上 下
19 / 40
4◆美猫のサンゴ

◆5

しおりを挟む
 それからも、先輩はなんどかハルナさんの家に来たそうだ。来ると、よくくしゃみをする。

「先輩、風邪ですか?」

 ハルナさんは心配そうに先輩のおでこに手を当てる。その手を先輩はそっとどけた。

「いや、違うけど、もともとよくくしゃみするんだ」
「会社ではそんなこともなかった気がしますけど」
「うん、会社では我慢してる」

 ハハ、と先輩は笑っている。
 でも、サンゴが近づくと先輩のくしゃみがひどくなる気がした。大きなくしゃみの音が嫌いなのもあって、サンゴは先輩に近づかなかった。
 先輩はハルナさんには何も言わない。それでも、鈍いハルナさんも何度目かに薄々気がついたようだ。

「……先輩って、もしかして猫が苦手だったりします?」

 本当に恐る恐るそれを訊いた。先輩は、ギクリとしていた。

「い、いや、苦手というか……っくしゅいっ!」

 くしゃみが我慢できなかったらしい。そうしたら、ハルナさんはこの世の終わりみたいに悲しい顔をしたのだそうだ。

「そのくしゃみ、猫アレルギー……ですか?」

 先輩はひどく狼狽えていた。それは、ハルナさんが目にいっぱいの水を溜めていたからだろう。人間は感情的になると目から水を出すから。

「そ、そんなにひどくないんだ。ちょっとだけで、大人になってからはそんなに感じてなかったから、もう治ったのかと思ってたんだけど、ちょっとだけ、その……」

 それを認めた先輩は項垂れていた。
 ハルナさんは、その場にへたり込んでしまったそうだ。

「ごめんなさい、私、何も知らなくて、浮かれていて」
「ハルナは悪くないよ。俺がハルナの大好きなサンゴに会ってみたかったのも本当だから」

 多分、先輩はとてもいいヒト。ハルナのことをとても大事に想ってくれている。
 それは、サンゴと同じくらいだったかもしれないって。

 先輩は泣きじゃくるハルナさんを宥め、そうして帰った。でも、その晩、ハルナさんはずっと泣いていたそうだ。
 そんなハルナさんを見ていて、サンゴはいたたまれなくなった。

 大好きなハルナさんには誰よりも幸せでいてほしいのに、まさか自分が原因で悲しませてしまうことになるとは思いもよらなかった。

 猫のサンゴがハルナさんのそばにいたのでは、ハルナさんと先輩の仲はこじれてしまうかもしれない。本当は、心の奥底では、またハルナさんを独占できるからそれもいいんじゃないかって少しだけ考えてしまったそうだ。
 でも、悲しそうなハルナさんを見ていると、そんなのはやっぱりいけないって。

 サンゴがハルナさんの幸せの妨げになるのなら、サンゴはここにいてはいけない。悲しいけれど、ハルナさんとは今が別れの時だと思い定めた。


 あまり外に出なかったから、家を出るにもどこへ行けばいいのかわからなかった。
 でも、ハルナさんが朝、仕事に行くのに戸を開けた瞬間に、サンゴは意を決して外へと飛び出した。

「あっ! サンゴ! 早く中に入ってよ。遅刻しちゃう」

 ハルナさんが戸をつかみながらそんなことを言った。目元がまだ赤い。

 サンゴは一度立ち止まって振り返ると、にゃあと鳴いた。
 さようなら、ありがとう、と最後に告げたのだそうだ。

 大好きなハルナ。
 だからこそ、どうか幸せに――

 あとは一目散に駆けた。ハルナさんの甲高い声がしたけど、もう二度と振り返らなかったって。
 これからは野良猫になるんだから、とサンゴは他の猫を見つけるとは積極的に挨拶をしたのだそうだ。

 にゃあ?
 あんたみたいなお嬢さんに野良は無理だよ。他の野良猫にはそんなことを言われてしまったって。

 でも、ハルナさんのところへは戻れない。もともとは野良の母猫から生まれたサンゴなのだから、そのうちに野性の勘が戻って野良に戻れると思ったのは見通しが甘かったのかもしれない。

 一日野良をしてみただけで無理だと言われた意味もなんとなくわかったって。
 道を歩くにも勇気が要った。ブゥブゥと音を立てて高速で走る箱、人間、犬、カラス――猫の天敵のなんて多いことだろうかって。

 そんな時、出会った黒猫がここのことを教えてくれた。
 人間に可愛がられてたあんたなら、そういうところの方が向いてるよって。

 猫カフェっていう言葉をハルナさんから少しだけ聞いたことがある。たくさんの猫がいるところだって。他の猫たちと上手くやっていけるかは心配だけれど、行くだけ行ってこようと思った。

