俺が、恋人だから

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『追いつく』

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体育館に、ビーッと電子ホイッスルがひびいた。
土曜日の17時30分。
普段の部活より1時間ほど早くクールダウンをしていた部員たちに、キャプテンの嵐は声をかける。

「集合!」
「はい!」

全員が一斉に走っていく先に立つのは、華高バスケットボール部監督、杉浦正二(すぎうらしょうじ)。46歳、既婚、息子をひとり持つ体育教師だ。
嵐の母いわく「監督さん、2週間くらい会わないと顔忘れちゃうのよね」という特徴のない淡泊な顔立ち。だが、白髪交じりの髪は量が多い。異様に多い。バスケ部に無関係の生徒たちからは『ヅラセン』と呼ばれそれなりに慕われていた。
嵐も綾野も、厳しくも優しいこの監督のことが好きだ。とにかく選手ひとりひとりをよく見ており、他校チームの研究にも余念がない。信頼できる指導者だった。

「来週の東海大会に向けて、各自、自主練なども自分の身体の様子をよく感じながら行うように。明日はオフ。月曜日から金曜日までは17時あがりとする。朝練は全員禁止。しっかり眠って、適度に身体を動かして、東海大会に備えるように」

「はい!」と部員たちの声が揃う。

「あ。勉強もしっかりな」

あははは、はは、ふっ、と笑い声は揃わず、日曜日の全日練習を終えた。





椿と並んで歩く帰り道。
ふたりとも傘を差しているから、お互いの顔よりも前方に注意しながら国道沿いの広い歩道を進む。ふたりとも足が長いので歩くペースは速い。スニーカーが、ときおりアスファルト色の水を弾く。
昨晩から降り続ける雨は今、小降りだ。
むわっとした湿気をはらんだ空気が部活で疲れた身体にまとわりつく。どうにも心地よい帰り道ではない。嵐は数日前からの気掛かりを親友に問うことにした。

「椿、足首大丈夫か?」
「うん。今年は大丈夫そう」
「ならよかった」

毎年、梅雨や寒い季節は椿の古傷が痛む日がある。
あれは中学1年生の5月、部活での災難だった。
椿はゴール下でリバウンドをとろうと高く跳びあがり、着地の時。接触してきた先輩の靴を踏むかたちとなり体勢を崩し、足首の骨に罅(ひび)が入った。すぐに椿の母親が車で迎えにきて、病院に直行。その日の夜、心配で綾野家に押しかけた嵐は親友のギブス姿を見るなり大泣きした。
接触した先輩はミニバス出身の嵐と椿を妙に敵対視しており、とくにポジションが被る椿への態度はあからさまだった。
入部して1ヵ月以上経っても名前ではなく「1年生」と呼んだり、椿が部室で制汗スプレーを使うだけで「くっせー」と大声で言ったり、その他、ほんとうにくだらない小さなことをあげればきりがない。
椿は何をされても飄々としていた。それがまた気に入らなかったのだろう。
「あいつ、絶対わざとだ!」嵐はキブス姿になってしまった親友に、泣きながら叫んだ。
椿は「いや、普通にリバウンド競っただけ。あっちのほうがジャンプ力なくて先に着地しただけだから、先輩は悪くない」と、少し笑って言った。
平然と先輩を貶す椿に、嵐も泣きながら笑った。
翌日、先輩は親と一緒に椿の家を訪ね、「怪我をさせてしまってごめん」と頭を下げたらしい。
椿はそのことを、「もともと先輩は悪くないけど、まあ、いろいろ許した」と穏やかなようすで嵐に報告してきた。
それから先輩は椿をちゃんと名前で呼ぶようになった。
さらには怪我をさせた負い目からか椿をなんとなく贔屓するようにもなり、結果的に、嵐の親友は1年生にして居心地のよい部活環境を手に入れた。
嵐は、辛抱強く、寛大で、人を許すことのできる椿を尊敬している。
だから。
だからきっと。

