ミヤコワスレを君に

五十鈴りく

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*3*都忘れ

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 土砂降りの金曜日の夜。
 尻を濡らして帰った僕は、母さんから叱られた。
 尻が濡れたことをじゃなくて、いきなり外へ出たまましばらく戻らなかったことをだ。すぐに戻るつもりだったから何も言わなかったけれど、心配させたのは悪かったから素直に謝った。

 僕が戻ったすぐ後に父さんも帰ってきて、母さんはさっそく父さんに告げ口した。
 父さんは食卓であたため直した唐揚げとビールを前に、眼鏡の下の目を幸せそうにゆるめていた。

「基輝、なんでこんな時間に外に出たりしたんだ?」

 父さんは頭ごなしには怒らない。いつも話をちゃんと聞いてくれる。それが職業柄なのか性格なのかはわからないけれど、そういう父さんで感謝している。
 僕はうなずいてから口を開いた。

「外にクラスの子がいたんだ。ひどい雨が降ってきたのに傘を持ってないみたいだったから、貸そうと思って。それで……やっぱり夜道は危ないから送ってきた」

 すると、父さんはああ、とつぶやいた。

「そうか。女の子か」
「うん……」
「どこの子?」

 って、母さんまで口を挟む。こんな田舎なら、どこの子か言えば大抵はわかる。知り合いだらけだから。
 ただ、引っ越して来たばかりの白澤を、母さんが知っているわけがないんだ。

「転校生。東京から来たんだって」

 母さんは大きく開けた口に手を当てた。

「あらら、じゃあ道がわからなくなっちゃったのかしら」

 そういうんじゃないけど、全部説明するのも面倒だから否定しなかった。というより、僕が白澤の考えをうまく言えない。

「女の子をちゃんと送ってあげたのは偉かった。でもな、行くならひと声かけなさい。父さんから言いたいことはそれだけだ」
「わかった。ごめんなさい」

 父さんはそれ以上うるさく言わなかった。でも、ビールを片手で揺らしながらなんとなくつぶやく。

「東京からか。それは東京と地方との違いに戸惑うことも多いだろうなぁ」

 うん。実際に、女子バスがないって嘆いていた。
 ここへ来るまでその事実を白澤は知らなくて、転校した途端に女子バスがないって事実を突きつけられたんだとしたら――そのショックは本当に大きかったんだろう。

「都会は華やかだから、若い女の子は特にこの田舎町では物足りなく思うかもしれない」

 父さんはそんなことまで言った。

「そうかな? 都会には都会の、田舎には田舎の良さってあると思うけど」

 女子バスはないかもしれないけれど、だからってこの町を全部否定されるのは納得がいかない。
 僕は生まれてこの方、地元を離れたことがないから、他の場所とは比べようがない。でも、都会と比べてここがつまらないなんて言われたくなかった。
 そんな僕の気持ちを、多分父さんは読み取ったんだと思う。不意に流れるような声でささやいた。

「――いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し」

 その和歌の意味を僕は知らない。きょとんとした僕に、父さんは教室の生徒に言って聞かせるように語った。

「鎌倉時代、第八十四代天皇の順徳じゅんとく天皇が承久じょうきゅうの乱の後、流された佐渡さどの地でそう詠んだんだ。自身の父親、後鳥羽ごとば天皇が好きだった白菊に似た白い花を御所の周りに植えて『都忘れ』と名づけた」
「ミヤコワスレ……?」
「そうだよ。順徳天皇は都へ帰りたかったんだ。都への執着心の表れだね」

 順徳天皇は華やかな都が忘れられなかった。それは、東京へ思いを馳せる白澤と同じだって言いたいんだろうか。
 その白い花が都を忘れさせて順徳天皇を救ったってこと?
 順徳天皇がどうなったかなんて、授業で習ったのかどうかも思い出せないけれど。
 父さんの言葉はそんな僕の予想を打ち消した。

「でも、順徳天皇は都へ戻れないことを悟り、断食の果てに自ら命を絶った。魂になっても都に戻りたかったのかもしれないね」
「そんな……」

 都に帰れないから死んだ。それは家族に会えないから?
 美味しいもの、綺麗なもの、好きなもののすべてが都にしかないと思った?
 それほどの絶望は、僕には理解できなかった。
 父さんは箸を手に穏やかに微笑む。

「華やかなもの、便利なもの、楽しいもの――知らなければ不満もない。でも、一度知ってしまったら、それを取り上げられた人はもう一度と願ってしまう。そうした気持ちを切り離すのは大変なことだと思うよ」

 白澤も、順徳天皇と同じだって言うのかな。
 都恋しさに田舎で絶望しか感じていないって。
 だからあんな風に一人で海を眺めたり、雨に打たれてみたりするのかな。
 父さんは考え込んだ僕に小さくうなずいてみせた。

「心にぽっかりと穴が開いた時、それを埋める何かが人には必要なんだ。基輝にもそれはわかるだろう? その子のこと、少し気にしてあげなさい」

 心にぽっかりと空いた穴。
 穴が大きいほどに人は潰れてしまう。

 僕は父さんに向け、わかったと答えた。母さんはそんな僕たちの会話を黙って聞いていた。

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