの。
無謀と言えば無謀なお願いだったが、奇跡的にユンは首を縦に振った。
「……喜んでお供いたしましょう」
眠り薬がよく効いているからだろうか、伯爵邸から追っ手はやってこなかった。
そのお陰で日が暮れる前に山を越えて、その向こうのオランディーヌ侯爵領へと入ることができた。
領土の境の辺りは木々が手つかずのままで、民家の一軒も見当たらない。日が落ちると不気味な暗がりが広がって、闇に飲み込まれてしまいそうな恐怖を覚えるほどだ。
俺たちは、無理をしないことに決めた。
森の中で火を起こし、暖を取りながら持参したパンやチーズで食事をとった。
「火を見ていますから、シェリル様は先に眠ってください」
「えっ、それじゃあユンが寝れないじゃん」
「俺は、こういう任務に慣れていますから」
言われてみれば、衛兵には夜勤もある。
幽閉されていたとき、ドアの外にはいつも彼が控えていた。
ただ、それは職務の中でしていただけのことだ。
俺はもう伯爵のモルモットではない。睡眠時間を削っても、守るべき存在ではないはずなのに……。
「ユンは……なんで、こんなことまでしてくれるんだ?」
俺が問うと、火に照らされたユンの目元が翳りを帯びた。
「……俺の妹も、オメガだったんです」
「えッ!」
「でも、俺はずっとそれに気づいてやれなかった……気づいたときには、初めての発情期が来たあとで、その匂いに誘われた近所の男に襲われてしまって……」
ユンはしばし痛みを抑えるように沈黙してから、低い声で続けた。
「妹は辱めを苦にして、自殺しました」
「……!」
「……俺は、その相手の男を殺したんです……」
「そう……だったのか……」
暗い過去に思いを馳せるように、ユンは空を見上げた。
「俺は逮捕され、縛り首になるところでした。それを、メディス伯爵に救われたんです」
「伯爵がそんなことを……」
「妹の復讐は、俺にとっては大義名分かもしれないけれど、罪は罪です。妹を辱めた男にだって家族もあるし、これから先の人生だってあったはず……だから、俺がしたことは死をもって償おうと思っていました」
「……」
「でも、メディス伯爵から言われたんです。妹の分まで懸命に生きることで、罪は償える……まだ若いんだから、何度でもやり直せるって。伯爵はオメガの研究をされている関係で、俺が相手を殺した原因に思うところがあったんでしょう……領主として、俺に恩赦を与えてくれました。それ以来、俺はメディス伯爵に仕えてきたんです」
それを聞いて、俺はメディス伯爵のことを誤解していたのかもしれない。
移民の彼が伯爵家の衛兵になっている理由についても、よく理解ができた。
ユンがあの屋敷にいたのは、贖罪のため。それを、俺は……。
「ユン、すまなかった……! 俺のせいで、命の恩人を裏切る真似をさせてしまって」
「いえ。俺はもともと、その時に処刑されていたはずの身の上です。シェリル様の妹さんがオメガ性で、望まぬ形の婚姻を強いられそうになっているというのも、きっと何かの縁でしょう。俺でなにかできるのなら、なんでもお力になりたいと思います」
「ユン、ありがとう……!」
俺はガシッと彼の手を取って、手の甲にキスを落とした。
「わっ、シェリル様! な、なにをなさりますか!?」
ユンはわかりやすく赤くなって、慌てた様子で俺から手を離した。
「……さあ、もう遅いです! 明日はマルトまで進みますから、さっさと寝てくださいッ」
機嫌を損ねてしまったのか、それとも照れたのか……ユンはぷいっとそっぽを向く。
「ありがとう、ユン。おやすみ」
「おやすみなさい」
俺はユンの厚意に甘えて、外套を敷いた上に横になった。
星空を見ているうちに睡魔に襲われて、俺の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
オランディーヌ侯爵領の最大の都市マルトに到着したのは、翌日の昼頃のこと。
王都ほどの賑わいはなくとも、メディス伯爵の領地の城下町と同じくらいの人通りはあるようだ。地方都市としては、かなり大きな部類に入るだろう。
まだ発情期が完全に終わっていない俺からは、微かに甘い匂いが漂っている。
そのため、マントで体を覆ってフードを目深に被っていた。
超美人と言われるアリサと双子の俺も、容姿は女性的で男にモテる要素に事欠かない。
とはいえ、マルニック民族では美の象徴とされるプラチナブロンドを隠しているだけでも、人々の関心を逸らすのには有効だろう。
俺とユンは街の雑踏をなるべく避けながら、オランディーヌ侯爵の屋敷を目指した。
街の中央には、壮麗な大聖堂がある。
その前の広場に、市場が立っているためか大変な人混みだった。
そこから程近い一画に広がる、優美な庭園がある城館――それが、オランディーヌ侯爵邸だ。
絢爛豪華な城門の前で、甲冑を着込んだ兵士たちが訪問者たちをチェックしている様子が見えた。
「どうやって、中に入るかなぁ?」
俺は途方に暮れたように、小さく呟いた。
「門から堂々と……というのは、やめたほうがいいでしょうね」
「まぁな」
「情に訴える、というのはどうでしょう?」
「情に……?」
意外なことを言い出すユンに、俺は問うように視線を投げる。
「実は、俺の親戚が侯爵邸に出入りして商売をやっているんです。もしかしたら、今回の件に力を貸してくれるかもしれません」
「本当か!?」
「とはいっても、かなりご無沙汰しているので門前払いされるかもしれませんが……ただ、正攻法でいくより、そちらのほうが可能性あると思いませんか?」
そこに、選択の余地はなかった。
俺たちは早々に目的地を変更して、ユンの親戚の家に行くことになった。
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