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カーレンベルクの戦い
カーレンベルクの戦い(5)
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こんなに近く居たのかという思い。
それから──。
「なんでこんな地面の下に……?」
疑問が、悔恨の念と共に押し寄せる。
「僕の姉さんだよ」
「フランツ、すまない」
シュターレンベルクの呟きに、パン屋は静かにうなだれた。
マルギトという名字を、彼女ははじめに名乗ってくれたに違いない。
だが、シュターレンベルクの記憶には残らなかった。
後ろ暗い罪の意識がじわりと滲む。
「僕はパリのパン屋に修行に出たから。だから姉さんとは十年も会ってない。でも、いつも思ってた。姉さんのことを」
誇り高く生きましょうねって、姉さんはいつも言ってた──フランツの呟きが、地面に染みこむ。
「フランツ、すまない……」
愛する女によく似た顔を、シュターレンベルクは直視することができなかった。
記憶をたどるような調子の震え声は、ゆっくりと言を紡ぎ続ける。
「この部屋に入ったとき……窓の向こうに緑色が見えたんだ。優しい色で、僕が大好きな色。最初は宝石が落ちてるのかと思った」
──でも違った。
そこにあったのは懐かしい姉の、無残な亡骸。
「……フランツ、すまない」
よく似ているなんて話じゃない。
双子というわけではないようだが、二人の顔は瓜二つであった。
だが、雰囲気はまったく違った。
エルミアがいつも思いつめたように目元に力を入れていたのとは対照的に、パン屋は底抜けにお人よしの笑顔を浮かべている。
だから、今の今までシュターレンベルクも気付かなかったのだ。
しかし表情を失った死体であれば?
フランツは土の下から現れた自分の顔に肝を潰したのだろう。
「時々だけど手紙のやりとりはしてたんだよ。だから姉さんがウィーンに向かったのは知ってた……」
優しく誇り高い姉からの便りが年々過激になっていくことに、パン職人見習いのフランツは訝しんでいたという。
しかも昨今エルミアは、神聖ローマ帝国によるハンガリー支配についての不満を熱くしたためた長い手紙を寄越すようになっていた。
戦争が始まる直前のウィーンで、彼女は一体何をするつもりなのか。
嫌な予感しかしない。
心配になって訪ねてきたのだと言う。
だが、こっそり探すしかなかった。
工作活動をしているかもしれない姉の名を、まさか大声で呼んで歩くわけにもいかなかったから。
でも従来の奇行が災いして、フランツはウィーンへの入場を拒否されてしまったのだ。
近くの集落に駆け込み、持ち前の人懐っこさで周囲に溶け込んだ。
オスマン軍による包囲に先駆けて田舎に避難したパン職人の代わりとして重宝されたのかもしれない。
水車小屋に住みつき、パンを焼くまでになったのだ。
オスマン帝国軍が近付き、いよいよ村人もウィーン市壁内へ避難した後も、こんなの理不尽だと喚いて立て籠もっていたのはシュターレンベルクも知るところである。
「どういうことなの。教えてよ、シュターレンベルク。何で姉さんは死んでるの? お墓も建てられてなかった。あんなの……土の下に隠したみたい。病気? 事故? そんなわけないよね」
こ、殺された……?
