43 / 58
判じ絵
判じ絵 ―捌―
しおりを挟む
「おお、待っておったよ」
「へ、へぇ」
にこやかにそんなことを言われた。
この老爺、特に怪しいところはない。上等の着物を着て、髷も綺麗に結っている。裕福な家の隠居だろう。ただ、その隠居が甚吉に用があるとは思えなかったのだ。
しかし、隠居は嬉々として言った。
「あの本を読んだのだな」
「あの、って、判候――でごぜぇやすか」
マル公がそう言っていた。だから言ってみただけなのだが、隠居はさらに嬉しそうに拳を握った。
「おお、そうだ、それだ。読んでみたのなら、どう感じたのか率直に教えておくれ」
教えて欲しいと言われても困る。甚吉はこんな難しい本など読めない。読んだのはそう、そこで泳いでいる海怪である。
しかし、そんなことは言えない。だから甚吉は嫌な汗を掻きながら言った。
「へ、へい。空とか梅とか若侍の見た景色が綺麗でやした」
マル公が確かそんなことを言っていたはずだ。隠居は納得したようだった。ふむふむ、とうなずく。
「おお、そこに目をつけるとは、なかなかの通人よ。それで?」
それでと来た。マル公は生け簀から円らな眼でじぃっと甚吉たちの方を見ている。
「お、面白かったと思いやす」
そうとしか言えなかった。
すると、その老爺はやっと前のめりになるわけを教えてくれた。
「ふむ、そうかね。それはありがたいことだ。それは私が書いたものでね」
「へ――」
「正月に恵方へ詣でた時にその話が思い浮かび、それで三が日家に籠って書き上げた。それで恵比寿初詣と」
まさかの恵比寿初詣がこんなところにいるとは。しかも、何度も来ている。
あんぐりと口を開けた甚吉に、初詣は童子のように目を輝かせて言った。
「その話の中に判じ絵が出てくるだろう? 姫の居場所を解くための手がかりになるのだが、こう本になって流布してから気になり始めたのだよ。ふと判じ絵が落ちていて、それを解く者がどれくらいいるのだろうかと」
「あ、ああ――」
落ちている判じ絵。ここに落ちていた判じ絵は――
「それで、あちこちに私が描いた判じ絵を撒いてみた。その成果が出たのかどうか、まだ聞き込みはしていないのだが。おぬし、ここにも判じ絵を落としておいたのだが、知らないかね?」
「ま、まんじゅうのっ?」
甚吉は袂から折り畳んだ二枚の判じ絵を取り出す。そう言われてみると、判じ絵の左下に落款がある。その字は『詣』――
「おお、二枚も持っておるのか」
初詣は嬉しそうに、今にも小躍りしそうに見えた。甚吉の方がなんとも言えない。
「まんじゅうは解けたようだな」
そう問われ、甚吉は思わず答えた。
「へい。まんじゅうで。これはどうして巽屋さんのなんですかい?」
初詣は甚吉の手から判じ絵を奪い、それから二枚目を見遣った。
「ここへ来る時に通りかかる饅頭屋が巽屋だからだ。着物の柄にまで気づいたのもえらい。それで、この二枚目は?」
「水からくり――で」
マル公はそんなやり取りをじぃっと見つめている。目が怖い。いや、怖いというよりももどかしいのかもしれない。甚吉よりもマル公の方が初詣と実のある話ができるはずなのだ。
そんなマル公の視線には気づかず、初詣は嬉々として言った。
「おお、正解だ。おぬし、なかなかやりおるな」
やりおるのはマル公であって、甚吉ではない。しかし、そのところは上手く言えない。はあ、と曖昧な声を上げる甚吉に、初詣は大きくうなずいてみせた。
「おぬしのおかげで自信がついた。うむ、人は謎が落ちておれば解かずにはおれないとな。よしよし、これで心置きなく次の作に取りかかれる」
「そ、それはよござんした」
すると、初詣は顎を摩りながら急にマル公を振り返った。マル公は急に振り返られると思っていなかったらしく、少々素の顔であった。慌てて猫かぶり顔に整え直したように思う。
「ヲォ」
獣らしく鳴いて首を傾げる。甚吉にはとぼけているようにしか見えないけれど。
初詣はそんなマル公を眺めつつ、ぽつりと言った。
「あれの目を見ているとな、どういうわけだか落ち着くよ。だから、戯作の続きに詰まるとこうして眺めに来るのだ。あれは人が思う以上に聡い生き物なのだろうな」
「へ、へい」
よくご存じで――とは言いづらいけれど、初詣は戯作者だから、この海怪が実はべらんめえでよく喋り、無類の食いしん坊であると言っても喜びそうではある。
初詣は楽しげに甚吉を見遣った。
「――ところでおぬし、この生き物の名を知っているかね?」
「へ? 海怪の?」
「それは名を知らぬ者がそう呼んでいるに過ぎぬ。源平の時代、奥州藤原氏の献上品の中にはこれの皮があったという。『和名類聚抄』という書物にある『阿佐良之』――それがこの海怪の名だな」
「ア、アザラシ――」
なんとも妙な名に思える。ちらりとマル公を見遣ると、なんだよ、なんか文句あんのかコラという目である。
アザラシ。
ウミノバケモノもどうかと思うので、どっちもどっちかと甚吉は納得した。
「へ、へぇ」
