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【終章】太陽の手
太陽の手(3)
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※ ※ ※
「ねぇ、パンの気泡が何でできてるか知ってる?」
「あぁ?」
「気泡っていったらパンの生地の中の穴のことだよ。小麦粉のグルテンが膜を作って、その中に炭酸ガスが閉じ込められて、それが発酵で大きくなってできるやつ。知ってるよね?」
知るわけないだろうが。第一、何で出来ているのかと問いながらも炭酸ガスが閉じ込められていると自分で言ってるじゃないか。
開口一番何を下らないことを。
しっかり表情に出ていたその感情を、しかしフランツは見事に無視してくれた。
「空気なんだよ。クウキ! 不思議だよね」
「あぁ?」
「だって今、口を開けても全然おいしくないのに、パンの中に空気が入ると美味しくなるんだよ」
「お前、今ガスって……いや、いい。お前は他にあるだろうが。言うことが」
「えっ、なに?」
いつもの明るい笑顔と声。
彼がパンを作っている間にウィーンは解放された。
両手に抱えた盆に焼き立てのパンを山ほど乗せて、小躍りするような足取りのフランツ。
シュターレンベルクは呆れた。
この期に及んで、何故せっせとパンを焼いているというのだ。
パンより何より、今目の前にいる男は実の姉の敵だと分かった筈ではないか。
「他に言うこと?」
そだ、とフランツは大きな目を更に見開く。
「マリアさんは大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫とは言えんが……今はリヒャルトが付いている」
皇帝の命令により一旦、休息をとることにしたシュターレンベルクは、兵士らを三手に分けて交代で休むよう計らってから王宮の自室へと戻ってきた。
グイードとバーデン伯も同様に交代で休憩するという算段をとり、先にバーデン伯が自身の屋敷へ戻ることにしたようだ。
リヒャルトは、妹が預けられているシュテッフルの大聖堂に行くと言っていた。
アウフミラーの死に衝撃を受けた彼女は虚ろな表情のまま、小さな声で何事かぶつぶつ呟くようになっていたのだ。
──あたしの容姿が醜いのは、あたしのせいじゃあないわ。でもね、あたしの心が醜いのはあたしのせいだわ。
彼を刺した翌日にそんな言葉を繰り返す姿を見て以来、我が娘ながら声をかけることができなくなって、そして今に至っている。
彼女はアウフミラーの残した画帳を胸に抱いて、まるで夢を見るかのように笑っていた。
彫刻の素描の中に一枚だけ、マリア・カタリーナの笑顔を描いた頁があったのだという。
それが娘にとって救いとなってくれるよう、今は祈ることしかできない。
リヒャルトならそんな妹を慰め、精神の安定を取り戻させてくれるかもしれない。
少なくとも、自分が行くよりはずっと良いだろうとシュターレンベルクは考えたのだ。
あとは、彼が意識を取り戻すことができれば……。
「休めと言われてもな……」
だからといって皇帝の言うように素直に寝るつもりはなかった。
どうしようもなく全身が疲労でいっぱいの筈なのに、頭の中だけは目まぐるしく回転していて──つまり都市の開放に、自分も市民らと同じように興奮しているのだと分かった。
王宮の自室にエルミアと瓜二つのフランツがまだ居たことにより、その気分は大分冷めてしまったのだけれど。
「フランスの小麦とはぁ、どうにもバターのなじみが違うんだよね。フランスのはぁ生地の中にバターの旨味が閉じ込められてね。香りと旨みが出るんだけど、こっちのは成形してる時にぃバターがにじみ出てきちゃうんだよぅ」
鼻歌にのせてオーストリアの作物の悪口を並べる。
なじみの悪い小麦を使っていて悪かったなと言いたくなるのを、シュターレンベルクはぐっと堪えた。
目の前のこの少年は、小麦の悪口よりもずっと激しく怒っていて良い筈なのだから。
戦闘の混乱に紛れて市から出て行くだろうと思っていた。
何故ならばシュターレンベルクは部屋の鍵を掛け忘れていたのだから。
少なくとも、この部屋からは消えているものだと。
フランツの立場を鑑みればウィーンの開放などどうでも良いことだ。
シュターレンベルクに復讐を果たす、あるいは二度と顔を合わせたくないと思うのが普通のはず。
「お前、何やってんだ」
だからフランツの鼻歌に、シュターレンベルクは心底驚き呆れてしまったのだ。
「何って~? パン職人のすることはひとつだよぅ」
「うっ……」
鼻歌に乗せての返事に、少々苛つくのは事実である。
まぁ、何をしているかは見れば分かる。
シュターレンベルクの部屋に設置されている机や寝台の上に所狭しと置かれた盆の上には湯気を立てたパンが並べられていた。
解放軍、そしてウィーン守備隊が死闘を繰り広げていた間、小僧は厨房と部屋を往復してせっせとパンを焼いていたらしい。