「あの、さ……守山くんは?」

前方の歩行者信号は赤色だ。揃って立ち止まる。
平和はこの怒涛の1週間、結局まるっと学校に来なかった。嵐は平和の連絡先を知らない。本人に会わない限り状況がわからない。
椿は傘の露先からぽたぽたと垂れる雨粒を見つめながら、落ちついた声で答える。

「もう心配ないらしい。から、来週は来るって」
「そっか」

……そうか。
椿は、平和と連絡をとっているのだ。
そっか。
よかった。

「あの日、ふたりで守山くんの家に行ったあとって、守山くんと会ったりしたのか?」

どうしてかわからないけれど、質問する声の調子にやや神経をつかう必要があった。普段通りに、と意識しなければ自分でも想像できないような声色になってしまいそうだった。
なんでそんな状態なのだろう……と自分自身に疑問をいだく嵐の顔を、椿は傘ごしに見つめてくる。

「へーわとは、会ってないよ」
「あ……、そっか」

「っか」、の部分の声にたくさん吐息がまじった。

「へーわが、来ないほうがいいって」
「えっ」
「しばらく家に来ないほうが、安全だって」

歩行者信号が青になる。
嵐の返事を待たずに椿は歩きだす。
追いつくために大股で数歩を進みながら、嵐はなんだか、不安だった。

「でも……もう心配ないんだろ?」
「うん。そう言ってた。電話で」

電話もしているのか。
メッセージのやりとりだけだと思ったのに。
文字と声じゃ、ぜんぜん違う気がする。

(…──もしかして、よりを戻した?)

そう聞こうとしたのに口から出た言葉はべつの内容だった。

「今日、守山くんのところに行けば?」
「んー」

なんだろうその曖昧な反応。煮え切らない返事は。
嵐は自分の不安は、平和の身を案じる類のものだと解釈する。
椿にはわからないのだろうか。
平和は絶対に、椿が来てくれたら喜ぶ。
嬉しいに違いない。
けれどそんなことは、自分から言えないに違いないのに。

「行けよ、この後。芦屋唯司の問題がもう心配ないなら、会わない理由ないじゃん」

見えていた椿の横顔が、隠れる。
斜めに傾いた傘の露先から雫が落ちた。

「正直、へーわに、どう接したらいいのかわかんない」
「は……?」
「へーわも同じだと思う。電話で、無言の時間けっこうあったから」

傘の下で椿が浮かべる苦笑が、見えないけれど、見えた。
嵐はなんだかムカムカしてくる。
でも同時に、……なんでかほっとしている。
自分の感情がわからない。
今わかるのは目の前の親友が、まだ混乱したままだということ。

「そっか。椿にも守山くんにも、少し時間が必要なのかもな」

椿は「だと思う」とだけ静かな声で答えた。
それからはもう「また明日」の挨拶をするまで、東海大会に向けての自主練メニューのことだけを話すのだった。





防水ランニングシューズの靴紐を、ぎゅっと固く結ぶ。

「嵐、外、雨だよ」

玄関横のトイレから出てきた父が、ジャージ姿で玄関に座る嵐を見て目を丸くした。

「ちょっと前からやんでるし。ごはん食べすぎてお腹ぱんぱんだから走ってくる」
「ほーん。じゃあ、帰りに『スイカちゃんバー』買ってきてくれるか?」
「いいよ。でも、遅くなるかも」
「そんなに走るのか」
「走りたい気分だから」
「青春だなぁ」
「青春だよって答えてほしいの?」
「はは。息子の青春は全力で応援する父ちゃんでありたい」
「何それ。いってきまーす」
「いってらっしゃい。気をつけて。大通りな」
「はーい」

父の穏やかな笑顔に嵐も笑顔を返して家を出た。
19時。
雨上がりの空は曇っているけれどまだ完全には暗くない。
走りだした嵐の真の目的はランニングでなく、行きたい場所があった。
住宅街を、走って。
散歩中のシベリアンハスキーに「あんっ!」と吠えられたので「はは」と笑ってすれ違って。
走って。
走って。
踏切りを渡って。
走って。
走って──……見えてきたのは、平和の住むアパートだった。

