蛙の神様

五十鈴りく

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◇6

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 さすがの俺も二日連続でうたた寝なんかしない。部活で何本も走り込んで疲れもしたけれど、バスに乗ってもシャキッとしていた。何かこの日は朝からいつもと違った。

 珍事が珍事を呼ぶのか。
 でも、今日が俺にとって本当に特別な日になることを、この時の俺が知っていたわけじゃない。それを知るのは、あと数時間後――

「いつもありがとう!」

 なるべく元気に挨拶をしてバスを降りる。運転手のおっちゃんももう顔見知りだから、バス停で手を振る俺に親指を立ててポーズを決めてからハンドルを握り直した。いつも安心してバスで寝ていられるのは、安全運転を心がけてくれる運転手のおっちゃんたちのおかげだ。

 ――さて。
 俺は家に向かう前に土手を歩き、橋のそばにある石段を下りた。今日は晴れだったから乾いていて丁度いい。
 水嵩はここ連日が雨だから少し多いかな。夏場だと水が減って、岩を飛び石みたいに飛んだら向こう岸に行けそうなくらいなんだけれど。

 最近、こうして川のそばに来ることはあんまりなかった。まあ、川に行くとじいちゃんがあんまりいい顔をしないからな。川は神様のいる場所だから用もなく近寄るもんじゃないとかなんとか言われるんだ。

 ん? 神様?
 いや、川の神様は竜とかじゃないのか? 蛙……は違うよな?

 俺は川を流れる水音をBGMに砂利の上を歩く。スニーカーを履いていても足裏マッサージされているみたいなデコボコさだ。カバン、家に置いてから来ればよかった。

 歩きづらい場所に夕暮れ時。たまたま思い出したからって今日来なくてもよかったかな。
 そんな気になりつつ、俺は幼い頃の記憶を頼りに橋の真下へ向かった。
 そう、確かこの辺りだった。橋の真下で、どんなに日が照っていても光が入らない場所。
 そんな奥底にあの石像はあったんだ。

 薄暗くてよく見えない。俺はポケットからスマホを取り出し、近場を照らしてみた。ブルーライトの淡い光が、それでも頼もしく思えた。
 あの石像が今もあったからって、別にどうってこともない。ただの興味本位で来ただけだ。

 でも、そのスマホのライトが照らした先に石像があった瞬間、俺は無性に嬉しくなった。なんでだろう? 懐かしいのかな。
 マスコットみたいに可愛い顔はしていない。結構リアルなガマガエルの顔をしている。目は閉じられていて、寝ているみたいに見えた。口もしっかり閉まっていて、ゲコ、とも鳴きそうにない。

 少しまだらの模様がある鼠色の石だ。なんて石だか知らないけれど、彫刻した人はいい腕だと思う。触ったらヌルヌルしそうな質感に見える。そして、やっぱり三本足だ。
 あの時の石像と同じものだと考えて間違いないだろう。七年経っても変わらない。

 変わったのは、俺とアキの関係かな……
 なんて考えながら、俺は蛙の石像の前にしゃがんで、なんとなくポン、と石像の頭に手を置いた。別に、深い意味なんてない。人間、興味のあるものに触ろうとするのは自然なことだ。

 でも、その瞬間に俺の意識は消し飛んだ。
 本当に消し飛んだんだ。この時のことはなんにも思い出せない。気がついたのはそれからしばらくして。
 俺は砂利の上で伸びていた。ひっくり返って寝ていた。

「……なんで?」

 起き上がって思わず言った。でも、返事なんかあるわけがない。あるのは川のせせらぎだけだ。
 それにしても暗い。完全に日が落ちた。最悪だ。また乗り過ごしたと思われて兄貴が迎えに行ってくれたりしているのかな?

 慌ててスマホを見たけれど、着信はない。ギリギリセーフ?
 今の時間は――十九時二十一分。
 四十分くらい空白がある。四十分も俺はここで伸びていた?
 何か、得体の知れないものに対する畏怖というか、肌寒さを感じた。

 蛙の神様?
 川の神様?

 よくわからないけれど、俺が不躾だから怒ったのかな。ごめんなさい、もうしません。ってか、もう来ません。だから許してください。

 俺はカバンを抱えると一目散に逃げた。砂利が痛いとか、この時は全然思わなかった。
 一気に階段を駆け上がると、もうすっかり暗い。土手の両脇に点々とある街灯が灯っていて、おかげで真っ暗にはならない。

 川辺から上がったことで俺は幾分ほっとしていた。さあ帰ろう、と川に背を向けかけた時、向こう岸に気になる影を発見した。

 暗がりを歩くほっそりした影はアキじゃないだろうか。暗いのに、ちゃんと見えるわけじゃないのに、アキだと思えた。街灯の灯りのところまで歩いてきてくれたら、もっとはっきり見える。