 ――それが、サンゴの事情ってわけだね。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

伊良湖岬

夕月 檸檬 (ゆづき れもん)
エッセイ・ノンフィクション
初めて愛知県田原市・伊良湖岬を訪れた時の思い出。 あえてデジタル機器を一切触らないと決めて、それによって起こるハプニングを楽しんだ小旅行でした。

恋する余裕

さとこ
恋愛
恋する余裕

断罪のフローレンシア~チート能力をつかって異世界で好き勝手裁判を・・・~

コーン
恋愛
異世界に転生、そして死ぬ直前の没落貴族に取り憑くことで【フローレンシア】になった女。 司法を司る貴族になった彼女を中心に国中が揺れていく。 ざまぁ要素分が多めにあります。 第1章はまとめて投稿します。徐々に投稿をはじめていきます!

Bグループの少年

櫻井春輝
青春
 クラスや校内で目立つグループをA(目立つ)のグループとして、目立たないグループはC(目立たない)とすれば、その中間のグループはB(普通)となる。そんなカテゴリー分けをした少年はAグループの悪友たちにふりまわされた穏やかとは言いにくい中学校生活と違い、高校生活は穏やかに過ごしたいと考え、高校ではB(普通)グループに入り、その中でも特に目立たないよう存在感を薄く生活し、平穏な一年を過ごす。この平穏を逃すものかと誓う少年だが、ある日、特A(特に目立つ)の美少女を助けたことから変化を始める。少年は地味で平穏な生活を守っていけるのか……?

運命の番と別れる方法

ivy
BL
運命の番と一緒に暮らす大学生の三葉。 けれどその相手はだらしなくどうしょうもないクズ男。 浮気され、開き直る相手に三葉は別れを決意するが番ってしまった相手とどうすれば別れられるのか悩む。 そんな時にとんでもない事件が起こり・・。

初恋

琉水 魅希
恋愛
引っ込み思案で言いたい事も中々言えない。 「おはよう」とあいさつするのが精一杯。 あの人は誰に対しても優しく、胸の中のドキドキと不安で胸がはちきれそうな程苦しい。 それが恋と気付いた時、切ない想いが伝えられるか更に不安が募る。 この胸の中の想いは伝えられるのだろうか。 ※女の子の一人称視点です。

婚約解消して次期辺境伯に嫁いでみた

cyaru
恋愛
一目惚れで婚約を申し込まれたキュレット伯爵家のソシャリー。 お相手はボラツク侯爵家の次期当主ケイン。眉目秀麗でこれまで数多くの縁談が女性側から持ち込まれてきたがケインは女性には興味がないようで18歳になっても婚約者は今までいなかった。 婚約をした時は良かったのだが、問題は1か月に起きた。 過去にボラツク侯爵家から放逐された侯爵の妹が亡くなった。放っておけばいいのに侯爵は簡素な葬儀も行ったのだが、亡くなった妹の娘が牧師と共にやってきた。若い頃の妹にそっくりな娘はロザリア。 ボラツク侯爵家はロザリアを引き取り面倒を見ることを決定した。 婚約の時にはなかったがロザリアが独り立ちできる状態までが期間。 明らかにソシャリーが嫁げば、ロザリアがもれなくついてくる。 「マジか…」ソシャリーは心から遠慮したいと願う。 そして婚約者同士の距離を縮め、お互いの考えを語り合う場が月に数回設けられるようになったが、全てにもれなくロザリアがついてくる。 茶会に観劇、誕生日の贈り物もロザリアに買ったものを譲ってあげると謎の善意を押し売り。夜会もケインがエスコートしダンスを踊るのはロザリア。 幾度となく抗議を受け、ケインは考えを改めると誓ってくれたが本当に考えを改めたのか。改めていれば婚約は継続、そうでなければ解消だがソシャリーも年齢的に次を決めておかないと家のお荷物になってしまう。 「こちらは嫁いでくれるならそれに越したことはない」と父が用意をしてくれたのは「自分の責任なので面倒を見ている子の数は35」という次期辺境伯だった?! ★↑例の如く恐ろしく省略してます。 ★9月14日投稿開始、完結は9月16日です。 ★コメントの返信は遅いです。 ★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。 ※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません

この度めでたく番が現れまして離婚しました。

あかね
恋愛
番の習性がある獣人と契約婚をしていた鈴音(すずね)は、ある日離婚を申し渡される。番が現れたから離婚。予定通りである。しかし、そのまま叩き出されるには問題がある。旦那様、ちゃんと払うもん払ってください! そういったら現れたのは旦那様ではなく、離婚弁護士で。よし、搾れるだけ絞ってやる!と闘志に燃える鈴音と猫の話。

処理中です...