にこやかにそんなことを言われた。
この老爺、特に怪しいところはない。上等の着物を着て、髷も綺麗に結っている。裕福な家の隠居だろう。ただ、その隠居が甚吉に用があるとは思えなかったのだ。
しかし、隠居は嬉々として言った。
「あの本を読んだのだな」
「あの、って、判候――でごぜぇやすか」
マル公がそう言っていた。だから言ってみただけなのだが、隠居はさらに嬉しそうに拳を握った。
「おお、そうだ、それだ。読んでみたのなら、どう感じたのか率直に教えておくれ」
教えて欲しいと言われても困る。甚吉はこんな難しい本など読めない。読んだのはそう、そこで泳いでいる海怪である。
しかし、そんなことは言えない。だから甚吉は嫌な汗を掻きながら言った。
「へ、へい。空とか梅とか若侍の見た景色が綺麗でやした」
マル公が確かそんなことを言っていたはずだ。隠居は納得したようだった。ふむふむ、とうなずく。
「おお、そこに目をつけるとは、なかなかの通人よ。それで?」
それでと来た。マル公は生け簀から円らな眼でじぃっと甚吉たちの方を見ている。
「お、面白かったと思いやす」
そうとしか言えなかった。
すると、その老爺はやっと前のめりになるわけを教えてくれた。
「ふむ、そうかね。それはありがたいことだ。それは私が書いたものでね」
「へ――」
「正月に恵方へ詣でた時にその話が思い浮かび、それで三が日家に籠って書き上げた。それで恵比寿初詣と」
まさかの恵比寿初詣がこんなところにいるとは。しかも、何度も来ている。
あんぐりと口を開けた甚吉に、初詣は童子のように目を輝かせて言った。
「その話の中に判じ絵が出てくるだろう? 姫の居場所を解くための手がかりになるのだが、こう本になって流布してから気になり始めたのだよ。ふと判じ絵が落ちていて、それを解く者がどれくらいいるのだろうかと」
「あ、ああ――」
落ちている判じ絵。ここに落ちていた判じ絵は――
「それで、あちこちに私が描いた判じ絵を撒いてみた。その成果が出たのかどうか、まだ聞き込みはしていないのだが。おぬし、ここにも判じ絵を落としておいたのだが、知らないかね?」
「ま、まんじゅうのっ?」
甚吉は袂から折り畳んだ二枚の判じ絵を取り出す。そう言われてみると、判じ絵の左下に落款がある。その字は『詣』――
「おお、二枚も持っておるのか」
初詣は嬉しそうに、今にも小躍りしそうに見えた。甚吉の方がなんとも言えない。
「まんじゅうは解けたようだな」
そう問われ、甚吉は思わず答えた。
「へい。まんじゅうで。これはどうして巽屋さんのなんですかい?」
初詣は甚吉の手から判じ絵を奪い、それから二枚目を見遣った。
「ここへ来る時に通りかかる饅頭屋が巽屋だからだ。着物の柄にまで気づいたのもえらい。それで、この二枚目は?」
「水からくり――で」
マル公はそんなやり取りをじぃっと見つめている。目が怖い。いや、怖いというよりももどかしいのかもしれない。甚吉よりもマル公の方が初詣と実のある話ができるはずなのだ。
そんなマル公の視線には気づかず、初詣は嬉々として言った。
「おお、正解だ。おぬし、なかなかやりおるな」
やりおるのはマル公であって、甚吉ではない。しかし、そのところは上手く言えない。はあ、と曖昧な声を上げる甚吉に、初詣は大きくうなずいてみせた。
「おぬしのおかげで自信がついた。うむ、人は謎が落ちておれば解かずにはおれないとな。よしよし、これで心置きなく次の作に取りかかれる」
「そ、それはよござんした」
すると、初詣は顎を摩りながら急にマル公を振り返った。マル公は急に振り返られると思っていなかったらしく、少々素の顔であった。慌てて猫かぶり顔に整え直したように思う。
「ヲォ」
獣らしく鳴いて首を傾げる。甚吉にはとぼけているようにしか見えないけれど。
初詣はそんなマル公を眺めつつ、ぽつりと言った。
「あれの目を見ているとな、どういうわけだか落ち着くよ。だから、戯作の続きに詰まるとこうして眺めに来るのだ。あれは人が思う以上に聡い生き物なのだろうな」
「へ、へい」
よくご存じで――とは言いづらいけれど、初詣は戯作者だから、この海怪が実はべらんめえでよく喋り、無類の食いしん坊であると言っても喜びそうではある。
初詣は楽しげに甚吉を見遣った。
「――ところでおぬし、この生き物の名を知っているかね?」
「へ? 海怪の?」
「それは名を知らぬ者がそう呼んでいるに過ぎぬ。源平の時代、奥州藤原氏の献上品の中にはこれの皮があったという。『和名類聚抄』という書物にある『阿佐良之』――それがこの海怪の名だな」
「ア、アザラシ――」
なんとも妙な名に思える。ちらりとマル公を見遣ると、なんだよ、なんか文句あんのかコラという目である。
アザラシ。
ウミノバケモノもどうかと思うので、どっちもどっちかと甚吉は納得した。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる