クロワッサン物語

コダーマ

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指揮官の誇り

指揮官の誇り(7)

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「で、では頼む。降伏に応じる意思はあるが、城内がまとまらない。もう少し時間をくれなんて内容の手紙、お前に書けるか?」

「あぁ?」

 ほら、見る間に伯の額が青ざめ、それから面白いように赤くなった。

「……それはつまり、援軍が来るまでの時間稼ぎってことだな?」

 この男、思ったほど馬鹿でもないらしい。

「それもある」

「も?」

 バーデン伯は肩までの高さがある陵堡の壁面に紙を広げ、右手にペンを握り締めた。
 いつでも書き出せる体勢だ。
 そんなバーデン伯に向かって、シュターレンベルクはゆったりした口調で思惑を説明した。

 戦時のオスマン帝国には以下のような規則がある。
 敵地を力づくで奪った場合、戦闘に参加した兵士には略奪が許される。
 それも三日もの間。
 しかしその前に相手が降伏して市の明け渡しに応じたなら、最高司令官がその街の財宝を管理する権限を得るのだ。

 ウィーン市内の物資、財宝はカラ・ムスタファ・パシャにとっても魅力的な筈。
 独り占めしたいに決まっている。
 そのためにはウィーンには玉砕ではなく、降伏してもらわなくてはならない。

 三十万もの圧倒的兵力で囲んでいながらも、カラ・ムスタファが積極的な攻撃をして来ないのにはそういった思惑もあるはずだ。
 その兵力を使って本気で攻めれば、いかに壁が堅固なウィーンであっても、こうやって二か月も持ちこたえることは難しかったろう。

 バーデン伯は指揮官がそらんじる文章を違えず書き記してくれた。

「バーデン伯よ、気にすることはない。怪我は本当に大したことないからな」

 彼の視線が、ともすれば己の腕に注がれていることに気付き、シュターレンベルクは軽く手を振ってみせた。
 正直、この腕一本でウィーンの誰かの命が助かるのなら安いものだと思う。
 それに、軍人にとって大層な怪我でもないとシュターレンベルクは笑う。
 暴発により破損した銃の破片が腕を掠めただけだ。
 痛みは未だに残るが、堪えるのが難しいというものでもない。
 むしろ痛いのは──と視線を落とす。

「俺は足も不自由だ」

 腕の一本くらいと思うのは、左足のことが念頭にあったからだ。

「そ、そうは見えねぇが……」

 バーデン伯が指揮官の足を凝視する。
 時折足を引きずっているのは確かだが、馬に乗ることにも戦うことにも制限を受けているようには見受けられない。

「痛風なんだよ。今は大分良くなったがな」

「痛風か」

 食糧事情の悪いこの時代、その病気はあまり知られてはいなかった。
 例外はあるが、節操のない富裕層の豪華すぎる食事が原因となって発症することが多く、足に激痛が走り、ひどい時には歩くことすら敵わない状態となる。
 名門貴族の跡取りとして生を受けたシュターレンベルクは、何の疑問もなく贅沢に慣れ、豪華な食事や間食を食べていた。
 結果、若くしてこの病気に苦しむこととなったのだ。

「初陣の時にはもう足を引きずっていたからな。子供のころはコロコロに太っていたし」

 そんなの、貴族の間じゃよくある話だろうという表情でこちらを見やるバーデン伯。

「世間を知らなかったんだ。多くの人の暮らしぶりをな。それは、俺の責任だ」

 戦場の常だ。
 死体の山と耐えきれない腐臭。
 戦地周辺の集落の惨状を目の当たりにして、初陣のシュターレンベルク少年は衝撃を受けた。
 都に戻ってからも一か月もの間、水以外何も口にできなくなり痩せた。

「粗末な家に住んでいるのに、ある日突然それを焼き払われる民がいるなんて知らなかったんだ。彼らが普段、どんなものを食ってるかすら……」

 別に清貧を心掛けたつもりはない。
 首都に屋敷を構え、貴族として体面を整える必要もある。
 ただ、自分の手元に余っている金は無駄だと気付いただけだ。
 それは今日、生活に苦しむ者が使えば良い。
 施しというのはおこがましいが、ウィーン市民に対して出来るだけのことをしようと決めた。

 ここ数年は彼らの安全に寄与する壁の完成のために私財を投じ、防備を整えることがシュターレンベルクの優先事項となったわけだ。
 その代わり、肝心の家族を壊してしまったかもしれない。

 いずれにしても、豪華な椅子に座っていたら見えないものもあるってことだ──そう締めくくろうとしてシュターレンベルクは、しかしそこで口を噤んだ。
 装飾された薄ら寒い言葉は自分に似合わないと思ったから。

 気付けばバーデン伯は俯いてしまっていた。
 書いた手紙を広げたり丸めたりという動作を繰り返している。
 篝火が照らし出す伯の額が心なしか色を失って見え、シュターレンベルクはわざと乱暴に右手を彼の前に差し出し書状を受け取った。

 文字の大きさがそろった見やすい文面だ。
 本人の柄は悪いが、この辺りに育ちの良さが表れるものなのかとシュターレンベルクは少々感心してしまった。
 降伏への含みを持たせて敵指揮官の物欲をくすぐり、時間を稼ぐ。

「まどろっこしいだろうが。出来る事なら、これ以上誰にも死んでほしくないんだよ。この市にいる者みんな……」

 死んだ者、生きている者──様々な顔が脳裏を過ぎる。
 シュターレンベルクは激しく首を振った。
 感傷に浸っている場合か。冷静になれ。やるべきことは多くある。

 ひとまずバーデン伯に礼を述べて、その書状に自分の署名を書き入れよう。
 それから使者に持たせて、確実に敵軍総司令官の手に渡るように……。

 その時だ。

「父上っ、こちらにいらしたのですか!」

 耳にキンと刺さる響き。
 この声はよく知っている。
 陵堡の下から指揮官の姿を見付けて、叫んでいるのはリヒャルトであった。

 久々だな、今までどこで何をしてたんだという言葉が口から迸らなかったのは、理性の力ではない。
 リヒャルトの声が震え、切羽詰まっているのが分かったからだ。

「どうかしたか」

 階段を下りたところでリヒャルトが手を差し出す。
 彼が小さな何かを握り締めているのは分かった。
 反射的にそれを受け取ってから、シュターレンベルクは見慣れたその包み紙に怪訝な視線を落とす。
 それは蝋で塗られた紙に包まれた火薬と弾丸であった。
 マスケット銃の装填に使用する分包だ。

「市長殿が亡くなられました」

「は?」

「ベッドの上で、最後までその包みを作り続けていらして……っ」

 そこで初めてリヒャルトは声を詰まらせる。
 シュターレンベルクはようやく気付いた。
 息子の目が真っ赤に充血していて、頬に幾筋もの涙の跡が残っていることに。
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