(椿はああ言ったけど、オレは違うもんな)

平和がきちんと食事をしているか気にかかる。
元気かどうか。
ちゃんと眠っているだろうか。
本当にもう、『心配ない』のかどうか……。
それに椿と違って、嵐は平和とどう接したらいいか惑うような感覚はなかった。
恋人でもなんでもない。
多分、平和は嵐を友達だとすら思っていない。
自分と平和の間に引かれた線が、はっきり見えている。けれど分厚く高くそびえる壁ってわけではないので、乗り越えればいい。嵐のほうから一歩を踏み出して。近付けばよいのだ。

(──うん?)

気付けば完全に日が沈んで街灯だよりになった視界に、白い車が入りこんできた。
平和のアパート出入口のすぐ傍に停車する。
と、私服の平和が階段を降りてくるのが見えた。

「あっ」

思わず声がもれる。
けれど嵐がいるのはアパートから20メートルくらい離れた場所だ。平和は嵐には気付かず白い車に乗ってしまう。
すぐに車は少しバックして、ハンドルが左にきられ、アパートから離れていく。
一連の光景をぼーっと見ていた嵐だったが。

「……守山くん」

呟くように名前を呼んで気付けば走り出していた。
全速力で。
味方がシュートを外し、リバウンドをとられ速攻をきめられた時と同じくらい必死に、速く、前へ前へと足を踏み出す。腕を大きくふる。呼吸のリズムもスタミナのために意識して。
ぐんぐん離れていくと思った車は赤信号で停車した。

(追いつける……!)

まだスピードをアップできたのかと自分でも驚くほど速く走って、とうとう追いついた。
平和が乗り込んだ後部座席、左側の窓。
べちゃっと手のひらをくっつける。
窓ガラス越しに嵐に気付いた平和は目をまん丸くした。
信号が青に変わる。
けれど住宅街の狭い道にはこの車しかいないからか発進することはなく、代わりに後部座席のドアが開いた。
戸惑ったようすの平和が猫背になって降りてくる。

「嵐くん……、どうしたの」

嵐は咄嗟に平和の腕を掴んだ。

「え……っ」
「守山くん、出かけて大丈夫なの?」

訊きながら運転席に座る人を確認する。
駄目だ。車外後方からじゃよく見えない。
芦屋唯司じゃないことが確定するまで絶対に平和の腕を離さないつもりだった。

「えっと、嵐くん……?」

困惑したようすの平和が何か言おうとしたところで、助手席から誰か降りてくる。
背の高い男だ。
椿ほどではないが、嵐と同じくらいだろうか。
黒いスーツ姿の、大人だった。
芦屋唯司じゃない。
雄のライオンみたいな髪型の、おそらく30代後半にみえる男。
唇の片方だけを吊り上げた癖のある笑みを浮かべ、近付いてくる。

「おー。ノッポのイケメンだなぁきみ。平和の友達か?」

声は渋く、低い。
嵐は掴んだ平和の腕を離さないまま臆さず答える。

「クラスメイトです。守山くんの」
「ほーう。肉、好きか?」
「にく?」
「好きなら乗れ」
「えっ」

男はさっさと助手席に戻っていった。
嵐はどうすればいいか迷い、平和を見る。

「あの人って……」
「父親」
「ええ!? 若い……よな?」
「どうだろ。……あのさ、帰って」
「え──」
「焼き肉屋連れてかれて、ものすごく肉、食べさせられるよ」

肉。
平和の父親。
心配。
芦屋唯司。
友達。
……椿。
平和の父親。
問題の解決。
数日ぶりの平和。
平和の父親……──いろんなことがぐるぐると嵐の頭のなかを旋回して。

「肉、好きだから!」

きゅっと表情を引き締めて言った。
平和の眉間にしわが寄る。
けれどもう一度帰ってとは言わなかったので、嵐は母の手料理がぱんぱんに詰まった胃袋のことは忘れ、平和の父親の車にいそいそと乗り込むのだった。

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