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饅頭
饅頭 ―壱―
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時は天保九年(1838年)。
ここは花のお江戸、両国。
江戸っ子に大人気の相撲巡業が行われるには時季外れの夏。それでも両国橋の際は人に溢れていた。
それというのも、今、この見世物小屋で人気の生き物を見んとする人々が押し寄せるせいである。
人呼んで『海怪』。
ただ、ばけものとは言うけれど、黒い碁石のようなつぶらな眼がなんとも愛くるしい生き物なのだ。それは人懐っこく、手ずから餌を食べたりもするので、見物人たちは大喜び。一躍時の人ならぬ時のばけものとなったのだった。
ごった返す人の中、薦掛けのチャチな見世物小屋の前で口上呼びの声が高らかによく響く。
「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」
連日満員御礼。
大人気の海のばけもの。
坊主並みにツルッツルの頭、猫のような髭、丸々とした胴に櫓べらのような前ヒレ。生け簀の中を泳ぎ回る生き物に、見物人たちは大喜び。見料をじゃらんじゃらんと落としていってくれるという寸法だ。
この寅蔵座という見世物小屋で一番の稼ぎ頭がこの生き物なのである。その生き物の世話を一手に任された小僧がいた。
この生き物が、その小僧がそばにいないと餌を食おうとしない。この世話役の小僧と海のばけものは、まるで言葉が通じ合っているのではないかというほどの不思議な絆で結ばれている。
――とまあ、傍目にはそう見えるのだが。
実際のところ、海のばけものの世話役小僧、こと十四歳の甚吉には特別な力があった。
生け簀の掃除をするため、甚吉が大盥を抱えて生け簀に行くと、その中をばっしゃんばっしゃん音を立てて泳いでいた海のばけものが甚吉に気づく。生け簀の縁まで泳いでくると、そこにてん、とヒレを突いて言った。
「オイ、甚。なんかうめぇもんねぇのかよ?」
甚吉は自分の顔が引きつるのを感じた。
この生き物を甚吉は『マル公』と名づけてそれはそれは可愛がっていた。けれどある時、甚吉は盗人の濡れ衣を着せられ、この一座を放逐されそうになった。その窮地を救ってくれたのが、他でもないこのマル公である。
ただしそれは、とある鶴が自分の羽根を犠牲に美しい織物を織ったり、助けた亀が竜宮城に連れていってくれたりする、言わば世話になった恩返しなどではなかった。
マル公は、天麩羅が食いたかったのだ。そのために甚吉を救ってくれた。見返りに天麩羅を食って、それで満足してくれたところまではいいのだが――
なんせ、食い意地が張っている。毎日の餌はちゃんと与えているから、足りないわけではない。ただ、マル公は食ったことのない食べ物に対する好奇心が異常に強いのだ。
そうして、事あるごとに甚吉にこんなことばかり言うのだ。
甚吉には、どうやら人外の声が聞こえるという特技が備わっているらしい。マル公の声は甚吉以外の誰にも聞けないもののようだ。
けれど、聞けない方がいい。こんなにもつぶらな眼をして、愛くるしく首を傾げ、それでいてマル公は――とんでもなく口が悪いのだ。
「なんだ、シケたツラしやがってよぅ。そういうツラでいるから、てめぇの懐にゃとんと銭が入ってこねぇんじゃねぇのかぁ?」
ヘヘン、と鼻で笑われた。いや、こんなことで怒ってはいけない。これはマル公の挨拶にすぎないのだ。
「マル先生」
マル公は、気安く呼ぶと機嫌を損ねる。よって、敬意を払い、甚吉は先生と呼ぶのであった。
マル公は不機嫌そうに甚吉を見遣る。
