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東両国
東両国 ―拾―
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その翌日も、拾吉は新兵衛座にいた。まだ何も思い出さぬらしい。
しかし、居心地はよさそうに見える。このまま思い出せぬとしても、拾吉は案外仕合せなのではないだろうか。
甚吉が葦簀の陰で焼きもちを焼きつつ考えていると、その背後に、いつの間にやら穂武良がいた。
「おぬし、何をしておるのじゃ?」
思わず、ギャッと悲鳴を上げたが、幸いなことに誰にも気づかれなかった。この狐は誰の目にも映らない。甚吉が一人でおかしな動きをしているに過ぎないのだ。
「あ、いや、その、この間穂武良様に助けて頂いたお人が、実は自分の名も思い出せなくなっておりやして。さんざっぱら殴られたせいじゃねぇかと」
疚しさは横へ置き、甚吉は語った。穂武良は上を向いていた白い鼻面を、うなずくようにして一度下げた。
「ほう、そうか。それは難儀な」
穂武良はそう言ったかと思うと、ふと姿を消した。一体何をしに来たのだろうと思ったけれど、もしかすると、この間のことを気にかけていてくれていたのだろうか。
甚吉が再び拾吉を見遣ると、消えたと思っていた狐が拾吉のすぐ後ろに表れていた。
あ、と甚吉は小さく漏らした。
穂武良がフサフサの尻尾を拾吉の足首に当てたのだ。その途端、拾吉はもんどりうって派手に倒れた。穂武良は拾吉の頭の方に回り込み、前足をにゅっと突き出すとその額を踏んだ。
ただ踏んづけたのではない。手を当てたと言った方がいいのかもしれない。
転んで目を回した拾吉に真砂太夫が駆け寄る。真砂太夫には穂武良の姿は見えていない。甚吉も拾吉に駆け寄った。
「ひ、拾吉さんッ」
甚吉が呼びかけると、拾吉はハッと目を覚ました。そして、勢いよく目覚める。
「こ、ここは一体――」
「ここ? ここは西両国広小路さ。もしかして、何か思い出したのかい?」
「思い出す?」
真砂太夫に、拾吉は呆然と顔を向けた。真砂太夫はうなずく。
「あんた、ここ数日、自分のことを全部忘れて過ごしてたんだよ」
「数日ッ」
それを聞くやいなや、拾吉は飛び起きた。そして、一も二もなく駆け出した。そのまま、一度も振り返ることなく去ってしまったのだ。
何やら、とても急いでいた。火急の用があったことを思い出したようだ。
今さら駆けつけて間に合うのかはわからないが――
「おや、本当の名も告げずに行っちまったよ」
呆れた口調で、真砂太夫は言った。けれど、その中に一抹の寂しさも含まれていたように思う。そんな真砂太夫を見ていると、甚吉も何か言わねばという気になってしまった。
「あ、あの、拾吉さんはどこぞの料理人なんじゃありやせんか? 評判の店を探したら、もしかするとまた会えるかも」
「そうだねぇ」
苦笑する顔が、真砂太夫にしては珍しく思えた。
その背中を見送ると、甚吉の隣で穂武良が首を傾げている。
「うん? なんだ、湿っぽい顔をしおって」
拾吉にももとの暮らしがある。思い出したのなら家に帰るし、ここにいる理由もない。
それはそうなのだが、あまりにあっさりと去ったものだから、関わった者たちの心には穴が空いたままだ。
とはいえ、もう考えていても仕方がない。
甚吉はため息をつき、穂武良に言った。
「袖振り合うも他生の縁って言うけど、今回のはなんの縁だったのかなぁ? 呆気ねぇや」
「おぬしの縁はヒトよりも人外に結びついておるのではないか?」
ぐうとも言えない。
けれど、マル公や穂武良との縁もまた、甚吉にとっては大事な縁である。
ハハ、と軽く笑った。
「穂武良様、マル先生に会っていっておくんなせぇ。ちょいと最近色々とあって」
「色々と?」
「へい。鬱憤が溜まってるかと」
身から出た錆と言えなくはないが、銭を失って美味いものは食えず、料理人らしき男からは食材を見る目つきを向けられ、このところのマル公は散々である。
「鬱憤なぁ」
穂武良はほぅ、とひとつ息をついた。
「今日はお染のところに行こうかと思っておったが、まあ明日でもよいか」
縁側で猫のフリをして昼寝しようとしていた狐を捕まえ、マル公は口角泡――の代わりに水飛沫を上げながら愚痴を零した。
「なんでぇなんでぇ、やっと帰ったのかよ。ったく、おめぇら、物騒なモン拾ってくんじゃねぇよ」
「はて、物騒とは? 穏やかな男に見えたがな」
甚吉が穂武良に事情をボソボソと耳打ちする。大きな耳なので耳打ちせずともよかったかもしれないが。
ピコンと立った狐耳で話を聞き終えると、穂武良はクク、と笑った。
クク、と上品に笑っていたのは最初だけで、我慢しきれなくなったのか、そのうちにヒィヒィいって笑ったものだから、マル公もご立腹である。
「笑い事じゃねぇッ、このトンチキがぁッ」
実際に包丁で下ろされ、鍋で煮られたわけではないから、まあ笑い事でいいかと甚吉も穏やかなものであった。