「みんなお腹すいてると思ってね。思い切って残りの小麦粉を全部つぎこんでみましたッ! ほら、食べなよ!」
「勝手に思い切るな」
「ねぇ、パンの気泡が何でできてるか知ってる?」
「あぁ?」
「気泡っていったらパンの生地の中の穴のことだよ。小麦粉のグルテンが膜を作って、その中に炭酸ガスが閉じ込められて、それが発酵で大きくなってできるやつ。知ってるよね?」
知るわけないだろうが。第一、何で出来ているのかと問いながらも炭酸ガスが閉じ込められていると自分で言ってるじゃないか。
開口一番何を下らないことを。
しっかり表情に出ていたその感情を、しかしフランツは見事に無視してくれた。
「空気なんだよ。クウキ! 不思議だよね」
「あぁ?」
「だって今、口を開けても全然おいしくないのに、パンの中に空気が入ると美味しくなるんだよ」
「お前、今ガスって……いや、いい。お前は他にあるだろうが。言うことが」
「えっ、なに?」
いつもの明るい笑顔と声。
彼がパンを作っている間にウィーンは解放された。
両手に抱えた盆に焼き立てのパンを山ほど乗せて、小躍りするような足取りのフランツ。
シュターレンベルクは呆れた。
この期に及んで、何故せっせとパンを焼いているというのだ。
パンより何より、今目の前にいる男は実の姉の敵だと分かった筈ではないか。
「他に言うこと?」
そだ、とフランツは大きな目を更に見開く。
「マリアさんは大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫とは言えんが……今はリヒャルトが付いている」
皇帝の命令により一旦、休息をとることにしたシュターレンベルクは、兵士らを三手に分けて交代で休むよう計らってから王宮の自室へと戻ってきた。
グイードとバーデン伯も同様に交代で休憩するという算段をとり、先にバーデン伯が自身の屋敷へ戻ることにしたようだ。
リヒャルトは、妹が預けられているシュテッフルの大聖堂に行くと言っていた。
アウフミラーの死に衝撃を受けた彼女は虚ろな表情のまま、小さな声で何事かぶつぶつ呟くようになっていたのだ。
──あたしの容姿が醜いのは、あたしのせいじゃあないわ。でもね、あたしの心が醜いのはあたしのせいだわ。
彼を刺した翌日にそんな言葉を繰り返す姿を見て以来、我が娘ながら声をかけることができなくなって、そして今に至っている。
彼女はアウフミラーの残した画帳を胸に抱いて、まるで夢を見るかのように笑っていた。
彫刻の素描の中に一枚だけ、マリア・カタリーナの笑顔を描いた頁があったのだという。
それが娘にとって救いとなってくれるよう、今は祈ることしかできない。
リヒャルトならそんな妹を慰め、精神の安定を取り戻させてくれるかもしれない。
少なくとも、自分が行くよりはずっと良いだろうとシュターレンベルクは考えたのだ。
あとは、彼が意識を取り戻すことができれば……。
「休めと言われてもな……」
だからといって皇帝の言うように素直に寝るつもりはなかった。
どうしようもなく全身が疲労でいっぱいの筈なのに、頭の中だけは目まぐるしく回転していて──つまり都市の開放に、自分も市民らと同じように興奮しているのだと分かった。
王宮の自室にエルミアと瓜二つのフランツがまだ居たことにより、その気分は大分冷めてしまったのだけれど。
「フランスの小麦とはぁ、どうにもバターのなじみが違うんだよね。フランスのはぁ生地の中にバターの旨味が閉じ込められてね。香りと旨みが出るんだけど、こっちのは成形してる時にぃバターがにじみ出てきちゃうんだよぅ」
鼻歌にのせてオーストリアの作物の悪口を並べる。
なじみの悪い小麦を使っていて悪かったなと言いたくなるのを、シュターレンベルクはぐっと堪えた。
目の前のこの少年は、小麦の悪口よりもずっと激しく怒っていて良い筈なのだから。
戦闘の混乱に紛れて市から出て行くだろうと思っていた。
何故ならばシュターレンベルクは部屋の鍵を掛け忘れていたのだから。
少なくとも、この部屋からは消えているものだと。
フランツの立場を鑑みればウィーンの開放などどうでも良いことだ。
シュターレンベルクに復讐を果たす、あるいは二度と顔を合わせたくないと思うのが普通のはず。
「お前、何やってんだ」
だからフランツの鼻歌に、シュターレンベルクは心底驚き呆れてしまったのだ。
「何って~? パン職人のすることはひとつだよぅ」
「うっ……」
鼻歌に乗せての返事に、少々苛つくのは事実である。
まぁ、何をしているかは見れば分かる。
シュターレンベルクの部屋に設置されている机や寝台の上に所狭しと置かれた盆の上には湯気を立てたパンが並べられていた。
解放軍、そしてウィーン守備隊が死闘を繰り広げていた間、小僧は厨房と部屋を往復してせっせとパンを焼いていたらしい。
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