「なんだぁ?」
「おれが牡丹餅は喉が詰まるから駄目だって言ったのを根に持ってるのか?」
盥を生け簀の前に置き、甚吉はそこに生け簀の水をせっせと移す。その作業をする甚吉に、マル公は尾ビレで水をかけた。甚吉の袖が少し濡れる。
「カーッ、利口なオイラが喉なんか詰めるワケねぇだろうがよぅ」
利口だから喉を詰めないと言いきれるものなのか。
あの天麩羅の食いっぷりを見た限りでは、多分詰める。
甚吉はただ不安である。もし喉を詰めたら人間の医者にはきっとお手上げだ。
「いや、でも、もし――」
「もしもへったくれもあるかってぇの。オイラは甘いモンを食ったことがねぇんだ。牡丹餅が駄目ならせめてあんこ食わせろやいッ」
まるで駄々っ子のように、水飛沫を上げながら前ビレと尾ビレをばたつかせる。
天麩羅を食って腹を下したくせに、なんにも凝りていない。マル公の食に対する好奇心は恐れを知らないらしい。
「わ、わかったよ。でも、おれだって銭をたくさん持ってるわけじゃねぇから、そんなにいいもんは買えねぇぞ」
「んなこたぁわかってるってぇの。ったくよぅ、オイラのおかげで稼いでるくせによぅ。オイラにもっといいもん食わせろっての」
そのマル公の言ういいもんを普通の人が察してあげられるわけがない。だからマル公はなんでも言いたい放題にできる甚吉が便利ではあるのだろう。
とりあえず、甚吉は生け簀の掃除を丹念にした。綺麗好きなマル公は、汚れていると小姑のごとく怒るのだ。
こうしているとわがまま放題の獣であるのだが、それでもどこか憎めない。
なんとなく眺めていると、マル公は甚吉に向けて愛くるしく小首をかしげてみせた。しかし、何を考えているのかというと――何見てんだよ、コン畜生――というところである。
あの可愛い姿に、結局は騙されている気がしないでもない。
甚吉は苦笑しながらマル公の餌となる魚を受け取るために小屋の外へ出た。
本日も晴天。
客入りはよさそうだ。
ここは花のお江戸、両国。
江戸っ子に大人気の相撲巡業が行われるには時季外れの夏。それでも両国橋の際は人に溢れていた。
それというのも、今、この見世物小屋で人気の生き物を見んとする人々が押し寄せるせいである。
人呼んで『海怪』。
ただ、ばけものとは言うけれど、黒い碁石のようなつぶらな眼がなんとも愛くるしい生き物なのだ。それは人懐っこく、手ずから餌を食べたりもするので、見物人たちは大喜び。一躍時の人ならぬ時のばけものとなったのだった。
ごった返す人の中、薦掛けのチャチな見世物小屋の前で口上呼びの声が高らかによく響く。
「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」
連日満員御礼。
大人気の海のばけもの。
坊主並みにツルッツルの頭、猫のような髭、丸々とした胴に櫓べらのような前ヒレ。生け簀の中を泳ぎ回る生き物に、見物人たちは大喜び。見料をじゃらんじゃらんと落としていってくれるという寸法だ。
この寅蔵座という見世物小屋で一番の稼ぎ頭がこの生き物なのである。その生き物の世話を一手に任された小僧がいた。
この生き物が、その小僧がそばにいないと餌を食おうとしない。この世話役の小僧と海のばけものは、まるで言葉が通じ合っているのではないかというほどの不思議な絆で結ばれている。
――とまあ、傍目にはそう見えるのだが。
実際のところ、海のばけものの世話役小僧、こと十四歳の甚吉には特別な力があった。
生け簀の掃除をするため、甚吉が大盥を抱えて生け簀に行くと、その中をばっしゃんばっしゃん音を立てて泳いでいた海のばけものが甚吉に気づく。生け簀の縁まで泳いでくると、そこにてん、とヒレを突いて言った。