さて、そうして去った拾吉ではあるけれど後日、西両国広小路を訪れたのである。
しかし、居心地はよさそうに見える。このまま思い出せぬとしても、拾吉は案外仕合せなのではないだろうか。
甚吉が葦簀の陰で焼きもちを焼きつつ考えていると、その背後に、いつの間にやら穂武良がいた。
「おぬし、何をしておるのじゃ?」
思わず、ギャッと悲鳴を上げたが、幸いなことに誰にも気づかれなかった。この狐は誰の目にも映らない。甚吉が一人でおかしな動きをしているに過ぎないのだ。
「あ、いや、その、この間穂武良様に助けて頂いたお人が、実は自分の名も思い出せなくなっておりやして。さんざっぱら殴られたせいじゃねぇかと」
疚しさは横へ置き、甚吉は語った。穂武良は上を向いていた白い鼻面を、うなずくようにして一度下げた。
「ほう、そうか。それは難儀な」
穂武良はそう言ったかと思うと、ふと姿を消した。一体何をしに来たのだろうと思ったけれど、もしかすると、この間のことを気にかけていてくれていたのだろうか。
甚吉が再び拾吉を見遣ると、消えたと思っていた狐が拾吉のすぐ後ろに表れていた。
あ、と甚吉は小さく漏らした。
穂武良がフサフサの尻尾を拾吉の足首に当てたのだ。その途端、拾吉はもんどりうって派手に倒れた。穂武良は拾吉の頭の方に回り込み、前足をにゅっと突き出すとその額を踏んだ。
ただ踏んづけたのではない。手を当てたと言った方がいいのかもしれない。
転んで目を回した拾吉に真砂太夫が駆け寄る。真砂太夫には穂武良の姿は見えていない。甚吉も拾吉に駆け寄った。
「ひ、拾吉さんッ」
甚吉が呼びかけると、拾吉はハッと目を覚ました。そして、勢いよく目覚める。
「こ、ここは一体――」
「ここ? ここは西両国広小路さ。もしかして、何か思い出したのかい?」
「思い出す?」
真砂太夫に、拾吉は呆然と顔を向けた。真砂太夫はうなずく。
「あんた、ここ数日、自分のことを全部忘れて過ごしてたんだよ」
「数日ッ」
それを聞くやいなや、拾吉は飛び起きた。そして、一も二もなく駆け出した。そのまま、一度も振り返ることなく去ってしまったのだ。
何やら、とても急いでいた。火急の用があったことを思い出したようだ。
今さら駆けつけて間に合うのかはわからないが――
「おや、本当の名も告げずに行っちまったよ」
呆れた口調で、真砂太夫は言った。けれど、その中に一抹の寂しさも含まれていたように思う。そんな真砂太夫を見ていると、甚吉も何か言わねばという気になってしまった。
「あ、あの、拾吉さんはどこぞの料理人なんじゃありやせんか? 評判の店を探したら、もしかするとまた会えるかも」
「そうだねぇ」
苦笑する顔が、真砂太夫にしては珍しく思えた。
その背中を見送ると、甚吉の隣で穂武良が首を傾げている。
「うん? なんだ、湿っぽい顔をしおって」
拾吉にももとの暮らしがある。思い出したのなら家に帰るし、ここにいる理由もない。
それはそうなのだが、あまりにあっさりと去ったものだから、関わった者たちの心には穴が空いたままだ。
とはいえ、もう考えていても仕方がない。
甚吉はため息をつき、穂武良に言った。
「袖振り合うも他生の縁って言うけど、今回のはなんの縁だったのかなぁ? 呆気ねぇや」
「おぬしの縁はヒトよりも人外に結びついておるのではないか?」
ぐうとも言えない。
けれど、マル公や穂武良との縁もまた、甚吉にとっては大事な縁である。
ハハ、と軽く笑った。
「穂武良様、マル先生に会っていっておくんなせぇ。ちょいと最近色々とあって」
「色々と?」
「へい。鬱憤が溜まってるかと」
身から出た錆と言えなくはないが、銭を失って美味いものは食えず、料理人らしき男からは食材を見る目つきを向けられ、このところのマル公は散々である。
「鬱憤なぁ」
穂武良はほぅ、とひとつ息をついた。
「今日はお染のところに行こうかと思っておったが、まあ明日でもよいか」
縁側で猫のフリをして昼寝しようとしていた狐を捕まえ、マル公は口角泡――の代わりに水飛沫を上げながら愚痴を零した。
「なんでぇなんでぇ、やっと帰ったのかよ。ったく、おめぇら、物騒なモン拾ってくんじゃねぇよ」
「はて、物騒とは? 穏やかな男に見えたがな」
甚吉が穂武良に事情をボソボソと耳打ちする。大きな耳なので耳打ちせずともよかったかもしれないが。
ピコンと立った狐耳で話を聞き終えると、穂武良はクク、と笑った。
クク、と上品に笑っていたのは最初だけで、我慢しきれなくなったのか、そのうちにヒィヒィいって笑ったものだから、マル公もご立腹である。
「笑い事じゃねぇッ、このトンチキがぁッ」
実際に包丁で下ろされ、鍋で煮られたわけではないから、まあ笑い事でいいかと甚吉も穏やかなものであった。
さて、そうして去った拾吉ではあるけれど後日、西両国広小路を訪れたのである。
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