仮面の裏の虚像

Ms.ward 19

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第1章

椎名悟5

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 木曜日の3限目、クラスのホームルームの時間だった。テーマは将来の自分について。班になって考えるということであったが、その班というものは察しの通りのメンバーである。
「桑原君は何になりたいの?」
「俺はまだ何も決めてねえな。将来を先に全て決め込んで生きていくってのも息苦しいだろ」
「まあそれもそうかもしれないね。僕もまだはっきりとは決まってないから、大学には進学したいと思っているんだけどね。悟君は?」
「俺もまだあまり決まってないな」
「いつのまにか歳をとって、いつのまにか若いとは言われなくなって、近頃の若者はとか言ってしまうんだろうなあ」
「随分と時が過ぎるのが早いのね」
「時間って経つのが早いよ。高校1年生もいつの間にか終わってたしね。青春は輝いていたなんていうのは一握りなんだろうね」
「早いねえ、来年には受験とかがあるのか。椎名も大学には行くのかよ」
「まあな」
「椿ちゃんはどうするつもりなのかな。なりたい職業とかあるの?」
「銀行員かな」
「画家か何かと思ってたよ。結構、というよりとても現実的なんだね」
「趣味を職業にできる人なんかはそれこそ一握りなんじゃないかな。私も絵を描くことは続けていたいと思うけどね」
「そうだね、したいことはまだ決まってないけどしたくない事ならあるかな」
「なんだ」
「意味のない生き方だけはしたくないかな。生まれてきた以上なんらかの形で自分という存在を、この世のどこかに刻みたいんだ。自分が死ぬ時に、たった1ページでその人をまとめられるような人間にはなりたくないな」
 彼は珍しく真剣な眼差しで熱弁しているように見えた。何か心に引っかかることでもあったのだろうか。
「佐藤誠一という芸能人にでもなりたいのか?芸名なら俺が考えてやるよ」
 そういう意味じゃないよ、誠一はそう反論した。
 途中で山下大五郎の声がかかった。全体に対して話をしたいようだった。
「大体話し合いはできたかな。いつも机について、椅子に座ってただ、授業を受けることを繰り返しているだけだと感じている生徒も中にはいるだろうと思う。だから将来なんかを考えることができないという人もいると思う。それでも仕方がない。数学の公式や文法の使い方、英語の読み方なんかを習っていても、誰も人生の生き方だけは教えてはくれない。自分で考えなければならない。必要なのは誰かの人生の軌跡を辿る方法ではない。物事の正しさを判断する力なんだ。自分の人生を肯定できるように生きなければならないんだ」
 山下大五郎の言わんとすることは大まかにわかった。確かに私達は何も知らないでいる。知っているのは漢字の読み方や数学の公式、そして会ったこともない歴史上の人物の行ったことなど。それすらも、もしかしたら何も知らないでいるのかもしれない。
 私はこのままでは普通に高校を卒業し、大学にでも進学をして成り行きで決まった就職先で定年まで何の目的も持たないままに仕事をし続けるのだろう。果たして普通とはなんだろうか。
 私は普通というものについて少し考えた。普通とはなんだろうか、偏差値50を叩き出すことだろうか、両親の言われるままに日常生活を送ることなのだろうか、それともただ毎日を消化するように窓の外を眺めて、時には授業中に居眠りをして友人と談笑することなのか。そんなものは逃避ではないかと思った。
 普通というものはそんなものではない。普通というものは誰にも否定されることのないことだ。つまりは失敗をしないことこそが普通なのだ。成功をすることではなく、失敗をせずに誰からも否定をされないことこそが万人にとっての普通なのだ。いつしか成功は失敗をしないこと、というようにシフトしているのかもしれない。そうして普遍的な何かを求め続けて行くことこそが、誰かにとっての幸せというものであるのだろうか。
「みんなはこれから半世紀以上もの間生きることになると思う。極論を言うと食べ物さえ食べてしまえば生きていける。だから何となく高校を卒業して、何となく仕事をしてお金を稼げばいい。ただ、それは本当に生きていると言えるのだろうか。よく聞く表現なのかもしれないが、単なる社会の歯車の一つでいいのかい。私にはそれが生きているとは到底思えない。人にもよるのだろうが、それでもいいと言う人ももちろんいる。それにそういう人だって必要だ。だから強制するわけではない。ただ私は思う、この世に一つしかない自分という自分を生きてみたいとは思わないか。ただ生きていたという記録なんかではなくて、人々の記憶に残るものにしたいとは思わないか」そこまで言うと山下大五郎は一拍置いて、私の言いたいことはこれだけだと教壇を去った。
「何か意見は変わった?桑原君」
「何だろうな。一つ思ったのはな、いつだって正しいことをしていたいな」
「いい考えだね。僕も意味のある生き方を目指していきたいかな」