「オイ、甚。なんかうめぇもんねぇのかよ?」
甚吉は自分の顔が引きつるのを感じた。
この生き物を甚吉は『マル公』と名づけてそれはそれは可愛がっていた。けれどある時、甚吉は盗人の濡れ衣を着せられ、この一座を放逐されそうになった。その窮地を救ってくれたのが、他でもないこのマル公である。
ただしそれは、とある鶴が自分の羽根を犠牲に美しい織物を織ったり、助けた亀が竜宮城に連れていってくれたりする、言わば世話になった恩返しなどではなかった。
マル公は、天麩羅が食いたかったのだ。そのために甚吉を救ってくれた。見返りに天麩羅を食って、それで満足してくれたところまではいいのだが――
なんせ、食い意地が張っている。毎日の餌はちゃんと与えているから、足りないわけではない。ただ、マル公は食ったことのない食べ物に対する好奇心が異常に強いのだ。
そうして、事あるごとに甚吉にこんなことばかり言うのだ。
甚吉には、どうやら人外の声が聞こえるという特技が備わっているらしい。マル公の声は甚吉以外の誰にも聞けないもののようだ。
けれど、聞けない方がいい。こんなにもつぶらな眼をして、愛くるしく首を傾げ、それでいてマル公は――とんでもなく口が悪いのだ。
「なんだ、シケたツラしやがってよぅ。そういうツラでいるから、てめぇの懐にゃとんと銭が入ってこねぇんじゃねぇのかぁ?」
ヘヘン、と鼻で笑われた。いや、こんなことで怒ってはいけない。これはマル公の挨拶にすぎないのだ。
「マル先生」
マル公は、気安く呼ぶと機嫌を損ねる。よって、敬意を払い、甚吉は先生と呼ぶのであった。
マル公は不機嫌そうに甚吉を見遣る。
「なんだぁ?」
「おれが牡丹餅は喉が詰まるから駄目だって言ったのを根に持ってるのか?」
盥を生け簀の前に置き、甚吉はそこに生け簀の水をせっせと移す。その作業をする甚吉に、マル公は尾ビレで水をかけた。甚吉の袖が少し濡れる。
「カーッ、利口なオイラが喉なんか詰めるワケねぇだろうがよぅ」
利口だから喉を詰めないと言いきれるものなのか。
あの天麩羅の食いっぷりを見た限りでは、多分詰める。
甚吉はただ不安である。もし喉を詰めたら人間の医者にはきっとお手上げだ。
「いや、でも、もし――」
「もしもへったくれもあるかってぇの。オイラは甘いモンを食ったことがねぇんだ。牡丹餅が駄目ならせめてあんこ食わせろやいッ」
まるで駄々っ子のように、水飛沫を上げながら前ビレと尾ビレをばたつかせる。
天麩羅を食って腹を下したくせに、なんにも凝りていない。マル公の食に対する好奇心は恐れを知らないらしい。
「わ、わかったよ。でも、おれだって銭をたくさん持ってるわけじゃねぇから、そんなにいいもんは買えねぇぞ」
「んなこたぁわかってるってぇの。ったくよぅ、オイラのおかげで稼いでるくせによぅ。オイラにもっといいもん食わせろっての」
そのマル公の言ういいもんを普通の人が察してあげられるわけがない。だからマル公はなんでも言いたい放題にできる甚吉が便利ではあるのだろう。
とりあえず、甚吉は生け簀の掃除を丹念にした。綺麗好きなマル公は、汚れていると小姑のごとく怒るのだ。
こうしているとわがまま放題の獣であるのだが、それでもどこか憎めない。
なんとなく眺めていると、マル公は甚吉に向けて愛くるしく小首をかしげてみせた。しかし、何を考えているのかというと――何見てんだよ、コン畜生――というところである。
あの可愛い姿に、結局は騙されている気がしないでもない。
甚吉は苦笑しながらマル公の餌となる魚を受け取るために小屋の外へ出た。
本日も晴天。
客入りはよさそうだ。
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