 俺は橋のそばでぼんやりとその影を見ていた。こんな暗くなってから帰宅なんて、部活をしているのかどうか知らないけれど、大変だな。それとも、友達の家に遊びに行っていて帰りが遅くなったとか?
 なんでもいいけどさ、こんな暗くなってから女の子の一人歩きは危ない。

 そんなことを考えながら見ていると、影は街灯の下を通りかかった。……やっぱり、アキだ。朝、見かけるよりも気弱に見えるのは、やっぱり暗いところが怖いからかな。

 その時、アキはハッとして後ろを振り返った。急なその動きに俺もただならないものを感じた。俺のいる場所は川の向こう岸。遠くてアキが聞き取った音までは聞こえない。

 歩くアキのそばに真っ黒な車体が停まった。道のど真ん中で横づけ――アキの行く手を阻むみたいにして。アキも驚いて立ち尽くしている。その運転席から出てきたずんぐりとした男がアキに迫る。

 ――嘘だろ?
 なんだこれ、変質者?
 連れ去り?

 思考がそこに行き着いた時、俺は頭から氷水をかけられたみたいにゾッとした。カバンを放り出して、他のことは何ひとつ考えないで鉄筋の橋を渡った。この時の俺のタイムは、今まで部活で刻んだどのタイムよりも最速だったと後で思う。

 車はすぐに発進しなかった。アキが精一杯抵抗していたからだと思う。でも、悲鳴は全然聞こえなかった。代わりに聞こえたのは、男のくぐもった声だった。

「殴られたくなければ暴れるな」

 うわ、これヤバいヤツだ!
 それでも、この時は危ないとかそういうことよりも血が湧くような感覚だった。
 助けなきゃ。それだけしか考えられなかった。

「何してんだよ!」

 全力疾走したってのに、まだこんな大声が出せた。人間、土壇場で発揮する力はすごい。

 男は黒尽くめ、マスクにサングラスだった。いかにもな格好だ。でも、実は気が小さいのかもしれない。俺の声に驚いて、すぐにアキの手を離した。
 そう思ったら、今度は急にアキを突き飛ばした。川の方に向けて――

「危な――」

 柵もない土手なんだ。突き飛ばしたりして、少し後ろに転がったら落ちる。
 傾いたアキの手首を俺はとっさに駆け寄ってつかんだ。本当に、今日の俺の素早さは誰にも真似できないんじゃないだろうか。
 手首を強く引くと、アキの華奢な体は勢いよく俺の肩にぶつかった。ちょ、ちょっと痛かったかな?

 そんなことをしているうちに男は車に乗り込んで逃走した。
 ナンバー! ……までは暗くて見えない。

 それにしても、手に入らないと思った途端に土手から落ちるように突き飛ばすとか、あり得ない。人間も物と一緒にしか考えられないようなヤツだ。

 フツフツと怒りが湧いてくる。あの車、ナンバーが見えるところまで走って追いかけてやろうか。今の俺ならできる気がする。
 そう思った時、アキがその場にへたり込んだから、俺も怒りが吹き飛んでうろたえるしかなかった。アキはもしかして、怖くて声も出なかったのかな。あいつが逃げてほっとして気が抜けたのかも。

「アキ? だ、大丈夫か?」

 俺もしゃがみ込んでそっと声をかけたけれど、そこで気づいた。『アキ』なんて馴れ馴れしく呼んじゃいけなかったんじゃないかって。

「あ、いや、道添サン……」

 なんとか言い直すと、アキはやっと顔を上げた。街灯の下だから見える。アキは泣いていた。……そりゃあそうだよな、怖かったよな。

 ズキ、と心が痛んだ。何かしてあげたいけれど、アキにとって俺は味方にはなれないのかもしれない。残念だけど、俺が棚田村で生まれ育ったのは事実だし、それを嫌がられるならどうしようもない。

 ボロボロと涙を流すアキは、くしゃりと顔を歪めた。

「カケルちゃん……」
「え?」

 今、なんて言った?
 俺は思わず耳を疑った。でも、アキは涙を手の甲で拭い、しゃくり上げながら言った。

「カケルちゃん、どうして助けてくれたの?」
「どうしてって……通りかかったし……」

 どうしても何も、あんな場面に遭遇して放置するほど鬼畜じゃないつもりなんだけれど。アキにとっての俺はそんなイメージなのか?