「悟君は、『民衆を導く自由の女神』という絵を知ってる?」
 私は桜田椿がいつもいる美術室Aにいた。理由は物語演出上の諸事情とでも思っていただいて構わない。
 桜田椿はキャンバスと向き合うように、こちらを見ずして私にそう問う。自由の女神とは最初米国にあるものかと思ったが、どうやらそういう意味ではないらしい。一つだけ心当たりがあった。
「もしかして昇降口の階段の壁に掛けてある絵画のことか?」
「そう、それの名前よ」
「あの絵は何を表しているんだ」
「フランス革命って覚えてる?」
「絶対王政が崩れたあれか」
「絶対王政が崩れたあれよ。ナポレオンが活躍した」
「それなら覚えている。それがどうかしたのか」
「あの絵はフランス革命を主題として描いている絵なのよ」
 私はおぼろげな記憶を辿る。確か中央に旗を持った女性が数多くの人間の上で立っている。これはフランス革命での犠牲を表しているのだろうか。
「革命って悟君はどう思う」
「どうって、感想ってことか?」
「違う違う。革命が起こることをどう思うかってことよ」
「フランス革命で言えば、必要なことだったんじゃないのか。あれは確かひどい身分制度だったんだろう、それを無くしたいがために革命を起こしたのもあったんじゃないか」
「アンシャン・レジームよ。階級制度は3つに大別されて、上2つは税金を免除されていたのよ。そして1番下の平民が特権身分の贅沢のために働き続けなければならなかったのよ」
「ひどい話だな。特権身分は多かったのか?」
「平民の10分の1にも満たなかったらしいよ。この旧体制がフランス革命が起きた原因の一つよ」
 私は歴史の授業を受けているようだった。
「それで、革命の状況というか、何かを伝えたかったのか」
 桜田椿は質問には答えずポケットから取り出したスマートフォンを操作していた。
「ちなみにこれね、絵画」彼女は画面に映し出された絵画を私に見せた。
 中央の女性は右手に赤と青の旗を掲げて、はだけた衣服からは乳房があらわになっている。自由を勝ち取ったと言わんばかりに旗を掲げる女性の下では、多くの男やら女やらが横たわっている。背景には戦争での煙か、雲かは判断がつかないが、女性の頭上は一筋の光が差し込むように明るく描かれている。顔を判別できる者が数人いるが当然というべきか不思議なことにというべきか、誰も笑顔を浮かべてはいない。
「革命ってさ、各々の独創的な考えが一つの集団を成して行動に移すことだと思うんだよね。つまりその集団における正義が執行されたってことなのかな」
「そう聞くとなんだかすごいことに見えてくるな」
「でも革命ってフランス革命では以前よりは自由を得ることができたわけだとは思うんだけどね、多くの犠牲が出たんだと思う。正義せいぎ犠牲ぎせいの上で成り立っているからね。正しいと思うことをしようと思ったら、何らかのリスクを負うことになるということだよね」
「他の戦争でもそうだな、必ず何らかの犠牲を伴っているな」
「自由を求めて戦った結果、ある人は犠牲となり自由を失った。あるいは自由を求めなかった者は自由を手にすることによって不自由を与えられることとなった。そんな人もいると思うの」
「自由を手にして不自由になった?」
「自由っていうのはある意味では、不自由だと思うの。それはね、型にはめられていて、与えられたことだけを常に行っていれば良い。そんな人だっているでしょ」
「フランスというよりも、どこかの会社にいそうだな」
「悟君が言うようにこれはフランス革命に限ったことじゃないんだけどね、大きな集団からいきなり自由にされたところでその人は、自由の扱い方を全く知らないものだから、余計に何をすれば良いかわからないの。だからその人たちにとっては不自由なんじゃないかな」
 自由というものは時に不自由になり得る、そんなことを言う彼女に私はどう反応していいかわからなかった。
