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第三幕 学生期

155.音楽の授業

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 今日は、待ちに待った音楽の授業だ。

 朝からシャワーも浴びて、入念にストレッチもした。今日もヤンと朝御飯を一緒に食べたが、ヤンは午後から授業だというので、別れて、今、アントニオは部屋に1人だ。

 目覚めてすぐに歯を磨いたが、食後も歯を磨いた。

 大丈夫だ!

 教科書などの必要なものは、すでに鞄に入っている。ルドやリンも確認してくれたし、忘れ物はないはずだ。

 大丈夫だ!

 制服も綺麗に洗濯してあるし、靴も磨いてある。身だしなみも完璧なはずだ。

 大丈夫だ!

 教科書に載っている曲はすでに暗譜(楽譜をみない)で演奏出来るほど予習してある。

 でも、昨日はダンスパートナー選びで、女子生徒から嫌われていることが分かってショックだったから、夜にあまり眠れなかったし、ちょっと体が疲れている。

 授業で歌った時に、声が出なかったらどうしよう...

 でも、大丈夫だ!

 ここは、劇場じゃない。学校の子供の授業で、そんな完璧な歌は求められないはず。

 ダメだ!

 それでも、お前は芸術家か!? いつも、最高の歌を歌おうと努力しなければいけないだろ! 吟遊詩人として恥ずかしくないのか!

 魔力を込めて歌うのは禁止だけど、俺の歌を皆に聴いてもらえれば、皆を歌で感動させる事が出来れば、皆が俺を好きになってくれるかもしれない。

 焦茶だけど、お前は楽しい奴だなって!

 それで、皆と友達になって、楽しい学校生活を送るんだ!

 あぁ、もう、時間だ!

 早く行こう! 早く行って、もう一度ストレッチをして、呼吸を整えて、譜面(楽譜)を見直して、完璧な状態で授業を受けよう。

 アントニオは寮を出て、迎えに来ている護衛騎士のリッカルドとヴィクトーと合流し、音楽室に向かう。

リッカルド
「今日は歌があるといいですね!」

アントニオ
「音楽史や楽典(音楽の基礎的な理論)でも楽しそうですが、歌じゃなくても、演奏があると嬉しいです。」

ヴィクトー
「最初は校歌ではないですか?」

 リッカルドやヴィクトーも、今日は何だかテンションが高く、いつもより声のピッチ(音程)が高い。

 音楽室はフラットなサロン風の教室で、床も壁も木製である。

 アントニオが一番乗りで教室に足を踏み入れると、音楽教師のフランチェスカ・セルヴァ(33歳)が迎え入れた。

 ゆったりウェーブのワンレンミディアムヘアで、大粒の白珊瑚のイヤリングとネックレスをしている。原色の紫、緑、黄色の柄の大きな花が刺繍されたマーメイドラインのミモレ丈ワンピースを166cmの長身で上手に着こなし、赤みの強いオレンジリップとブラウン系のアイシャドウという、印象的なメイクをしている。

フランチェスカ
「アントニオ様! 必修ではないのに、授業に来て下さって光栄でございます! 私が教えられるようなことがあるのか分かりませんが、精一杯、授業をさせて頂きます!」

アントニオ
「学校見学の際は、歌の伴奏を有難うございました!」

フランチェスカ
「こちらこそ有難うございます! 私にとっては、大変に幸せな時間でした。」

アントニオ
「今日は歌のレッスンがありますか?」

フランチェスカ
「えぇ、校歌ですが歌いますよ!」

アントニオ
「校歌ですね! 楽しみです。」

 アントニオは教科書の校歌のページを開き、譜面を見直す。

 クラスメイトの到着を待っていたが、時間が迫っても誰もやって来ない。

 この学校では、必修でない音楽は人気がないのかな?

