クロワッサン物語

コダーマ

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【第三章 パン屋の正体】願いは儚く

願いは儚く(8)

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 シュターレンベルクの目配せで、グイードがアウフミラーを抱え上げたのだ。
 だらりと落ちた手が力なく揺れ、彼の死を予感させた。
 医者を呼ぶ気配もない。
 無言で部屋を出て、階段を駆け下りる足音。

「恐らく助からん」

 足音が消えたところで、シュターレンベルが首を振る。

「で、でも……間に合うかもしれません。急いで手当をすれば。だって、そうじゃなきゃあまりにも……」

 あまりにも妹が不憫ではないか。
 ユラリ。リヒャルトが口にした微かな希望を吸い尽くすように、灰色の女がその場に立ち上がった。

 先程まで短剣の柄を握り締めていた手に、今度は画帳を抱えている。
 踊るような指先が、はらりと頁を繰った。
 ちらりと見えた頁には、どれもシュテッフルの塔や教会を彩る装飾の絵が細かく描き込まれている。

「これがペストの慰霊塔の絵なのね。亡くなったお母様の魂を慰めようという……」

 とろりと崩れてしまいそうな響きの声。舐めるようにそれらを見ていた灰色の目が、ある一か所にくぎ付けになる。

「……これは何故かしら」

 興味に駆られたというわけではない。
 だが引き寄せられるように、リヒャルトは妹に近付く。
 マリア・カタリーナの危うい口調は、どうにもそこを覗き込まざるを得ないような力を持っていたのだ。

 そこに描かれていたのは、塔のような風景を描いた線画であった。
 ペストの慰霊塔の作画というのも納得だ。
 繊細な装飾で縁取られた絵は、小さな画帳であっても壮麗な静けさを感じさせる。
 聖書の内容を絵に起こしたものや、ペストに見立てた悪魔の姿、そしてそれに討ち勝つ天使の姿が繊細な筆致で描き込まれている。

 マリア・カタリーナの細い指が示していたのは、その中でもとりわけ視線を惹きつける天使らしき人物の顔であった。

「何でこんなに似てるのよ……」

 恨みがましい低い声。
 描かれた天使とは似ても似つかぬ女は、帳面を指先でトントン叩いた。
 似ている? どういうことだ。

「あっ……」

 美貌の天使を見つめるうちに、リヒャルトの胸にもじわりと寄せてくる不信感。

「この天使の絵……包囲が始まった日にアウフミラーが描いていたのを、あたし見たわ。その時、あんたはまだこの町にいなかった」

 あの時、マリア・カタリーナは初対面である筈の彼にこう言っていた。

 ──どこかで会ったことが?

「おかしいと思ったのよ。あんたの顔には見覚えがあったから。でも、どこで会ったかは全然思い出せない。まさか絵の中の人間だったなんて思いもよらなかったわね」

 フランツ──名を呼ばれると、その場の全員がパン・コンパニオンを凝視した。
 帳面の中の人物は、優美な曲線が表す輪郭、そしてそれを縁取る柔らかな髪を持ち合わせていた。
 思慮深く見える大きな瞳、美しく優し気なその容貌。
 触れるとぬくもりを感じそうなほど写実的な線画なだけに、それは生々しく迫る。

 そう、その顔はフランツと瓜二つであったのだ。

「あんた、父に連れて来られる以前に市内に来たんでしょう。少なくともアウフミラーとは会っていた。でなきゃ、アウフミラーがあんたの顔を絵に描けるわけないもの」

 うそだろう……とシュターレンベルクが呻く。
 だが、それを否定する材料はここにはない。
 ただフランツを見詰めるのみ。

「ち、違うよ。僕、シュターレンベルクに連れられて初めて壁の中に入って……アウフミラーに会ったことなんてそれまで一度もないよ」

 では何故、天使とフランツはこうも似ているのだ。
 フランツを見ながら描かれたとしか考えられないではないか。

 突然、劣勢に立たされたフランツは助けを求めるように指揮官の方へにじり寄る。
 だがシュターレンベルクは次の瞬間、パン屋にとって致命的となる一言を放った。

「何故、俺の名を知っていた」

「えっ……?」

「あっ」とリヒャルトも声をあげる。
 グイードと顔を見合わせ、戸惑いと驚愕を共有していることを感じ、そして疑惑を確信する。

 ──シュターレンベルク様。

 グラシの集落にたった一人で立ち籠っていたフランツ。
 保護し、街に連れてくるあの時、フランツは確かにこう言った。
 指揮官に対して。

 ──僕、シュターレンベルク様の役に立つよ、と。

 しかし、思い返せ。
 あの時、指揮官は己の身分も名も、この小僧に明かしてはいなかったではないか。

 ならば周囲の者の呼びかけを聞いて知ったのでは?
 いや、それはありえない。
 あの場にいたのはグイードとルイ・ジュリアス、そしてリヒャルトの三人だ。
 それぞれ指揮官のことを兄上、閣下、父上と呼ぶ。

 たしかにシュターレンベルクは名門貴族の長で、今回はウィーン防衛司令官の任についた実力者として他国にも名が知られていよう。
 だが、軍人でもない他国のパン職人がその人物の顔を知る機会はまずあるまい。
 ましてやあの状況。
 最高司令官が若者二人を供に、グラシの小屋撤去のための説得に現れるなど誰が想像しよう。
 つまり、フランツはあらかじめシュターレンベルクの顔と名前を知っていたことになる。

「ぼ、僕は前からシュターレンベルクを知ってたんだ。だって、会ったことがあるから。本当だよ。ねッ、シュターレンベルク!」

「………………」

 返事がないことに、フランツは涙ぐんだ。

「本当だよ。覚えてないの?」

 いい加減なことを言うなとグイードに怒鳴られ、それでも尚も食い下がろうとするフランツ。
 黙り込んだ父が衝撃を受けていることは、リヒャルトには痛いほどよく分かった。

 そしてマリア・カタリーナの思いも。
 この場で最早忘れ去られたように立ち尽くし、帳面の中の線を震える指先でなぞっている。
 彼女の願いはささやかなものであった筈だ。
 しかしその願いは、ここに儚く消えたのだ。
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