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36 ファーストキスはお菓子よりも甘く(2)
しおりを挟むここは、メインストリートに面する一等地。それなりの賃貸収入を得ることができるはずだ。
「でも、それもあまり具体的な話ではないのです。たしかに、ご商売をされている方に打診を受けたことはあるのですが」
「そうでしょうね。ここで事務所や店舗を出すのは、誰もが夢見ることですから」
私の言葉に、リオネル様は視線を彷徨わせる。
「あの……もしよろしければ、の話ですが」
「はい?」
「……ここの一階で、カフェをオープンされるのはいかがですか……? そうすれば、私もすぐにカタリナお嬢様のお顔を見ることができますから」
その提案は、私にとって願ってもないことだった。
メインストリートに面した場所には競合店が少ない。贅沢品を買い求める人が行き交う割に、ティールームは一つしかない。
そこも午後の時間は常に満員で、イザベラ叔母さんによれば予約は受け付けていないので、買い物の前にウェイティングリストに名前を書いておかなければお茶を片手に休憩をすることすらむずかしい、と言う。
絶対にティールームがいいという上品な貴婦人方は別として、この通りにはもう少しカジュアルな店でもいいという人々も多い気がする。
例えば、他国からの来訪者やこの辺りで店を経営している人々、私くらいの世代の貴族の令嬢たち――。
色々な人たちに、私が作ったお菓子とおいしいコーヒーや紅茶で憩いの時間を持ってもらいたい。
その願いが、リオネル様のお陰で叶おうとしている……!
「ありがとうございます、リオネル様! ぜひ、お借りしたいです。なんと、お礼を申し上げたらいいか……!」
うれしさのあまり、斜め前に座っていたリオネル様に抱きついた。
「えっ……、カタリナお嬢様……」
明らかに狼狽する彼の声が、耳元を擽ってくる。
「あぁ……! わたくしったら、ごめんなさいっ!」
我ながら大胆な行動をとったな、と後悔して体を離そうとした。
しかし、逆に背中を強く抱き寄せられてしまう。
「リオネル様……?」
小声で問うように名を呼ぶが、返事はない。
「……あなたが愛しくて、堪らない……」
低い声で囁かれる甘い言葉に、体の芯が熱くなってくる。
髪を撫でていた手が頬にかかり、私は顔を仰向かされる。
目の前にある彼の顔は、クリーム色のランプの光に照らされてとても美しく、抗えない魅力に満ちていた。
不意に彼の視線が私の口元へと下がる。
(あ、もしかして……)
そう思った時には、唇にあたたかいものが触れていた。
そう……リオネル様は、私に口づけをしてきたのだ!
思いがけず柔らかな感触に、胸が早鐘を打つ。
前世でも恋愛と無縁だった私は、これが初めてのキスだった。
彼が触れ合った箇所が、どうしようもない熱を帯びる。
もっとしてほしくて、もどかしくて堪らないような気がして……。
――その時、外から聞こえたのはコンコンとドアをノックする音。
「すみません、社長! 明日のお打ち合わせの件で、ご相談させていただきたいのですが」
おそらく、さっき一階の事務所で残業をしていた社員だろう。
リオネル様は、頬を赤らめながら私の体を解放した。
「すみませんでした、お嬢様……こんなつもりでは……」
「いえ、大丈夫です! お気になさらず!」
慌てふためきながら、ドアを開けて社員と話をしているリオネル様はすっかり経営者の顔に戻っている。
初めてのキスはとても甘かった。
それはまるで、お菓子作りで使うバニラエッセンスを嗅いだ時に覚える多幸感。
すでにお仕事モードに入った彼の後ろ姿を眺めながら、私は不思議なほど胸を揺さぶられ続けていた。
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