 アントニオが、そう思っていると、音楽教師のフランチェスカがソワソワし始めた。

フランチェスカ
「おかしいわね。ちゃんと時間割表に音楽の時間は記載があるわよね?」

 フランチェスカは学校の時間割表に目を通す。

アントニオ
「はい。時間割表に載っていましたよ?」

リッカルド
「音楽は、社交界で交流するときに必要な能力ですし、楽しいから人気がある授業なのに、変ですね...。」

ヴィクトー
「学校の地図が間違っているとか?」

リッカルド
「いえ、私も確認しましたが、間違っていませんよ。でも、道に迷っているのかも?」

フランチェスカ
「ちょっと、見てきますね。」

 フランチェスカが教室のドアを開けると、エーリクが立っていた。

フランチェスカ
「あら? どうして入らないの?」

エーリク
「私が履修しても大丈夫でしょうか?」

フランチェスカ
「何故そんなことを思うの? どうぞ!」

エーリク
「でも...。」

 エーリクはアントニオと護衛の2人に視線を送る。

ヴィクトー
「あぁ、大丈夫だ。トニー様は、音楽の授業では歌魔法を使用されない。」

 エーリクの顔はパァっと明るくなった。

エーリク
「有難うございます!」

 エーリクはご機嫌で教室に入り、1番アントニオから遠い後ろの端っこの席に座った。

ヴィクトー
「他の学生は知らないか?」

 ヴィクトーがエーリクに話しかける。

エーリク
「他の方は来ないと思います。」

ヴィクトー
「履修しないのか?どうしてだ?」

エーリク
「あぁ~...えぇっと...そのぉ~...」

ヴィクトー
「何だ?」

エーリク
「アントニオ様の歌が怖いらしいです。」

リッカルド
「はぁ?!」

アントニオ
「え...」

エーリク
「いや、俺は怖くないですよ? だから、大丈夫だって、俺は言ったんですけど、皆が、それは、俺がまだ操られているからだって...」

 歌を聴いてもらえたら、皆と仲良くなれると思っていたアントニオは、とても悲しくなった。

 歌は人を幸せにするものなのに、皆に恐怖を抱かせ、逆に不幸にしてしまうなんて、芸術家として失格だ!

ヴィクトー
「誰だ? そんな事を言った奴は!」

エーリク
「だから、皆です。あ! でも、俺は、言ってないですよ! アントニオ様は、人の心を操る悪魔だなんて!」

リッカルド
「あの、クソガキ共!」

ヴィクトー
「不敬罪で捕まえるか...」

アントニオ
「駄目です! 皆、怖がってるだけなのに、不敬罪にはなりません。」

リッカルド
「ですが...」

アントニオ
「後日、音楽の授業では、魔法を使わないと教えてあげれば十分です。皆、12歳の子供なのですよ! 怖ければ、不安くらい、口にしてしまうのは仕方がないことです。」

 アントニオが、いつになく強い口調で言うので、護衛の2人は黙るしかなかった。

 だが、アントニオの目は何も無い宙を見つめた。

 頭が痺れているような感じがして、上手く考えられない。たぶん、自分で思っているより、ショックを受けているみたいだ。

 だけど、しっかりしなくては! 自分は身分があり、責任のある立場なのだから、皆が平和に暮らせるように、ちゃんと考えなくてはいけない!

アントニオ
「先生、申し訳ありません。私の所為で、せっかくの授業が台無しになってしまいました。」

フランチェスカ
「大丈夫よ。私は気にしませんから。今日は来なかった学生達も、アントニオ様の歌のことを、ちゃんと知れば、きっと一緒に授業を受けたいと思うはずです。私も、学生達に声をかけて誘ってみますから、心配なさらないで!」

アントニオ
「有難うございます。」

 アントニオは護衛の2人に視線を向けた。

アントニオ
「あの、この授業も学生2人だけですし、弓術の時みたいに...駄目ですか? 音楽も本来ならば徒弟制の学問ですし...一緒に習ったら、兄弟みたいなものでしょう?」

