海怪

五十鈴りく

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稲荷

稲荷 ―玖―

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 滑り込むようにして甚吉はこもの隙間から中に入った。マル公はバシャバシャとヒレで水を掻いて板敷の縁にやってくる。

「さっきから外でやいのやいのうるせぇなと思ってやがったら、なんだこれはッ」

 メラメラと燃える薦掛け。赤い炎に照らされて、マル公は――当たり前ではあるが、いつになく慌てていた。いつものごとく偉そうに知恵を貸してやると言わないところを見ると、それどころではないらしい。

 ピッピピピッと短いヒレで懸命に水を掻いて飛ばすけれど、せいぜい板敷の上にいた甚吉の膝を濡らした程度である。炎までは到底届かない。
 それでも疲れたのか、ぜぇぜぇとマル公の息遣いが荒い。

「てやんで、コン畜生ッ」

 マル公が毒づいてみても、炎の勢いが衰えることはない。

「マ、マル先生、どうしよう――。ど、どこかに逃げねぇとッ」

 そうは言ってみるものの、水がなければマル公は移動することさえ難しい。かといって、ここにいたら生け簀が壊れ、水が抜けて干物になるかもしれない。
 目方のあるマル公を甚吉が抱えて運ぶなどということもできないのだ。

「ど、どこか――」

 そこで甚吉は煙を吸ってげほげほとむせた。煙が蔓延するのはすぐだった。
 どこまで炎が迫っているのか、黒い煙が目の前を染めてしまって見えない。
 そんな時、マル公がぽつりと言ったのだ。

「オイ、甚。オイラのことよりもおめぇはおめぇのことを考えな」

 一人でなら逃げられるだろうと言うのか。
 甚吉はびっくりして大きく目を開いた。そうすると余計に目に煙が染みた。そのせいか、涙がぼろぼろと零れる。
 その間も、近場の火事を知らせる半鐘が忙しなく鳴り響く。

「マル先生、おれ、莫迦ばかだからそういうの考えられねぇよ。どうやったらこの火を消せるかを考えた方が早ぇと思うッ」

 手で生け簀の水をすくい、炎に向けて飛ばした。けれどそんなものはどこへ飛んだのかすらわからない。

 ふと思い起こすのは真砂太夫の見事な水芸だ。閉じた扇の先からも華麗に水を噴く。遠くに飛んでできた水の橋が七色の光をまとう。

 せっかく仲良くなれたのに、もう会えないなんて嫌だな、と今考えるべきではないことが頭を支配する。真砂太夫は父の新兵衛と長屋住まいで、見世物小屋で寝泊まりなどしていないから、この炎に巻かれる心配は要らない。それがせめてもの救いだ。

 その時、煙に巻かれた小屋の中へ勢いよく猫狐が飛び込んできた。白い毛がうっすら汚れている。

「小僧ッ、ワタシの首の紐を解けッ。急ぐのだッ」
「え、え――」

 猫狐の剣幕に慌てる甚吉であったけれど、マル公の声が甚吉を冷静にさせた。

「落ち着け、甚ッ。仕方がねぇ、このコンコンチキの力を借りろッ」

 この猫はただの猫ではない。稲荷神の使いである。
 甚吉は首を突き出す猫の緋縮緬に手を伸ばした。確かにしっかりと縫いつけてある。けれど、後がない甚吉の手にはいつも以上の力が込められ、緋縮緬の縫い目はぶちりと千切れた。

 その忌まわしい紐からするりと首を抜いた白猫は、甚吉を振り返って笑った――気がした。

「よし。待っておれッ」

 そう言いきると、猫の体が柔らかく光る。猫はふわりと浮き上がり、そのまま宙返りした。一転しただけで、猫の体は白い毛はそのままに犬ほどに大きくなった。犬――ではない、狐だ。

 白く立派な尻尾を持つ、神々しい狐である。スッと通った鼻面は、猫の時の比ではない。
 疑っていたわけではないけれど、こうして目の当たりにすると、本当に狐なのだなと思った。

 白狐がひと吠えすると、マル公の生け簀の水が巨大な龍吐水りゅうどすい(噴水ポンプ)で噴いたかのように放出された。

「おおおおッ」

 マル公は段々少なくなっていく水位に焦ったけれど、致し方がない。甚吉が呆然と見守る中、火は勢いを削がれ、煙は風に流され、焼け跡は不思議と薦だけに留まった。板敷にも残っていない。
 それどころか、噴射したはずの水の跡さえなかった。
 この摩訶不思議な現象は、狐の通力であろうか。

 煙が取り払われた時、甚吉の目の前には松皮菱雪の人足袢纏にんそくばんてんを着込んだ粋な町火消まちびけし六十四組『に組』の面々がいたのである。だがしかし――火は見た目以上に勢いがなく、あっさりと飛び火もせずに収まったのだ。
 大団扇おおうちわ鳶口とびぐちといった火消道具を手にした火消たちが滑稽に見える。

 それはもちろん、神使である狐のおかげであるのだが、この場の誰もが白狐を見てはいなかった。甚吉にははっきりと見えるというのに、そこに狐がいる奇異な状況を誰も知らない。
 まさしく、狐につままれたよう――であった。

 白狐はにぃっと笑って、そうして闇に溶けるようにして消えた。マル公はすっかり水の減ってしまった生け簀の中でビチビチと不機嫌に水を掻いている。

 鎮火を告げる半鐘の音がゆるく、二度、夏の晩に響いた。
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