短編集

喜岡 せん

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かいじゅう教室

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 完全下校時刻を過ぎると原則全員強制帰宅になるのだが、とある期間のとある部のみ、その規則が免除されることがある。
 ぽつりぽつりと徐々に教室の電気が消えていく中、三棟四階の美術室だけはいまだ煌々と輝いていた。熱心な運動部が使用している体育館の灯りも午後八時には消えるが、美術部だけはそうもいかない。
 彼らに妥協は許されない。

 部室の壁に張り付けられているアナログ時計が午後十時を指したと同時に、サイレンのようなアラームが大音量で流れる。木造の古い校舎は異質なメロディに耐えられず、天井や壁や床を揺らし、その振動で元凶の時計が壁から逃げるように落下した。
 ちゃぽん、という音がしてアラームは止まった。
「先輩、仮眠時間終わりましたよ」
 水彩絵具で袖を汚した男子生徒が落ちた時計を拾い上げながら、目の前の長机の上で器用に寝ている女子生徒に声を掛ける。男子生徒は濡れた時計を軽く振って水を切った後、またガムテープで壁に貼り付けた。針は問題なく動いている。
「先輩」
 男子生徒はもう一度声を掛けた。今度は肩を揺すってみる。
「先輩、締め切りは明日なんですよ。分かってるんですか」
「明日」
 女子生徒はようやく顔を上げた。眠い目を擦るが、瞼を開ける気配が一向に無い。
 痺れを切らした男子生徒は膝下まで溜まっている足元の水を掬って、思い切り投げつけた。
 水の玉は男子生徒の手を離れた瞬間、一気に弾け、見事女子生徒の顔に命中する。
 そこでようやく女子生徒が重い瞼を開いた。
 水滴が落ちていく前髪には青色の油絵具が付いている。
「あれ、みんなは?」
「もう帰りました。残っているのは、僕と先輩だけです」
 ああ、そう、と女子生徒は気の無い返事をした。傍ら、霞む視界の中で描きかけの自分の絵を見つけて、やっと記憶が鮮明になる。
 女子生徒は明々後日から開催される展示会と目の前の作品モドキを天秤に掛け、これでまたようやく焦りを覚え始めた。彼女は元来、現実と感情の結びつきが弱い性格をしている。
「今、何時?」
 少し怒気の混ざった声が男子生徒に向けられる。男子生徒にとってはいつものことだった。
「十時十四分です。どうしてあのアラームで起きないんですか」
「だって、寝てたら聞こえないんだもの」
 女子生徒は水面を蹴るようにバタ足をした。ちゃぷちゃぷと水が鳴く。
 二人がそうこうしている間にも、美術室に溜まる水は膝下から少しずつ水面を高くしていた。
「言い訳はもう分かりましたから」
 学ランの裾を捲り上げながら、男子生徒が言う。「早く作品を仕上げてください。なんで、教室が浸水する油絵なんか描こうと思ったんですか。おかげでこの惨状だ」
「私にテーマなんか求めないでよ。下書きはもっと別のものだったのよ、ただ、絵が勝手に動いちゃうだけで」
「それ、去年も言ってましたよね」
 男子生徒が溜息を吐く。このやり取りも男子生徒にとってはいつものことだった。
 不満げな顔をして女子生徒が筆を取り、作品と向き合う。教室を浸す水は彼女の絵から溢れていた。
   ◇◇◆

 昨年、女子生徒が描いた油絵は川に落ちていた自転車をモチーフにしたものだった。
 錆びついた自転車を描き始めた時は、油絵の匂いの他に、泥臭くて錆びた匂いが少しするだけだったが、締め切り間近になってキャンパスに青を足した瞬間、川の水が溢れてきた。
 女子生徒のキャンパスから溢れるものは、絵が完成して「作品」になるまで消えない。
 昨年は結局最後の最後まで完成が分からず、グラウンドに移動してまで描き上げることになった。
 その時溢れた川の水や魚たちは、そのままグラウンドに沈み、その上を野球部が走り込んでいる。

 作品の「完成」は、彼女の意思と別のところにあるらしい。
 とは言っても、全くの無関係という訳でも無いらしい。
 どこかで妥協を許し、満足のいかない絵になりでもすれば延々と溢れ出てくることになり、そこらじゅうを水浸しにしてしまう。森を描けば周囲に草木が生え、空を描けば霧が立ち込めた。一度、宇宙を描いた絵をほったらかしにした時にはキャンパスに入る大きさのものは何から何まで吸い込んだことがある。
 その宇宙のせいで女子生徒はお気に入りのペンを失くし、男子生徒は借りていた本を失くした。
 宇宙が完成した翌日には、吸い込んだものが全てキャンパスから吐き出されていたが、それでも女子生徒のペンは見つからなかった。