 それとも、村同士の仲が悪いからってことなのか。
 でも、アキが言いたいことは少し違った。しゃくり上げ、震えながらもなんとかして口を開く。

「わたし、カケルちゃんに……ひどいことした。助けてもらう資格なんて……ないのに」
「は?」

 心臓が落ち着かない。アキが泣くからだ。
 白い目元を赤くして泣くから――

「あの時……カケルちゃんのこと庇えなかった。わたしはカケルちゃんに嫌われても仕方ないことをしたのに、なんで……」

 なんで助けてくれたのかって?
 ――どうしよう。どう答えたらいいんだろう。

 こんなふうに泣いているアキになんて言えばいいんだろう。
 授業で歴史だの数学だの教えてくれても、学校ではこういう時にどうしたらいいのか全然教えてくれてない。

 だから俺は俺なりの答えしか返せない。間が空けば空くほどにアキが苦しそうにするから、俺は正直な気持ちを口にする。

「嫌いとか、そういうのはちょっと違う。急に素っ気なくなって、よくわかんなくて悲しかったけど、嫌いとかじゃない」

 悲しかった。もっと一緒に遊びたかったし、笑っていてほしかった。
 それが本心だから。
 こんなことを伝える日が来るとは思わなかったけれど。
 アキはほっとするどころかさらに泣いた。

「あ、や、ごめんって……」

 とりあえず謝った俺に、アキは大きく首を横に振った。

「カケルちゃんは悪くない」

 そう言って、ヒクヒクと泣いている。――時間も時間だし、棚田村の俺と一緒にいるのを疋田村の人に見られるとあんまりアキのためにならないのかもしれない。
 家まで送ってあげたいけれど、俺がついていったら余計にややこしくなる。だからここから見送るしかない。

「とりあえず、今日はもう暗いし帰った方がいいよな。大丈夫か?」

 そう言いながらも、ここで別れたらまた口も利けない毎日に戻るのかな、なんて不安もよぎった。
 それでも、アキなりに俺のことを気にしてくれていたんだって、そのことがわかっただけでも少しだけ救われた。
 嫌われたんじゃないみたいで、それだけで嬉しい。

 そこでアキは顔を上げると、やっと涙の止った目をじっと俺に向けていた。……大きい目だな。睫毛も長いし……なんてちょっとドキドキする。
 やっぱり、アキは可愛い。可愛いから狙われたんだと思うと、それも複雑だけれど。

「あの、カケルちゃん……」
「うん」
「あ、あのね……」
「うん?」
「アドレス交換してくれる?」
「へ?」

 アドレス? メールの?
 俺がきょとんとしたせいで、アキは顔を真っ赤にした。

「や、やっぱりなんでもない! 忘れて今の!」
「え? なんで?」

 どうした? ってくらい、アキは慌てている。対岸から眺めている時のアキは、いかにもクールビューティーな美少女で、こんなに慌てふためく姿は想像できなかった。
 でも、思えば小さい頃はこうだった。水の中にゴキブリがいるとか言って騒いでいたな。

 ……可愛い。
 頬を手で包み込んでうつむいたアキ。俺はポケットから取り出したスマホのロックを外した。

「これ、俺のアドレスと番号」
「ちょ、ちょっと待ってね」

 アキは放り出したカバンを探して取りに走った。そういえば俺のカバンも取りに戻らないと……

 カバンから取り出したスマホは、ピンクの手帳型カバー。蝶とか花の形の柄が入っていて、いかにも女の子らしい。

「えっと……」

 お互いにデータをやり取りし、連絡先交換完了。
 ……アキの番号を手に入れた?

 これ、夢かな。もしかして、本当の俺はまだ蛙の神様の前で伸びている?
 こんな都合のいいことってあるのかな。そんなふうに思いながらも、急に自分の指紋でベタベタのスマホが神々しく、神様の加護を受けたアイテムのように感じられた。

 もしスマホが壊れても大丈夫なように、絶対にデータのバックアップ取ろう。ああ、そうだ、それから紙にもメモして引き出しにしまっておこう!
 内心舞い上がっている俺にアキは多分気づいていない。スマホをカバンにしまうカチリという音がした。

「……えっと、今日はありがとう。こうしてカケルちゃんと話せて嬉しいなんて、本当はそんな都合のいいこと言っちゃ駄目なんだろうけど……でも、嬉しい」

 嬉しいって、アキがそう思ってくれていることが俺にとっても嬉しかった。七年間の苦しみが一瞬でどこかに飛んだ。俺は多分単純なんだと思う。

「俺もアキと話せてよかった」

 溢れる気持ちをなんとかそのひと言に詰めた。アキは――笑った。
 ずっと、ずぅっと見たかったアキの笑顔だ。
 何かもう、嬉しいを通り越して泣きたい気分だった。

「カケルちゃんは全然変わらないね。あの頃のまま。優しいままだね」

 アキはそう言ってから照れ臭くなったのか、逃げるようにして俺に背中を向けた。そうして少し走ったかと思うと、暗がりから手を振った。

 俺もじんわりと痺れるみたいな夢見心地で手を振り返した。しばらくはぼうっとアキの背中を見送っていたけれど、いい加減現実に引き戻された。

 そういえば、今何時だ?
 ハッとして時計を見ると、時間は二十時時十一分。

 ――晩飯抜きかも。
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