 ヴィクトーは駄目だと言いたかったが、こんな状況で駄目だと言えるわけもなく、渋々了承した。

ヴィクトー
「分かりました。 ですが、エーリクは保護観察中ですから、触ったりしては駄目ですからね!」

 ヴィクトーの許可が出て、アントニオとエーリクは満面の笑顔になった。

アントニオ
「はい! もちろんです。隣の席は良いですか?」

 アントニオはヴィクトーとエーリクを交互に見る。

ヴィクトー
「お望みのままに。」

エーリク
「もちろんです! どうぞ!」

アントニオ
「改めまして、アントニオ・ジーンシャンです。」

エーリク
「エーリク・ハッキネンです!」

フランチェスカ
「後ろの端っこではなくて、どうか前の真ん中に座って下さい。」

 こうして、少人数での授業が始まった。

 授業前にフランチェスカが言ったっ通り、『校歌を歌えるようにする』というのが、今日の授業の内容らしい。

 フランチェスカはピアノを弾きながら歌って教える。

フランチェスカ
「くれないまとう~♪ さんはい!」

フランチェスカ&アントニオ&エーリク
「「「くれないまとう~♪」」」

 アントニオは、すでに歌えるので、エーリクの補佐をするように歌った。エーリクの歌声が先生に聴こえるように自分の声のボリュームを落とし、エーリクが正しく校歌を覚えられるように、音程やリズム、滑舌に気を配りながら、ロボットのように正確に歌った。

 ヴィクトーは、そんなアントニオの歌を聴いて、天才だと思った。

 綺麗な声だ。とても優しい音色で、まるで天使が歌っているようだ。

 しかし、リッカルドは首を傾げながら、眉間にシワを寄せて聴いている。

 ヴィクトーは、そんなリッカルドの姿をみて、首を傾げた。

 ロッシの奴、トニー様の歌をあんなに楽しみにしていたのに、何が不満なんだ? 歌魔法じゃないからか?

 そう、リッカルドは不満に思っていた。

 何でトニー様は本気で歌わないんだ? 授業だからか? 校歌はあんまりお好きじゃないんだろうか?

 ひと通り、最後まで音取り(譜読み練習)が終わった。

フランチェスカ
「さぁ、通して歌ってみましょう!」

 フランチェスカの、その言葉で、アントニオは軽くストレッチをして、身体をほぐした。

 先生が前奏を弾き始めると、アントニオの歌い手モードがオンになる。

アントニオ
「♪紅(くれな)い纏(まと)う学徒(がくと)達
誇り高き此(こ)の足は
叡智の庭に 導かれん

手にした剣を研ぎ澄まし
至高の術を繰り出さん

いつの日にか 
勇士となりて 国を守らん

いつの日までも
友となりて 君を守らん♪」

 音取りの時とは、違う歌のようだった。

 力強く、勇ましく、そして、時に繊細に歌われた校歌は、もはや、ヴィクトーの知っている歌ではなかった。

 幾重にも重なり木霊するベルカント(唱法)の響きが、音楽室の空気を震わせた。

 豊かな音に包まれると、胸が熱くなり、心までが震えるのを感じた。

 護衛騎士だけでなく、エーリクも、自分が歌うのを忘れて聴き入っていた。

 サビのフレーズが歌われると、ゾクッと鳥肌が立った。

 歌が終わると先生も含めた4人は、アントニオに大きな拍手を送った。

 だが、心を支配されたと思ったヴィクトーは、慌てて、アントニオを注意した。

ヴィクトー
「トニー様! 歌魔法を使っては駄目です!」

アントニオ
「え!? ...今、使っていましたか? 魔力を込めないで歌ったつもりなのですが?」

リッカルド
「ルナールさん、瞳が虹色になっていないので、恐らくトニー様は、魔法を使われていないと思います。」

 ヴィクトーは、アントニオが馬術の授業で馬をなだめていた時の事を思い出した。確かに、あの時は瞳が虹色に光っていたし、少し感覚が違っていた。

ヴィクトー
「申し訳ありません。私の勘違いです。」

アントニオ
「大丈夫ですよ。私の歌で感動して下さったのでしょう? とても光栄なことです。」

 ヴィクトーは、アントニオの笑顔を見ながら、これが魔力ありの歌魔法だったら、どうなっていたんだろうと怖しくなった。

 トニー様の歌は、魔力無しでも、こんなにも人の心を支配するのか...歌魔法を聴いてしまったら、一体どうなってしまうんだ? きっと、聴いたら最後、伝説の通り、ローレライの虜になった若者のように、永遠に心は自分の元へは帰らないだろう。だが、それでも歌を聴いてみたいと思う自分がいる。

アントニオ
「ところで、エーリク様、先程はどうして一緒に歌わなかったのですか? 先生は1人ずつ歌ってと言っていましたっけ?」

エーリク
「えっと、それは...つい、聴き惚れてしまいまして...」

フランチェスカ
「お気持ちは分かりますが、エーリクさんは歌い直しです!もう一度、丁寧に音を取り直しましょう。」

エーリク
「はい...。」
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