口にするのも憚られるというように、その言葉を囁く。
シュターレンベルクの背がビクリと震えた。
「……すまない」
「シュターレンベルクが謝ることじゃ」
人の好いフランツは反射的に首を振る。
「何で謝るの? シュターレンベルクのせいじゃないでしょ?」
「………………」
長い沈黙。
フランツの額から頬にかけて、肌が色を失っていくのが分かる。
「シュターレンベルクのせいなのかッ!」
「うっ!」
背中に凄まじい衝撃。
疾走する馬にはねられたように、シュターレンベルクは土に叩きつけられる。
フランツが背後から体当たりしたのだ。
そのまま馬乗りになって両手を振り上げる。
勢いつけて手の平を振り落とした。
「グッ……ガッ!」
重い掌底が、シュターレンベルクの胸に打ち込まれる。
肺から空気が逆流し、喉のあたりでゴボッという音を立てた。
さすがパンをこねる手だなんて、この場にそぐわない下らないことを考えてしまう。
それから──。
「なんでこんな地面の下に……?」
疑問が、悔恨の念と共に押し寄せる。
「僕の姉さんだよ」
「フランツ、すまない」
シュターレンベルクの呟きに、パン屋は静かにうなだれた。
マルギトという名字を、彼女ははじめに名乗ってくれたに違いない。
だが、シュターレンベルクの記憶には残らなかった。
後ろ暗い罪の意識がじわりと滲む。
「僕はパリのパン屋に修行に出たから。だから姉さんとは十年も会ってない。でも、いつも思ってた。姉さんのことを」
誇り高く生きましょうねって、姉さんはいつも言ってた──フランツの呟きが、地面に染みこむ。
「フランツ、すまない……」
愛する女によく似た顔を、シュターレンベルクは直視することができなかった。
記憶をたどるような調子の震え声は、ゆっくりと言を紡ぎ続ける。
「この部屋に入ったとき……窓の向こうに緑色が見えたんだ。優しい色で、僕が大好きな色。最初は宝石が落ちてるのかと思った」
──でも違った。
そこにあったのは懐かしい姉の、無残な亡骸。
「……フランツ、すまない」
よく似ているなんて話じゃない。
双子というわけではないようだが、二人の顔は瓜二つであった。
だが、雰囲気はまったく違った。
エルミアがいつも思いつめたように目元に力を入れていたのとは対照的に、パン屋は底抜けにお人よしの笑顔を浮かべている。
だから、今の今までシュターレンベルクも気付かなかったのだ。
しかし表情を失った死体であれば?
フランツは土の下から現れた自分の顔に肝を潰したのだろう。
「時々だけど手紙のやりとりはしてたんだよ。だから姉さんがウィーンに向かったのは知ってた……」
優しく誇り高い姉からの便りが年々過激になっていくことに、パン職人見習いのフランツは訝しんでいたという。
しかも昨今エルミアは、神聖ローマ帝国によるハンガリー支配についての不満を熱くしたためた長い手紙を寄越すようになっていた。
戦争が始まる直前のウィーンで、彼女は一体何をするつもりなのか。
嫌な予感しかしない。
心配になって訪ねてきたのだと言う。
だが、こっそり探すしかなかった。
工作活動をしているかもしれない姉の名を、まさか大声で呼んで歩くわけにもいかなかったから。
でも従来の奇行が災いして、フランツはウィーンへの入場を拒否されてしまったのだ。
近くの集落に駆け込み、持ち前の人懐っこさで周囲に溶け込んだ。
オスマン軍による包囲に先駆けて田舎に避難したパン職人の代わりとして重宝されたのかもしれない。
水車小屋に住みつき、パンを焼くまでになったのだ。
オスマン帝国軍が近付き、いよいよ村人もウィーン市壁内へ避難した後も、こんなの理不尽だと喚いて立て籠もっていたのはシュターレンベルクも知るところである。
「どういうことなの。教えてよ、シュターレンベルク。何で姉さんは死んでるの? お墓も建てられてなかった。あんなの……土の下に隠したみたい。病気? 事故? そんなわけないよね」
こ、殺された……?
口にするのも憚られるというように、その言葉を囁く。
シュターレンベルクの背がビクリと震えた。
「……すまない」
「シュターレンベルクが謝ることじゃ」
人の好いフランツは反射的に首を振る。
「何で謝るの? シュターレンベルクのせいじゃないでしょ?」
「………………」
長い沈黙。
フランツの額から頬にかけて、肌が色を失っていくのが分かる。
「シュターレンベルクのせいなのかッ!」
「うっ!」
背中に凄まじい衝撃。
疾走する馬にはねられたように、シュターレンベルクは土に叩きつけられる。
フランツが背後から体当たりしたのだ。
そのまま馬乗りになって両手を振り上げる。
勢いつけて手の平を振り落とした。
「グッ……ガッ!」
重い掌底が、シュターレンベルクの胸に打ち込まれる。
肺から空気が逆流し、喉のあたりでゴボッという音を立てた。
さすがパンをこねる手だなんて、この場にそぐわない下らないことを考えてしまう。
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