 彼女に妥協は許されない。

 許されないが、自身の「妥協」と「満足」の境界線が何処に在るのかなんて、彼女ですら分からないのだ。

   ◇◇◆
 午後十一時。
 美術室の机を付け合わせて足場を作った後、描きかけの絵をイーゼルごと机に上げた。
 女子生徒が描き続け、男子生徒が水の掃き場作りに奮闘し、キャンパスは吐き続ける。教室の窓を開けて周る男子生徒は腰の辺りまで浸かっていた。
 女子生徒が色を乗せるキャンパスは、まるで消化不良を起こし、油絵具を嚥下しているかのようだった。
「一体なにが足りないのかしら」
 女子生徒が溜息を吐いて首を傾げる。
「ちょっと、怖いこと言わないでください。先輩の絵は先輩にしか分からないんだから」
「そうは言っても。私が私自身のこと分からないんだから。う~ん、どうしましょう」
 はぁ、と二度目の溜息を吐く。同時に、波のような水がどっと溢れてきた。
 イーゼルと女子生徒を支える机の表面が浸かり始める。
「そもそも」 男子生徒が半ば諦めたように水中の椅子を引いて腰掛けた。肩の辺りまで浸かり、潮のような匂いを鼻が拾う。
「どうして先輩は教室を海に沈めたんですか」
「違うわ」
 女子生徒が答える。「海の中に教室があるのよ」
「今年の春に、新入部員歓迎会で水族館に行ったでしょう。その時の水族館が忘れられなくて。水槽に光が当たって、逆に私たちはずっとシルエットのままだったじゃない? それが、本当に私たちも海の中にいるみたいで。私はいま、その時の感動を描いているのよ」
 そう言った女子生徒は油絵具で汚れた手を自身の頬に押し当てて首を傾げた。手はすぐに頬を離れたが、指先に付いていた朱に近い色がその場に残った。彼女はそれに気が付かず、男子生徒も黙っている。
 覚えてないの? と不満げな顔を寄越された男子生徒は記憶の引き出しを順番ずつ開け、しばらくしてから該当の記憶を見つけた。
 イメージが鮮明に蘇る。
 三棟四階の美術室に集う美術部員は全学年合計で十三人になる。その十三人と顧問ひとりの集団で隣町の水族館に遊びに行ったのだ。
 始めはぞろぞろと列を成していたが、中盤になるに連れて散り散りになっていた。最初に十三と一から離脱したのは女子生徒だった。その女子生徒を探すために、今度は男子生徒が十二と一から抜けた。

 女子生徒はイルカを眺めていた。
 イルカが泳いでいる水槽はそのままショーの観客席に繋がっているようで、ガラス越しに様々な来館者がはしゃぐ声が聞こえる。
 室内の照明の位置や上からの間接的な陽の光が逆光し、女子生徒の表情は暗闇に隠されていた。
「先輩」
 男子生徒が声を掛ける。
 学校の活動ではないので男子生徒も女子生徒も私服だった。男子生徒は黒いパーカーにジーンズというごくごく平凡な風体だった。そんな男子生徒が水槽の前から微動だにしない女子生徒に声を掛けた。
 女子生徒は白いブラウスに朱色のスカートを併せていた。
「先輩、みんな先に行きましたよ」
「みんな速すぎるわ。一体何を急いでいるのよ」
「先輩が遅いだけです。先輩こそ一体何を見てるんですか。イルカしかいないのに」
「そう、そうよ。ここにはイルカしかいないの」
 イルカが女子生徒の前を通る。
 魚類ではなく哺乳類らしい瞳と視点が交錯し、男子生徒の背中に悪寒が走った。
 気味が悪いと思った。
 生物は海から陸地へと上がり独自の進化を遂げているが、イルカのように海を泳ぐ哺乳類の祖先は陸から海へ戻ったのだという。
 彼らが再び海を選んだ理由は、陸を選び陸でしか生きられない男子生徒には分からなかった。
「よし、行こうか」
 女子生徒がやっとイルカから離れる。
「クジラとかもいたらいいのに」
「さすがに無理でしょう。あんなに大きいなら海でしか泳げないですよ。イルカは海じゃなくても大丈夫だった、それだけだと思います」
「そうよね。この水槽には頭しか入らない気がする」

「クジラ」
 男子生徒が呟いた。
「先輩、クジラ」
「私はクジラじゃないわ」
「誰も先輩がクジラだなんて言ってません。先輩言いましたよね、あの時の水族館を描いてるって」
「でもクジラはいなかったわ」
「いや、いました」
 男子生徒は立ち上がり、ずぶ濡れのまま女子生徒が座る机によじ登る。
「クジラはいました。水槽じゃ泳げなくて、頭だけ突っ込んでたんです」
 油絵用のナイフを握る女子生徒の手に自分の右手を添えて、残った左手でキャンパスの空間を指す。
 キャンパスから溢れていた水はいつの間にか流れを止め、教室の水位は少しずつ下がっていった。

   ◇◇◆

 展示会は午後から開催され、翌々週の日曜日に終わる。
 女子生徒の油絵は数多くの審査員の票を勝ち取り、見事最優秀賞に選ばれることとなった。
 モデルとして起用された美術部員が恥ずかしそうに顔を隠し、女子生徒の勲章を褒め讃えている。
「完成して良かったね。会場に直接持ち込んできたときは本当に安心したよ」
 モデルの子が茶化すように言う。
 作品のタイトルは最後の最後になるまで決まらなかった。
 絵の中の教室は水中で、水族館で見た様々な生物が回遊している。教室という箱の中は楽し気だが、ひとたび窓の外に目をやると、別の大きな生き物と目が合った。
 青の混ざった暗闇で輝く瞳。人間の瞳でも魚の目玉でもなく、どこか気味が悪いとさえ思う。
「先輩」
 聞き慣れた声に呼び止められた女子生徒は声のしたほうを振り向いた。
「もう描かないんですか」
 男子生徒の目の下には見慣れないクマができていた。確か、こういう時のためにコンシーラーをポケットに忍ばせていたはずだった。化粧は禁止されているが、今日はきっと例外だろう。なにせ、女子生徒も男子生徒もあれから一睡もしていないのだから。
「そうね、いや、あと、ひとつだけ」
「まだ描くんですか」
 そう返す男子生徒は安堵したように頬を緩め、女子生徒は秘密のポケットを探りながら次の構想を考えていた。

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