クロワッサン物語

コダーマ

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【終章】太陽の手

太陽の手(5)

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「フランツ?」

「シュターレンベルクでしょ。リヒャルト君にマリアさん、グイード様。それからあの癪にさわる赤い上着の……」

「バーデン伯か?」

「そう! そいつにだって食べさせてやろうと思ってパンを焼いてたんだから。それから市の人たちみんなにも」

 言葉を挟む余地はない。
 早口でフランツはまくしたてた。

「ありったけの小麦粉を使って焼くよ! それがパン屋の誇りなんだから。だから、シュターレンベルクも手伝えッ! 死ぬとか絶対に許さないんだから」

 手をとられ、部屋の外へ連れ出される。
 向かう先は知れている。
 厨房に違いない。

「おい、ちょっと待て」

 総司令官にパン作りの手伝いをしろと?
 殺せと言っておいて何だが、そんなことをしている暇はないのだ。
 リヒャルトかマリア・カタリーナでも呼んで手伝わせればいい。
 走りながらそう言うも、パン屋は人の話なんて聞いちゃいない。

「僕はね、立派なパン屋になりたいんだ。貴族の御用達とかじゃなくて。きちんと汗かいて働いてる人が喜ぶパンを作るんだッ!」

「お前は本当にパンが好きだな」

 呆れと諦めの思いを込めてそう言うと、ウフフと気味の悪い笑顔を返す。

「もちろんッ! パンは僕の魂だよ」

「……はぁ」

 敵わない。
 パン屋に引きずられていると、予想通りというか厨房へ辿り着く。
 フランツのあたたかな手を、どうしても振りほどくことができなかったのだ。

 少し休むよう皇帝直々に言われたのだ。
 少しの間くらい総司令官の姿が消えたとしても困ることはあるまい。
 まさかパン作りの手伝いをさせられるとは誰も思うまいが。

 粉をふるいにかけながら、フランツの鼻歌が始まる。
 音の外れた──グイードに比べればかわいいものだが──歌を口ずさみながら、パン屋は笑顔だ。

「ウィーンが平和になったから、もうすぐ町のパン職人も帰ってくるね。そしたらクロワッサンの作り方も教えてあげるんだ」

「お前の専売特許ってやつじゃないのか」

「何言ってるの! 技術の独り占めは人類に対しての罪だよ。広めなきゃ! いろんな街に行ってみんなに教えてあげるんだ」

「色んな街ねぇ」

「だって僕は最高級の製パン技術を世に広める為に旅する、さすらいのパンの伝道師! パン・コンパニオン!」

 歌にのせて、芝居がかった調子で言うものだから思わず笑ってしまう。

「なに? 僕がよその街に行っちゃったら寂しいって?」

「ああ、さみしいさみしい」

 何だよ、その言い方!
 怒ったように言いつつ、手元はしっかり生地を捏ねている。

 手伝えと言ったわりに、すべての作業をフランツは一人でこなしていた。
 シュターレンベルクは窯の側の椅子に座っているだけだ。
 ぺたっぺたっ──生地に手の平をぶつけながら、フランツの歌は尚も続く。

「そんなシュターレンベルクにいいこと教えてあげよう」

「何だ」

 そんなシュターレンベルクという所に少々引っかかるものを感じるが。

「仕事がいっぱい山になっていてもだよ。ごはんはゆっくり食べなよ。そこにいる人の顔を見ながらね。大切なことが見えるはずだから」

「あ、ああ……」

 恥ずかしげもなくよくもそんなことが言えたものだ。
 こっちが照れるわと視線を逸らせたシュターレンベルクは、厨房入口に灰色のドレスを着た娘が突っ立っているのに気付いた。

「マ、マリア・カタリーナか……」

「お、お父さまがいるんなら、こんな所に来やしなかったわ」

 その後ろからひょいと顔を覗かせたのはリヒャルトだ。

「美味しそうな匂いがすると言ってこんな所まできて。はしたないですよ、マリア・カタリーナ。あ、これは父上ではありませんか」

「放しなさいよ。あたしは戻るから」

「何を言うのです」

 リヒャルトが妹の肩を押す形で、二人は中へ入ってくる。
 澱みない会話に聞こえるが、二人の声は上ずっており口調からぎこちなさを感じるのは事実だ。
 軽口を叩いているようで、兄は妹を腫れ物に触るように扱っており、妹は妹で自身の感情を必死で胸の奥底に押し込めようとしているよう。

 しばしの沈黙。
 フランツが生地を叩く音だけが聞こえる。
 だから、そこにグイードが下手くそな鼻歌を歌いながらやってきたのは救いとなった。
 空気を読まない男は開口一番「何て良い匂いなんだ」と叫び、パン屋を喜ばせる。

「兄上、目覚めましたぞ。意識さえ戻ればもう命の心配はありますまい。回復に向かうでしょう」

 そうか、と息を吐くシュターレンベルク。
 若者三人は訳が分からないという表情で顔を見合わせている。

「マリア・カタリーナ」

 父の言葉に、娘は顔を俯けた。
 全身が強張っているのが分かる。

「マリア・カタリーナ、アウフミラーの元へ行ってやれ」

「えっ?」

 反射的な動きだったに違いない。
 マリア・カタリーナは呆けた顔をあげた。

「アウフ……?」

「お前の力で刺された程度で、大の男が死ぬわけないだろうが」

「………………」

 彼女に刺されたアウフミラーは、グイードによってすぐに王宮に運ばれ処置を受けた。
 刃物が内臓を傷つけており、意識不明という危険な状態が何日も続いたのは事実だ。
 意識を取り戻すことができるか推移を見守っていたのだ。

「兄上、マリア・カタリーナに言っておらなんだのか?」

「う、うむ」

 もしもそのまま目を覚まさずに息を引き取るようなことになっては、いたずらに娘を悲しませるとの思いから、話すことができなかったのだ。

「お父さ……」

 マリア・カタリーナは自らの口元を覆った。
 灰色のドレスを翻す。
 すぐにアウフミラーの元へ向かおうというのだろう。
 リヒャルトも慌てたようにそれに倣った。
 そんな彼女の背に、シュターレンベルクが声をかける。

「お前たち二人とも……」

 さりげなさを装っているが、父親の声は震えていた。

「今夜は一緒に夕食をとらないか」

 ぽかんと口をあけて二人が顔を見合わせる。

「夕食ですか。はい、勿論です」

「あ、あたしは御免だわ。何を今更……」

「何を言うのです、マリア・カタリーナ。あっ、ではこうしましょう。貴女はご自分のお好きな場所で食べたら良いでしょう。そこに私と父上が行きますから。そうしましょう、父上」

「あ、ああ。じゃあそうするか」

 憮然としたようにマリア・カタリーナが兄を睨む。
 だが、その頬は赤く染まっていた。
 対するリヒャルトも、視線がグルグルと泳いでいる。
 ふたりを見やって、落ち着かない様子で厨房を見回すシュターレンベルク。
 視野の端でパン屋がニマッと笑ったのが見えた。
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