「つまり、誰もが求めるような理想を作ることなんてできっこないよね。結局革命だ、なんて言って自由を得たとしても誰かがそれを統一しなければモラルは崩壊して国は機能しなくなる。そして誰かが統一してしまえばこれはまた、誰かの意見を押し通すことになる。結局のところ誰かが批判を起こして革命が起きてしまう。そんな悪循環が続くんじゃないかな。万人に共通する幸せや自由なんてものはないと思う」
「でも、革命を起こした者は万人の幸せや自由を願って革命を起こしたりするんだろうな。もちろん全員じゃないのだろうが」
「そうね、だからといっていちいち少数派の意見を気にしながら革命を起こしてもキリがない。世界って、国ってそんなものじゃないかな」
 桜田椿はキャンバスの後ろで手早く筆を動かしているようだった。何を描いているかはここからは見えなかった。
 私は背後に回り込んで彼女の絵を見た。黒い柱とも建物とも検討がつかないものが聳え立っており、右には周りだけを照らす三日月、そして中央には気流を表したようなものが渦を巻いている。
「この黒いのはなんだ」
「糸杉よ、杉の木」
 少し思い出した、この油絵の作者を私は知っている。
「この絵画ってゴッホ?」
「そうよ」
「フィンセント・ファン」
「そう、そのゴッホよ」
「前に誠一が言ってたな」
 ふと思った。そのゴッホの『星月夜』を描いている桜田椿の左手は私の思う筆の持ち方とは少し変わったものだった。
「桜田さんの筆の持ち方って独特だな」
「そうじゃねえと描きにくいんだとさ」不意に教室の廊下側から声が聞こえてきた。桑原智久だ。少し開けてある窓から顔を出している。私はすぐにドアの鍵を開けた。
「急に現れたもので驚いた」
「まあ桜田さんにちょっと用事がな」
「それで、桑原が言ってた通りなのか?」
「そうよ、昔からの癖なの。今ではこの描き方じゃないと絵を描けないの。昔はよく先生にちゃんとした持ち方をするように言われたんだけどね」
「あれだな、一度間違ったはしの持ち方をした人がなかなか元の箸の持ち方ができないのと同じだな」
「そういうことなの。今ではもう誰にも言われなくなったけどね」
 おそらく、桜田椿の絵のセンスと巧さに口を出すものがいなくなってのであろう。
「癖を直すのは大変だよな、なあ桑原」
「なんで俺に聞くんだよ、癖なんかねえよ」そう言っている彼の左手の指が微かに動く。
「やっぱり桑原君も直ってないのね」
「癖ってそんなもんだろうよ」
 私はしばらく彼女の絵を描く姿を眺めていた。もちろん描いている絵も見ていたのだが、この繊細な絵をどう描いているのかを見たくなったのだ。右手に持ったパレットから幾色もの色を混ぜ合わせたり、その色単体で使ったりして絵を描いている。彼女はまるでその色の完成形を知っているかのようで、私にとっては不思議に思えた。その彼女の手が不意に止まった。
「悟君、さっきの話の続きなんだけどね、フランス革命の話の」
「なんだ」
「正義ってなんだと思う?」
 私は口をつぐんだ。答えなかったのではなく答えられなかった。私の中での正義というものを定義付けることができなかったからだ。おそらく桑原も私と同じような顔つきをしている。
「私はね、正義っていうのはその人を映す鏡であって、その人の生き方そのものだと考えてるの。だから本当に自分の生き方を貫いている人ってすごいことだと思うんだよね。そして自分の生き方を貫いた結果が革命を起こすことになった。誰かと、何かと対立することになってね。でもそれが正義を振るうことだと思うんだ。結果がどうあったにせよ、正義を振るうことができる人は相当少ないと思うよ。自分の言いたいことを言って、自分のしたいことをできる人なんて本当に一握りだと思う。難しいよね、自分の意思を通すことって」
「そうだな、なかなかできることじゃないな」
「自分の意思を伝えられるような人になりたいね」
 半分だけ開けている窓から肌寒い風が通り抜けた。外には辺りを照らし出す満月が顔を出していた。
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